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ヴィム・ヴェンダースのベルリン

日本で大学生をやっていたときは、その大半を映画や音楽鑑賞に費やし、大学では授業に出るよりも図書館で過ごした時間の方が長かったように思う。茶屋町のロフト地下にあったテアトル梅田にはよく通っていた。

映画を観るきっかけを与えてくれたのは、奈良の中高一環教育の学校で知り合った体育の先生である。体育の先生でもあり、バスケットボール部の顧問でもあった先生には中学1年で担任を持ってもらってからずっと懇意にしていただいた。体育の先生なのに英語の教師より英会話が達者だった。アメリカから交換留学生が来た時も、その先生がよく世話を焼いていたように思う。

さて、その先生は少し変わり者(変わり者しかいない学校ではあったのだが)で、生徒やその保護者、友人などを自宅に招いては、知り合いのアメリカ人の英会話教室なんかを開いていた。もちろんそこへ呼ばれていた私は、ある日先生の自宅の2階を見せてもらって驚くことになる。ビデオテープが山ほどあったからだ。まさにお宝の山。ありとあらゆる名作と呼ばれる映画がそこには堆く積まれていた。

そこでフランス映画やドイツ映画と出会うことになり、後々に様々な影響を私に与えることになった。そう考えると縁というものは本当に不思議なものだと思う。宝の山からヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」や「ベルリン天使の詩」、ジュリエット・ビノシュが出演している「存在の耐えられない軽さ」や「ポンヌフの恋人」を観ることになった。その他にも数えきれないほどの映画を観た。もう何を観たのかすらよく覚えていない。

いろいろと観た映画の中でも特に印象に残ったのが「ベルリン天使の詩」だった。当時の自分の好きな雰囲気がそこここに散りばめられていたからかもしれない。衣装は山本耀司さん、ニック・ケイブのライブシーン(確かブリクサ・バーゲルトもギターで出演していた)、ふたりの天使がブルーノ・ガンツとオットー・ザンダーという渋さ。そして壁のまだあった頃のベルリンの独特な街の様子。全く明るい映画ではなかったが、ドイツ語の響きがやけに耳に残る映画だった。

Als das Kind Kind war,
ging es mit hängenden Armen,
Wollte, der Bach sei ein Fluß,
der Fluß sei ein Strom
und diese Pfütze das Meer.

家にある台本の1ページ目にこんな詩が出てくる。
記憶から抜け落ちていたが、ヴィム・ヴェンダースのサインも入っていた。
2005年の9月となっているので何かのイベントの際にこの台本を持参したのだろう。見開きにはお馴染みのゴールドのサインペンで天使の羽が描かれている。

大学在学中に欧州のいくつかの都市を周った。

ロンドン、アムステルダム、パリ、ベルリン。

ロンドンは活気があり、アムステルダムでは日本人の女性旅行者に付き纏われ、パリではいろんな人に声をかけられ疲れてしまった。ベルリンに着いた頃に体調を崩し、宿泊先のユースホステルは娼婦が立っているすぐ側にあった。そして夏だというのに雨ばかりが降り、寒々とした景色が広がっていた。いい印象など少しも受けなかったのに、なぜか一番歩きやすいと思った街がベルリンだったのだ。基本的に他人に興味がなく干渉の少ない街。首都だというのにポツダム広場にはまだ何もなく、空き地だけが広がっていた。

これだ、ヴィム・ヴェンダースのベルリンは。

陰気臭くて一見何もないように見えるけれど歩きやすい街。他人に興味がないようで、どこか優しさが見え隠れする街。表面だけ見ていては多くを見逃してしまう、当時のベルリンにはそんな面白さがあった。

そんなふうに思ったのがベルリンという街に興味を持ったきっかけだったような気がする。

2度目にヴィム・ヴェンダースにお会いしたときにそのことを話したら、「でも、君がベルリンに来たのはぼくのせいじゃないからね」と茶目っ気たっぷりに答えてくれた。全部が全部そうではないにしろ、何らかの影響を受けたことは確かである。

明日は子どもたちを連れてヴィム・ヴェンダースが日本で撮影した映画を観に行く予定だ。子どもたちは何を感じ取るんだろう。


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