生き延びるための忘却

 
2021/3/24 寄稿

1.生き延びるための忘却Ⅰ

 さて、私自身、人生の苦難においても対人関係においても、「忘却」することの大切さを日々感じております。ゲーテを研究されている、ある先生からお聞きした考察ですが『ファウスト』では、第二部の始まりで妖精から起こされ、それまでの物語つまり第一部を忘却しています。『ファウスト』こそ二重の意味が多く重なる物語でありますが、このシーンでは「忘却をしないとまた物語が始められない。そしてまた人生においても忘却しなければリスタートすることができない。」という旨を示しています。これは非常に示唆的で、あの、まず断ることは飽くまで私が生き延びる術としてであり、決して押し付ける意図はないのですが(それを強要することは暴力になってしまうので)、たとえば対人関係において、私は出来るだけ何事も根に持たないようにしています。ああ当然、トラウマのように自分がコントロールできないものに関しての言及ではないですよ。危害的なことに関してはむしろ私は、忘却できない自分の存在を、そのまま認めること、肯定することも大切なのではと考えています。この場合のイシューは「日々起こる些細な対人関係の課題」ですね。

 「忘却」に関して人生の苦難と対人関係、二つ議題がありますが、まずは対人関係ですね。「忘却」は対人関係においてそのまま「赦す」ことに等号が成り立つのではないかと考えます。小池一夫先生は呟きで、「この世の醜いことはほとんどが赦せないことが原因であり、自分も他人も赦すことが人生の呪縛から解き放たれ自由になる術だ。」という旨を述べています。全く同感で、自分がいま醜いなと感じているときは往々にして何かを「赦せていない」ときでした。20代が何を言う、と思われるでしょうか。年齢に関してのパラグラフも考えておりますので、その際はもし良ければご一読ください。

 それから、決して誤解いただきたくないのが、これは「私の今までしたことを赦して欲しい」という趣旨ではないのです。私はいまでも赦されているとは思わないですし、現時点で赦されていなくてもその事態をひとまず忘却して前に進む、という立ち位置に居ます。それほど赦すという事態は困難であり、だからこそ争いが絶えないわけです。ただ自分が生き易くなったスタンスとして、自分が受動側として赦すことすなわち忘却することが大きなウエイトを占めるのでありました。何より、怒りに囚われている状況はとても辛いです。自分を守るために私は忘却という手段をとり、怒りを手放します。手放すと、もはや自分のなかで増殖していた怒りの細胞集合体から距離が取れ、いくぶん俯瞰して見られるようになります。自分という怒りの主体を死なすことができれば、その主体から栄養が取れなくなるので、怒りはシワシワとしぼんでいきます。

 フランクルの形容を借りて、自分が尊敬して仰ぎ見る大切な方々というのは、既にそういう視点でもって、自分と対峙してくださっている方々です。自分がこれまでしたことを「忘却」して、肯定的に接してくださっているんですね。上記のことは、そうした忘却による関係性の可能性に大変感動して、記述している面が大きいです。当然、赦されることや忘却されることに甘えない姿勢が、そのまま相手の尊厳の尊重につながります。いやいや、仕事だからそう接しているんだよ、という考えがあっても私はそれでよいのです。大切なのは、そうした懐の深さに胸を打たれたという主観的事実であって、私はそこに対して何より素直でいたいのです。

 
2.生き延びるための忘却Ⅱ

 思いのほか一つ目の議題で熱く語ってしまったので、もう一段落作らせていただきます。それから次に人生の苦難に対する忘却ですね。結構主語が大きいですが進めてみます。その前にちょっとお昼ご飯を食べます。
 戻りました。さて、こちらの議題もその年齢で何が解るのだと思われるかと存じますが、ぜひちょっと「誰が言うか」という前提を外して、お目通しくだされば幸いです。私は物心ついたときから繊細で神経質でした。それだから、よく些細なことで落ち込んでいました。いま思えば、それこそそんなメンタリティでよく生き延びられたなと思います。しかし短所には必ず長所が孕んでいるように、些細なことで落ち込むことは私にひとつの財産をもたらしました。それは病み慣れることでした。
 
 最初に説明いたしますが、これは「病みや挫折から生還した物語」としての繰り返されるナルシシズムではなく、生きるうえで病んだり挫折したりはもはや避けられないなかで、それらを想定したうえで、ではそこからどう立ち上がるか、どう事態を捉えるのかにフォーカスをあてた方が現実的だと思うのです。外的な挫折はあまりないにしても、内的な挫折は繰り返し訪れるものだと考えています。そしてもう一点、人が人生のうちで彷徨い何か救いの言葉を求めるとき、なかなかその目当ての言葉に出会えることはありません。それはある人にとっては響いても、この人には響かないといったように、感性が存在する以上は「一生モノの言葉や考え」という出会いは、何か運命の出会いのように稀有なことだと感じるからです。私の一貫した趣旨というのは、様々な考えを提示したうえで、何がしかの際に採用していただければという動機に基づきます。

 さて遅ればせながら本題に入ります。挫折や憂うつが常という前提をとると何か、フランツ・カフカのようではあります。体験知として、恐らくこれまで生き延びられてきたのは、病むことや挫折することに慣れること、また回復していても挫折や絶望とは腐れ縁だという認識に立つこと、この世は諸行無常であるから幸せも不幸も繰り返してくること、希望が見えてきたらきちんと憂うつとお別れすること、その意味でその都度襲い掛かる絶望を忘却することができたから、またそれらを迎え入れることに慣れることができて、上手に付き合うことが出来るのではないかと思われます。原理的に、誰しもこれまでの苦労や嫌なことを一つ残らず覚えていたら思い出に殺されてしまいます。もちろん、そんなに簡単なことではないのは重々承知しており、「慣れる」ことができた私はたまたま運が良かっただけという視点も存在します。 

 『ファウスト』においては、グレートヒェンとの悲劇をそのままファウストが引きずっていれば、また第二部は全く異なった位相になっていました。しかし一度きちんと忘却してまた新たな物語を歩き出したからこそ、ヘレナとの出会いやマクロコスモスとの出会いに繋がっていったと考えます。物語の最後にファウストが息絶えるとき、魂の救済としてグレートヒェンが現れ祈りを捧げます。そこで「赦される」ことによって、ほんとうの意味でファウストは昇天することができました。つまり、物語として人生を概観したときに、一度忘却をするからこそ、その彼方へいった事象と向き合えるのだと捉えることもできます。「人生を物語として捉えるとは、いささか突飛じゃないか」と怪訝に思われる方もおられるかもしれませんが、ここまで着色を重ねないにしても、まさにグレートヒェンは実在の人物がモデルとなっているといわれています。そして、ゲーテ自身が死を迎える直前にこの『ファウスト』が完成したことからも、物語と人生は重ね合わせられるものだと見ることもできます。その意味でも、生き延びるためには忘却することが不可欠だと、いま私は考えているのでありました。

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