見出し画像

私家版 ロックかるた 「つ」

どうしても欲しくて、でも売っていない。だから、自分で作ってしまった「私家版 ロックかるた ブリティッシュ・ロック編」。
世界にたった1セット。

つらくて苦しいハンブルク巡業。
この経験がものを言う。

1960年8月17日の早朝、ビートルズ一行はドイツのハンブルクに到着。
そして、この日の夜から10月3日まで、休みなしで48日間に及ぶインドラ・クラブでの演奏がスタートします。
しかし、インドラ・クラブは騒音問題で閉鎖。
一行は、カイザーケラーというクラブに移り、10月4から、これまた56夜連続での演奏をこなします。
この期間、たった3か月半です。たった3か月半ですが、一行は毎日毎日、酒と女にしか興味のない船員たちを振り向かせるために、全身でパフォーマンスを披露。演奏技術も急速に上達していきます。
彼ら自身は、ただただ毎日へとへとになるまで演奏するだけ。ドラッグにも頼る始末。
ときには若者らしい悪ふざけもするし、女性と遊んだりもするけど、とにかく毎日歌うのです。
しかし11月21日、ジョージ・ハリスンが不法就労で国外退去。若すぎました。
ポールとピートも放火の疑いで強制退去となり、なけなしの所持金は交通費として消えました。
ハンブルクでの連続公演は11月28日に終了。
ほどなくジョンも帰国。
全員、放心状態です。手元には何も残らなかったのです。
ポールは父親に言われるがままに、工場に就職。バンドの命運も風前の灯でした。

しかし、12月15日、ジョンとジョージがポールの職場に現れ、ポールは職場を放棄。
12月17日、ビートルズはカサバ・コーヒー・クラブで、久しぶりの演奏を披露します。
彼らはハンブルクで仕込んだパフォーマンスを披露。
それは、リバプールの若者が聞いたことのない、まったく新しいサウンドでした。
観客は熱狂。
1960年の後半、ハンブルクでビートルズは化けました。
3か月の修行で、歌も演奏も、驚くほどに成長したのです。
1961年は、4月1日から7月1日までハンブルクに滞在、92日間を休みなしで演奏し続けました。

ジョンはこう話します。
「僕はリバプールで生まれた。でも育ったのはハンブルクだ」
 
ハンブルク市民には、「ビートルズを育てたのは自分たちだ」という誇りがあるようです。
いや、まったくその通りです。
ただ、一番の貢献者は、世界で最も罪深いと言われた歓楽街「レーパーバーン」にたむろする荒くれの船員たちと、店で働く風俗嬢だったと思うんです。

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?