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日曜の午後、ざくろの味を知る

出先の果物屋に柘榴が並んでいて、もの珍しさについ買い求めてしまった。

よそのお宅の庭木などにそれらしきものが実っているのを見たことはあるけれど、生の柘榴をまるごとひとつ、自分のものにするのは初めて。大人のこぶし大の丸い実は、硬くつるりとした手触りで、赤とピンクの間のような、やや毒々しい色をしている。

購入先のお店のご主人に教えてもらった通り、皮を剥いていこう。
とがった先端を包丁で切り落とすと、切り口から真っ白い綿のような甘皮が現れ、その合間に暗い紅色の粒が覗いた。つやつやと濡れたように光る小さな実がびっしりと並ぶ様子にちょっとひるみながらも、その甘皮に、さらに浅く切れ目を入れる。そこからオレンジの房を分けるような要領で果皮を割き、房ごとに実をほぐしていけばいいはず。

切れ目に親指を差し込み、ぐっと力を入れると、指の下でいくつかの粒が潰れてしまったらしく、果汁が飛び散った。私の腕に、まな板に、調理台に、不穏な赤い染みができる。目の前の壁にも、着ているパーカーにも(私は基本、エプロンをしない)。
うわわ、と狼狽した声が出た。房を分けるのはあきらめて、甘皮を少しずつ取り除きながら実をほぐしていくことにする。

果汁がまた飛び散るのを恐れて、ガラスのボウルに水を張った。その水の中に柘榴を沈めて、実を慎重にほぐす。
硬い果実の中に、びっしりと赤い小さな粒が整列している。それを指の腹でこそげるようにすると、かすかな手ごたえとともにとうもろこしの実が軸から離れるような塩梅で甘皮から外れ、水の中に落ちた。収穫をしている、という感じでなんだか楽しい。この区画はあらかた取り終わった、と思っても、ちょうど柑橘類の袋のような質感の薄皮を取り除くと、その下からまた赤い大群が出てくる。それを何度も繰り返す。豊穣、という言葉が頭に浮かぶ。

仲間たちとくっついていたときは黒に近いほど暗い色に見えていた実の一粒をつまんでみると、中の白い種が透けて見える部分は鮮やかな紅色、そこから外周に近くなるにつれ色は濃く、暗くなる。丸いと思っていた形はよく見るとやや角ばっていて、手のひらの上で転がすときらきらと光を反射した。植物の一部とは信じられないくらい、不思議で硬質な美しさについ見入ってしまう。初めてこの果物を見つけた昔の人は、さぞかし不思議な気持ちになったことだろう。ルビーみたいにきらめく実がボウルの底に降り積もって、日曜の午後の日差しを甘やかに透かす。

ほぐした実が沈んだボウルをそっとかき混ぜてすすぎ、中身をざるにあけた。水がきれるにしたがって、赤い実一粒ひと粒がさらに輝く。8割ほどを保存容器へ移し、残りはすぐ食べようと、ガラスの器に盛った。

赤い透明な実を、匙でざっくりすくって口に運ぶ。噛んだ瞬間ぷちっと粒がはじけた。もともと柘榴に対しては、ペルセポネや鬼子母神のエピソードから、なんとなく妖しく、業に満ちたイメージを抱いていた。さぞかし濃厚で官能的な味がするのだろうと思っていたけれど、思いのほかさわやかな甘みと酸味が広がる。白い種も食べられるらしいのでそのまま噛み締めると、ナッツのように香ばしい。ベリー類なんかだと種ごと食べられるものが珍しくないけれど、柘榴の種はそれよりもずいぶん存在感があって、実も種も一緒に噛み砕く自分が野生動物になったように感じた。

最近読みかえした米澤穂信の短編集「儚い羊たちの祝宴」の表題作では、ある食材のことを「舌ではなく、頭で味わうもの」と表現していた。
食べてみてわかったことには、生の柘榴もその類の食べ物だ。果物としても単純においしいはおいしいけれど、宝石を口に含むようなときめきと、古来から寄せられてきた神話や、寓話や、幻想の積み重なりが、味に深みを持たせているように感じる。そういえば件の食材も、柘榴に例えられることがあるというし。

大好物か、と聞かれると、少し首をひねってしまいそう。
でも青果店であの鈍くひかる丸い実を見かけたら、またつい手に取ってしまうんだろうな。そう思わせるような、不思議な果物だった。

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