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変な人 (14)丸の内線のシェルパ男

 カバンが宙に浮いていた。

 朝の9時半に会社で打ち合わせがあるため、通勤客で混みあう丸の内線に乗っていたときのこと。
 混雑のため、大好きな本を開くこともできず、降りる客、乗る客の潮の満ち干きに揉まれるように、ただ呆然と電車の揺れに身を任せているときだった。
 カバンが人々の頭上をこちらに向かって近づいてくるではないか。
 それはサラリーマン御用達の、A4サイズが楽々入る、黒くて分厚いソフトな布地のショルダーベルトつきのカバンだった。
 もちろん、本当に空中を飛来したわけではない。
 その空飛ぶカバンの下には、薪などを頭にのせて運ぶ京都の大原女おおはらめ、あるいは頭の上に水がめを乗せて運ぶアフリカ女性のように、カバンの両サイドをグワシと掴み、頭上に掲げる男がいた。
 多少の誤解は覚悟しつつ(厳密には運び方が違うから)、厳しい環境で荷物運びに挑む男性という意味で、彼をシェルパ男と呼ばせていただこう。

日本では日常的に見ることがなくなった、頭上運搬。
アフリカでは、頭上運搬は普通のこと。

 30代。髪短め。ごく普通のスーツを着た、どこといって特徴もないサラリーマンだった。
 しかし、うーん、変だ。
 変な人ではないのだろうが、自ら、うっかり変な状態に陥ってしまっている。
 そう。気持ちはわからないこともないのだ。
 彼は、混みあう車両の中では、自分の分厚いカバンが非常に迷惑なものになると考えたのだろう。
 たしかに、その分厚いカバンを肩からぶら下げていれば、まわりの人々に窮屈な思いをさせることになる。
 乗り降りの時には、カバンに人や荷物が引っかかり、強引に動こうとすれば争いごとのタネとなる可能性だってある。
 それじゃ、手にぶら下げればどうなるか。
 ポジションが低くなった分、まわりの人の邪魔になることはなくなるかもしれないが、手の位置はちょうど女性の臀部あたりで固定され、電車の揺れによっては、これもあらぬ疑いをかけられる危険性をはらんでいる。いかん、絶対にいかん!
 男30代、まさに働き盛り。社会人としていよいよ充実する今日この頃。通勤電車の荷物で人様に迷惑をかけ、さらにあらぬ疑いまでかけられる危険を冒す、そんなことなどできない! できはしない!
 かくなる上は、絶対にジャマでなく、疑われもしない最後の聖域、「カバンは頭上」にて乗車!
 働き盛りの男は、最後にこう判断したのではないか。
 そうに違いない。
 シェルパ男は、頭上にカバンを掲げたまま、人に押されるようにドア前スペースの中央に進出している。
 ところで、みなさんもご存知だろう。混んでいる車中で、一度上げた腕を誰にも迷惑をかけずにノーマルポジションに下げるのは、実はたいへん難しいということを。
 ま、彼の場合、意図してそんなポジションを選んだわけであるが、その結果、彼が予想もしなかった新たな状況が起こってしまった。
 両手でカバンを持ち上げるということは、腕とカバンによる身体まわりのガードがきれいに取り払われることを意味する。
 つまり前後左右がノーガードとなった彼には、周囲の圧力に押された老若男女が否応いやおうなくピッタリと張り付くことになる。彼の胸に、そしてわき腹に……。
 ピタリと張り付かされた人々は、とても迷惑そうな顔をしている。
 右側にいる若い女性は、よりによってシェルパ男の脇の下にピタリともぐりこむことになってしまった。朝っぱらから、まるで車中迷惑いちゃいちゃカップルのような立ち位置を強要され、小じわができてしまいそうなくらいのシカメっ面をしている。
 もういいぞ! シェルパ男。キミの気持ちはわかるが、その気持ち、まわりには伝わっていないぞ。揺れの瞬間を狙って、その手を下ろすんだ! シェルパ男ー!
 シェルパ男を見ながら、なぜか優しい気持ちに包まれた私は、心の底で声を出し続けるのであった。

 (つづく)


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