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ヤメル講座 (14) ゲームをヤメル

「退屈」しのぎといって、
わずかな自由時間を“つぶして”いませんか?

大人も子どももみんな夢中?

ゲーム端末、携帯電話にパソコン。それぞれに役割や使う場面は異なるものの、1つ共通した点があります。それは「時間つぶし」に非常に有効で、しかも、その大きな部分を、ゲームに頼っているところです。
私たちの身のまわりに、もはやあたり前のように存在しているゲーム。電車内で座っている10人1列のなかで、眠る人3名、携帯でメールをする人3名、マンガや本を読む人1名、そして、ゲームに興じる人は確実に3名はいるでしょう。
公園に行けば、男の子3人くらいが片隅に集まり、身体を動かして遊ぶでもなく、頭を触れるくらいに接近させて、何やら行なっています。これも、携帯ゲーム端末の無線機能を使って対戦している、おなじみの姿。
レストランで親子4人、2人の子どもは店に入って席に座ったとたん、会話もせずに黙々とゲーム機に顔を落としています。
このような光景ばかりを目にすると、「昔はこんなところでマンガを読んでいるだけで、親は叱ったものだ!」などと、オジサン世代ならノスタルジーがかった発言のひとつもしたくなるもの。
何もそこまでさかのぼらなくとも、背中をまるめ、顔を落としたまま会話さえせず、指先だけがピクピク動いている子どもたちの姿を見ると、少なくとも、ここから「素晴らしい大人が育っていく」といった連想はしにくいものでしょう。
そのせいか、世のなかの悪い出来事を、何かと「ゲームのせい」にしたがる傾向も確かにあります。曰く、
 
・ほんとうの体験ができない
・ゲームのなかで、平気で人を殺す感覚を持ち、それが現実と見境がなくなって犯罪につながる
・リセット感覚で安易に死を選ぶ
・対話、コミュニケーション能力がなくなる
・苦労して学ぶ体験がなくなる
・長く我慢することができない
・人の話さえ聞かない
……などなど
 
少年犯罪や非行、学力の低下、座っていられない子どもの存在、教育現場の崩壊、ガキ大将の不在まで、その一因として、ゲーム自体やゲームをたくさんやった親世代までもが取り沙汰されます。
また、「ゲーム脳」というものもあります。
「ゲームをやる時間が長いほど、脳の前頭前野(人の感情などをつかさどる場所)の活動低下が大きい。それがずっと続くと、脳の活動が回復しない」と、とくに子どもの脳の成長を阻害する「犯人」として、ゲームが取り上げられていたりします。
日常のいたるところで、黙々とゲームに熱中している子ども、あるいは、ゲームをするイイ年した大人の姿を目にしている人たちにとって、それはけっして“健全”とはいえない姿であるだけに、その「悪」を証明してくれるような説は、とても飲み込みやすいもの。自分自身も含め、「やりすぎてはいけない」と当然のように思っていたりもします。
ところが、「やりすぎてはいけない」とは思うものの、一方で、不思議と「やめよう、ゲーム機を捨てよう」という話にも、けっしてなりません。
ゲームは1日1時間以内にしよう! やたらと殺すゲームは良くないよね! ひたすら打ち落とすだけのシューティングゲームもちょっと考えもの! でも、学習ゲームだとか身体を動かす「Wii Fit」なんかは、比較的いいんじゃないかな? などと口のなかで、もぐもぐと言葉を選びつつ、結局は膨大(ぼう だい)な時間をゲームのために費やしていることになります。それは、子どもたちには「ゲームは1時間!」といいつつ、自分自身が(子どもほどではないにせよ)充分ゲームのお世話になっているためかもしれません。
これでは、タバコを吸いながら生徒の喫煙を怒る先生、汚い言葉で子どもの言葉の汚さを叱る大人、のようなもの。
ここはひとつ、キッパリやめてしまう! という方法を、一度検討してみてはいかがでしょう。

なぜゲームをやめたほうがいいのか?

ゲームをやめたほうがいい、それはなぜなのでしょうか?
その前に、やはり考えてしまうのは、「なぜゲームをやらなければならないのか」ということです。
理由の多くは、単純に「おもしろいから」かもしれません。「やらなければならない」のではなく、「やりたい」のが理由です。ゲームには、やらなければならない理由など存在しません。
そういった意味では、少々乱暴ではありますが、ゲームはタバコと似ているともいえます。タバコも「なぜ吸わなければならないのか」という問いに対する答えがありません。しかし、「吸いたいから」という別の抜き差しならない理由によって、年間数兆円を売り上げています。
ならば、タバコのせいで健康が確実に蝕まれるように、ゲームによって“犠牲”になっている何かがある、と考えられないでしょうか。
まずいえるのは、時間について。「テレビを観るのをやめる!」(P007)の項でもお話しましたが、1週間のうちで純粋に自分の時間といえるのは、わずか65時間。もしゲームのほかに、テレビをごくふつうに楽しんでいるとしたら、そこからさらに19時間あまりが消費されています。つまり残された時間は、週にたったの46時間。ここには、食事や入浴はもちろん、買い物をする時間、音楽を聴く時間、会社帰りに遊びに行く時間までもが含まれています。
残りわずかな純粋な自由時間をゲームに費やす、という意味を、今一度考えてみてはいかがでしょう。
こうした時間の浪費、先ほど触れた犯罪、ゲーム脳、あるいは、「ほんとうの体験ができなくなる」といったことのほかにも、ゲームによって大きな弊害が生じます。
それは、人から「退屈」を奪ってしまう点です。
ゲームを長くやり続けることで生ずる、人間の性格や脳への影響。もちろん、これも大きな問題ですが、それはゲームの内容や規律など、「ゲームをやらない」以外にも解決方法があるかもしれません。
ところが、ものすごくおもしろく快適で、何の苦労もせずに、退屈な時間さえも、とても楽しい時間として過ごせてしまう点は、ゲームをやめない限り、解消することはできません。
それは当然です。ゲームはおもしろく! それこそが、そもそも最大のテーマなのです。おもしろくなければゲームではありません。
では、「おもしろさ」とは何なのか、それは、人を退屈させないことなのです。
ゲームの内容が、残酷(ざん こく)だろうと、迫力があろうと、かわいいものだろうと、とにかくゲームはおもしろく作られています。たとえゲームのなかで、何かに迷ったことがあっても、それは、かならず解決方法があることを前提とした迷いです。つまり、時間限定の“楽しめる迷い”といえるのです。
いつのまにかストーリーに巻き込まれ、あるいは、考える間さえもなく熱中し、指先を動かし続け、退屈することなく、なるべく長い時間を過ごすことができるものほど、優れたゲームであるといえるでしょう。

「退屈」が生み出す大切なものとは?

あえて極端ないい方をすると、人間の発想の大きな部分を担っているのは、「退屈」です。
たとえば子ども。子どもの行動は、好奇心が大きな原動力となっています。その好奇心が生まれる1つの大きなキッカケとなるのが、「退屈」なのです。
子どもは、ほんの少しでも退屈すると、とたんにジタバタ(これは大人からみた姿ですが)しはじめます。退屈を感じたとたん、物を分解したり、ひたすら高いところに登ったり、しまってあるもの散らかしたり、虫をいじくったり……とにかく退屈をまぎらわすため、好奇心のおもむくまま行動に出ます。
これは大人も同様です。退屈すれば(そこにゲームがないとすれば)、いきなり掃除をはじめてみたり、散歩に出かけたり、ネットでいろいろ調べだしたり……さまざまな行動に走ります。あるいは、電車などに乗っているとき。人が目を開けて、しかし何もしていない時間は、(もちろん、ただボンヤリしている場合もあるでしょうが)、多くの場合、あらゆる思考をめぐらせているものです。
 
「夕陽がきれいだなー」
「遠くに見えるあのビル、何やってるところだろう」
「あの赤い看板目立つなー」
「前に立ってる二人、大変そうな話してるなー」
一見、感じているだけ、ただそこにあるだけ、そんな風景ともいえるでしょう。
ところがもし、この日常の光景すべてが、あるいは、退屈がゆえに起こしたさまざまな行動が、ゲームによって「ないもの」にされてしまったら……ゲームによって目と耳をふさがれ、一切入ってこなくなったとしたら……どうでしょう?
 
「夕陽がきれい……に撮れる携帯のカメラなんてあったらいいのに」
「遠くに見えるあのビル……の正体がわかる地図帳があったら、通勤が楽しいのに」
「あの赤い看板って……そもそも何で目立ってるんだろう」
「大変そうな話……してる人って、ちょっと嬉しそうだな」
 
そんな勝手な連想を、アイデアにつながる豊かな発想を、自分の引き出しを増やしてくれるような体験を、すべてシャットアウトしてしまうことにもなります。

どうやってゲームをやめるのか?

少し観念的になってしまうのですが、ゲームをやめたいと思ったら、まずやってもらいたいことが1つあります。
ゲームをやっている自分の姿を、第三者的に思い浮かべてみることです。
方法は簡単。自分が主演のテレビドラマを想定し、ゲームをやっている姿が、画面のなかで意味を成すシーンになりうるかどうか。テレビを観る立場で考えてみれば、答えはすぐにわかります。

ゲームをやっている姿など、ほんとうに特定の(たとえば病的な人格を象徴するような)シーンでしかドラマには登場しません。それはなぜなのでしょう? ある意図があってゲームする姿を織り交ぜるのなら別ですが、ゲームをやっているシーンを映しても、ストーリーが展開したり、その人の感情を表現したりすることができないからです。つまり、ドラマを第三者的な目で見れば、ゲームをやっているシーンの間は、物語がストップしてしまっているのです。ちなみにテレビドラマのなかに、テレビを観ているシーンもほとんど出てきません。ちょっと皮肉な矛盾ですね。

これはドラマだけでなく、実際の場面においても同様のことがいえます。すべての展開をストップさせているのは、ゲームの時間。そう考えれば、ゲームに伸びる手が少しでも、躊躇(ちゅう ちょ)してしまうことでしょう。
タバコをやめるのに禁煙パイポやニコチンパッチ、あるいはニコレットなどが存在するように、ゲームから少しずつでも、手を引く方法があるのです。
目と耳が同時にさびしくなるのを防ぐためには、マンガを読む、おもしろい映画をたくさん観る、プラモデルや鉄道模型に凝(こ)る、ラジオを聴く、ボードゲームで遊ぶ、なども考えられます。

しかし、ほんとうにやめたいと思ったら、ツライでしょうが、とりあえずは期間限定としつつ、ゲームを1週間、がんばって2週間、しまいこんでしまうのが、いちばん有効です。
「ゲームがないと、いろんなことができる」「退屈は、会話のきっかけになる」「食事の時間が長くなった」「昔読んだ本がもう一度読みたくなった」
ゲームをしまって2日も経つと、とたんにこんな兆候が見られます。それは、かならず、といっていいほどなので、ぜひ実践してみてください。


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