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ビートルズ風雲録(20) ハンブルクでの激務と強制帰国

若い時の苦労は買ってでも、とはいうものの、ビートルズのそれは大変なものだったようです。


インドラ・クラブでの毎日

インドラ・クラブでステージをこなす我らがビートルズ。
8月17日~10月3日まで48日間。平日は4時間半、土日は6時間。一日も休みなし。
これは基本スケジュール。
10時間を超えるのも日常茶飯事だったとか。
相手は酔っ払いの船員と風俗店勤務の女性がほとんど。もちろん演奏を聞くなんてのは、二の次です。

なんでもいいから、とにかく派手にやってりゃいいんだよ。
俺たちを楽しませられるかい、おにいちゃん?

手ごわい相手、ハンブルクにたむろする船員たちは、世界の荒海を跨いで生きる男たちです。
時代の最先端の情報だって、案外把握しているのですよ。
お気に入りはアメリカのロックンロール。
しみったれた古臭い歌は聞きたくない。
派手で、ワイルドで、うるさい音楽がだーい好き!
雇い主のブルーノ・コシュミダーもメンバーに発破をかけます。
「盛り上げろ! もっと盛り上げろ! Mach Scha!!」

歌は、シャウト! とにかくシャウト! アクションも必須です。
ステージで暴れまくるビートルズ。
歌唱技術も、演奏技術も爆上がりです。
最強のライブ・バンド、ビートルズは、ここハンブルクで育てられた、というわけです。

ジョン・レノンはこう語っています。
“I didn't grow up in Liverpool. I grew up in Hamburg.”
僕はハンブルグで育ったのさ。リバプールじゃない。

スチュアート・サトクリフは、手紙にこう書いています。
「アラン・ウィリアムス(マネージャー)は、リバプールには私たちに勝てるグループはないと言っています」

酔っ払い客を店に呼び寄せ、引き留め、店の売上を上げるために、轟音とアクションで必死で演奏するビートルズ。
1曲あたり20分も演奏する特別アレンジ。
ジョンもポールも、自分たちの腕がどれほど上がっているか、そんなことを考えている暇はなかったでしょう。

このビートルズの派手な演奏が問題を引き起こします。クラブの上に住む女性が騒音について警察に通報してしまうのです。
ビートルズは音量を下げるように指導されます。おとなしい演奏では船員たちを満足させられません。
それでも「うるさい!」という苦情が周囲から殺到し、ついにインドラ・クラブは閉店となります。
そもそもカイザー・ケラーが人気で、客をさばききれなくなったために急ごしらえで用意されたのがインドラ・クラブです。コシュミダーはインドラ・クラブを元のストリップ小屋に戻しました。

ビートルズは10月からカイザー・ケラーで演奏することになりました。

出会いと別れ、そして帰国

カイザー・ケラーでは、同じころにハンブルクにやってきていたリバプールの人気バンド、ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズが出演していました。このバンドのドラマーが、ご存知、リンゴ・スター。

さて、リンゴが不慣れなハンブルクの町を一人とぼとぼ歩いていた時のちょっとしたエピソードです。
路上で偶然出会ったスチュワート・サトクリフ。初対面にもかかわらずリンゴをカフェへ連れて行き、空腹の彼にパンケーキをご馳走してあげました。
これが縁で、ビートルズとリンゴの交流が始まります。
当時のビートルズのドラマー、ピート・ベストがときどきライブをすっぽかすことがあるので、そのときにリンゴが助っ人となることもありました。
ジョンとポールは、リンゴのドラマーとしての確かな腕を認めていました。
ポールは、初めてリンゴが参加したときのことを語っています。思わずジョンと目を合わせた。こいつはすごいドラマーだ。

この頃のことです。
ある日、女性カメラマン、アストリッド・キルヒャーが恋人のクラウス・フォアマンに誘われてカイザーケラーを訪れます。
演奏していたのはクラウス・フォアマンのお気に入り、ビートルズ。
これをきっかけに彼女はメンバーの写真を撮るようになります。
そして、ベースを弾いていたスチュアート・サトクリフと恋に落ちるのです。

キルヒャーの友人、ユルゲン・フォルマーは変わった髪型をしていました。
後に「モップ・トップ」と呼ばれる、ビートルズのあのヘアスタイルです。
ビートルズが真似た彼のヘアスタイルが、世界中に物議を呼び起こすことになります。

また、キルヒャーの陰影を活かしたビートルズのポートレートは、のちのセカンド・アルバムのジャケット撮影に明らかな影響を与えました。
当時のビートルズの面々を撮影した有名な写真がこれです。

クラウス・フォアマンは、ミュージシャン、デザイナーとして活躍。のちにビートルズの傑作『リボルバー』のジャケットデザインを手がけ、グラミー賞のベストデザイン賞を受賞しています。

こんな才能豊かな人々と出会うのも、ビートルズのメンバーそれぞれが多くの人を惹きつける強力な磁力を有していたということでしょう。

ライブの実力も人気も出てきたビートルズ。
カイザーケラーだけでなく、新規開店のトップテン・クラブとも出演契約を結びます。
契約金の上乗せもあったのでしょう。
ブルーノ・コシュミダーとトップテン・クラブの経営者ペーター・エクホルンとは、仲がいいとはいえない状況でした。トップテン・クラブはカイザーケラーとは競合関係にあります。
基本的にケチなコシュミダーは、面白くありません。
ビートルズに今以上のギャラを払う気もありません。
契約解除! コシュミダーの結論です。
それだけではありません。ジョージが年齢的にクラブで働くにはふさわしくないことを警察にリーク。
18歳でしたからね。そもそも労働ビザなどもっていないメンバーたちです。
一発強制退去です。ここでジョージ、帰国。1960年11月21日。
退去前に、ジョージはジョンにギターパートを教えます。ポールもいるから、なんとかなるさ。

残ったメンバーはトップテン・クラブの屋根裏部屋に引っ越すことになりました。
引っ越しの準備をするポールとピート。
暗い部屋だったので、明かりを取ろうとして火をつけ、小さなボヤを起こします。
怒り狂ったコシュミダーが警察に通報。二人は放火犯として逮捕され、翌日強制退去となります。
ここで、ポールとピート、帰国。ロンドン空港に着いたのは1960年12月1日。
残ったジョンとスチュ。
ポールとピートの帰国後、十日ほどしてジョンも帰国します。
スチュは恋人アストリッド・キルヒャーとドイツに残ることを決断します。
スチュ、ビートルズを一時脱退。

結果的には散々なハンブルク遠征でした。お金もろくに残っていません。
ほとほと疲れ果てた。そんな感じだったと思います。

帰国後、ポールは父親から「まじめに働け!」と言われ、マシー&コギンズ社というコイル巻き工場で働き始めます。ポール、それでいいのか!?

すっかり意気消沈のビートルズ。さて、彼らのその後の運命や、如何に。


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