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【エッセイ】アラビアの庭〜黄金の霧〜

もうそれは、20年も前になるだろうか。ぼんやりといつかカフェを持つことになったら、イメージカラーは空の青に一文字の金にしたいという思いを持っていた。そしてカップやお皿はベトナムのバッチャン村で作ってもらう。このコントラストは、バッチャン村でしか作れない。
この配色にこだわっていたけれど、どうしてだったのかそのきっかけのことはすっかり忘れていた。今日このツイートを見て、思い出した。そうだ、あの時あの場所で明け方の白んでゆく空に舞い散る黄金の霧を見たときこの色の魔力に魅せられたのだ。

それは中東を旅していた時、その日列車に乗って移動するはずが、よりにもよって当日になって、午後3時出発予定の列車が午前出発に変更となっていた。切符売り場の駅員は、なぜそんな事実がわからないのかと言わんばかりに事務的に、列車はすでに目的地についたところだから切符なんか売れないよ、とだけ伝えた。こんなとき相手から謝ってもらえると思うのは間違っている。急な変更だって先方にとっては必然のことだから、謝る必要性なんてこれっぽっちもないのだ。ここは1分の遅れでも謝罪のアナウンスが駅のホームいっぱいに鳴り響く山手線ではない。昨日、翌日の列車の出発時間が何時かを、同じ窓口に確認に来たとかは関係がない。相手都合による予定変更はしょっちゅうで、特になんの感情も湧いてこなかった。
急遽長距離バスの切符を買い、ダマスカスに戻ってきたころには夜の7時をまわっていた。旅も慣れてきたとはいえ、流石に中東での女性の一人旅で夜はあまり出歩きたくない。知っているバックパッカーの溜まり場となっているホテルに直行し、すでに顔見知りになっていたロンドン帰りが自慢のフロントの男の子に空き室があるかを聞いた。もう満室だよ、一瞬途方に暮れたけれども、男の子はこう続けた、屋上だったらあるけどね。ときどき、先の予定を決めないで運命との偶然の出会いを楽しむことがある。
中東で屋上に泊まる、こんなことこの先一生経験できないかもしれない、少し不安がよぎったけれども、すぐに面白そうだという思いにかき消され、気がついたらいいね、と答えていた。まだ、シリアに自由を謳歌する余裕の空気感が残っていた時代だ。
寝る場所を確保したので、ホテル横の食堂街でダマスカス最後の夜の晩餐をとり、市場で果物を買ってホテルに戻った。厳格なムスリムたちの国シリアといっても、バックパッカーの宿に泊まっているのは、世界各国から集まってきたウェイ系の若者たち。元気あふれる彼らはラウンジに集まり、スークで見つけた派手な女性用の下着を試着して見せあったり、欧州のアダルトサイトをどうやって見るかで大盛り上がりだ。
そんな陽気な彼らを横目に、ベッドの横にはどんな人がくるんだろう、騒がしいと嫌だなぁと、少し不安になりながら、屋上に案内してもらうと、そこには世界を旅している素敵な日本人の新婚カップルがいた。星空の下で二人のこれまで行った旅の話を聞ききながら、いつの間にか夢のなかで行ったこともないヨーロパやアフリカを旅していた。どこからどこまでが聞いた話だったのだろうか。
中東の朝は寒い。寒さで目が覚めると、さすが世界を旅している新婚カップルは朝が早く、明け方とともにあっという間にいなくなっていた。少しづつ温度を取り戻している早朝の風にあたりながら、名を知る間もないさよならの潔さが清々しく感じた。
白けてくる空を眺めながら空腹を覚え朝ごはんでも食べようと、1階下の食堂に降りてみると、開店の時間はまだだった。それでもすでに先客が新聞を読んでいて、スタッフがもう準備できるからどうぞと声をかけてくれたので、そのままテーブルについた。想定外のトラブルが起きがちな中東だけれども、一つ確かなことは、ことに朝食という点においては、全力のホスピタリティでもてなしてくれる。もう準備できるとはいうものの、ここは中東、30分くらいは待つだろうと思い、手持ちぶたさにならないよう、読めないアラビア語の新聞でも広げようとしていたら、あっという間に焼き立てのパンと新鮮なサラダとともに朝ごはんがテーブルの上に並んだ。
準備に追われ慌ただしくしているスタッフがテーブルの横で動きを止め、悠久の歴史を物語るかのようにたゆらかに琥珀糖色の紅茶を小さなチャイカップに注ぐ。角砂糖を一つ紅茶の中でくゆらせていると、後ろの方でおりんが響く音がした。はっと窓の外を見渡すと、朝焼けの中ぼんやりと姿が現れてきたダマスカスの街の頭上、留紺が白群に染まっていく空に、はらはらと金色の霧が舞い降りてきた。
この世に魔法があるとするなら、あの瞬間のことだと今でも思う。

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