"危険"な女ふたりの旅(ヨルダン)③ -赤いシリーズ: 赤い激流/迷路/絆/衝撃
窓口になっているエジプト側パスポートコントロール。
【赤い激流】
エジプト出国手続きを済ませると(←簡単過ぎるほどあっさりだった、何も聞かれず何も質問されず、スタンプだけぞんざいに押され「次、Next!」でおしまい...)、
今度はバスごと船に乗って紅海を渡った。
その時の興奮といったら!
大変なのは分かっていたけれども、やっぱり飛行機ではなく陸路でエジプトからヨルダンに入ってよかった、と感動で心が震えた。
ところで紅海は英語でRed Sea、 アラビア語でal‐Baḥr al‐Aḥmar(赤い海)だ。
だが、その名前の由来の説は様々。
ときおりラン藻のトリコデスミウムが著しく繁殖して海水が赤色をおびることがあるので紅海と名づけられた、ともいわれている。
アカバ港は、ヨルダンにとって海への唯一の出入口だが、しかし大昔の隊商時代以降、ここの港は長い間見捨てられていた。
それが、何故有名になったのか...
映画『アラビアのロレンス』だ。
この映画のためにアカバを拠点にした大規模なロケが行われ、その際にこの港も使用された。
映画のベースとなった実話の、イギリスとT.E.ロレンスのアラブへの仕打ち(いわゆる裏切り行為)はなかなかえぐいものだったが、
しかし皮肉なことに、イギリス人映画監督デビッド・リーンが撮った、『アラビアのロレンス』の方は逆にアラブに恩恵をもたらした。
というのもこの映画の大成功により、ロケ地のアカバは瞬く間に世界中に知れ渡ったのだ。
大勢外国人観光客が押し寄せ出し、それとともにアカバは一気に近代化が進んだ。
90年代の時点ですでに水泳、スキューバダイビング、ウォータースポーツの本拠地であり、
そして毎年冬季には、多くのヨーロッパ人が長期滞在にやって来るという、メジャーな避寒地にもなった。
ヨルダンの港町アカバに到着すると、私はそこの港からくるっと振り向いた。
すると当たり前だが、紅海の向こうには今度はエジプト(シナイ半島)が見えている。
おお、シナイ半島の砂漠を抜けて紅海を横断してきたんだ!
「アカバといったら、『アラビアのローレンス』よね」
私が興奮して言った。しかしヒロミさんはまるで反応がない。
「『アラビアのローレンス』ってタイトルは知っているけど、映画は見たことないのよね..」。
...
まぁ噛み合わないことよ、一体なんで彼女と私はこれまで仲が良かったんだ?
【赤い迷路】
アカバには、エジプトの旅行会社と提携しているヨルダン側の長距離バス(ペトラとアンマン行き)が待機していた。
ホットパンツ君も含め、大半の乗客がそれに乗ったが、私たち二人はパスした。
ペトラとアンマンとは方向が異なるワディラム(アカバから60km東南)に寄りたかったからだ。
別途料金で、別のバスに乗りワディラムへ向かったのは、私たちの他にはティッシュ君、そしてほんの数名のバックパッカーたちだった。
何故、小数人だけだったかといえば、この当時(1997年)はワディラムはまだ非常にマイナーな観光地だったからだ。
砂漠地帯の地名、ワディ・(カ)ラムは「月の谷」 の意味だ。(月=カラム(ちなみにエジプト方言ではアマル)、谷=ワディ)
特徴は、砂漠の中の赤っぽい谷(花崗岩と砂岩)が続く砂漠の光景である。
ワディラムはコーランにも登場し、ここもT.E.ロレンスのゆかりの地でもある。だから映画『アラビアのローレンス』には、アカバだけではなくワディラムも登場する。
前述のとおり、私が訪れた1990年代は、この砂漠地帯は今ほどメジャーではなく、マニアックな西洋人観光客(主に登山家、冒険家)が滞在するぐらいのスポットだった。
ちなみにカイロの日本人会で取ってきた、もっと古い80年代発行の交通公社 (!) ガイドブック『中近東』の中のヨルダン編を見ても、ワディラムが全く紹介されていない。一行たりとも、ワディラムには触れられていないのだ。
ワディラムが積極的に宣伝されるようになったのは、2000年以降になってからだったと思う。
ヨルダン側は、雄大な谷と砂漠のワディラムを映画撮影地としてどしどしアピールし、
そして様々なアトラクション(谷のロッククライミング、谷間ハイキング、キャンプ場でのテント滞在、アラブ馬の乗馬体験など)を用意し、
ゴージャスなホテルも砂漠の中に建設していき、ひたすら商業的観光地化を押し進めた。
そして2011年には世界遺産に登録され、エコツーリズムでどかんと一気に有名になった。
多分、たまたまタイミングも良かったはずだ。
なぜならその年の2011年、チュニジアやエジプトなどでは『アラブの春』と呼ばれた革命が起きたため、砂漠好きの外国人観光客が一気にヨルダンに流れたのだ。新しい観光地ワディラムにも、ドッと人々の誘致に成功できた。
私が行った時のワディラムの村は、本当にまだ寂しい所だった。
↓私が行った頃(1997)
↓その後
当時のワディラムの村には、期待できるような素敵なホテルもなく、ま、適当にどこに泊まるか決めましょう、ということで二人の中で話はついていた。
しかしいざ村に到着すると、ヒロミさんは
「やっぱり、ちゃんと全部のレストハウス(宿)を見てから決めたいわ」。
えっ?
私は軽く悲鳴を上げそうになった。勘弁して欲しい。
長いことバスに揺られてさすがに身体中が痛くて疲れている。適当でぽんと決めればいいじゃないか、安宿なんてどれも大きな違いはない。もうどこでもいいじゃないか...
性格の違いというのはこういうことを言うのだろう...
結局、ここは私が譲歩した。
長旅で早く休みたかったが一緒に数軒周り、各宿の部屋を見せてもらい(本当にどこも同じようなもの)、結局一番最初に見た宿に泊まることになった。
ティッシュ君はさっさと最寄りの別宿に、チェックインしていた。
↑イメージですが、実際にワディラムにある宿(inn)です。こういう宿しかなかった記憶ですが、今じゃぁこんな部屋、絶対ヤダ...
荷物を部屋に置くと、そのまま砂漠のオプショナルツアーに参加した。
ベドウィンが砂漠でバーベキューの用意をしてくれ、かつ彼らの運転で夜の砂漠を四駆で駆け巡る、というものだった。せっかくだからこれに参加してみよう-
バーベキューにはティッシュ君も来ていた。
あとはいかにも登山が趣味です、というマッチョな脚をした西洋人ばかりだったが、中にはティッシュ君と同じカナダ人夫婦もいた。
食事中、私はベドウィンの彼らと会話をしたのだが、第一声で私がアラビア語を口にした時、彼らはたいそう驚きそして喜んだ。
多分、ヨルダンの砂漠僻地のような所に住むベドウィンの人たちにとって、カイロの街の人々以上に、アラビア語を話す日本人が珍しく感じられたのだろう。
ちなみに、外国人が日本で日本語を話して、日本人に喜ばれるのとは全く意味が違うと思う。
彼らとって "コーランの言葉(言語)" であるアラビア語を相手(外国人)が話す、というのはものすごく大きな意味を持つのだから。
ベドウィンたちは私の方ばかり話しかけた。カイロのことをあれこれ尋ねてきたのだ。
ティッシュ君は同郷のカナダ人夫婦と会話を弾ませていた。
私は通訳しながら、ヒロミさんもベドウィンたちとの会話の輪に入れようと頑張った。でも肝心な彼女自身が、あまり彼らとのコミュニケーションに乗り気ではなかった。
「どうして話したくないの?」と聞くと、
「だって、エジプト人のカレに悪いから」。
...
いやいや、その"カレ"は妻子もち...と私は思ったが、お口はチャック。
ベドウィンたちはアラブ音楽のカセットテープをかけ、踊ろうと誘ってきたが、私とヒロミさんも含め、ノリの悪い観光客ばかりで、いまひとつ盛り上がらなかった。
ただし、あのティッシュ君がベリーダンスを踊ったのが意外だった。ものすごく下手だったけど。
ワディラムの夜空も満天の星だった。砂漠も何もかも幻想的だ。
しかし、それはシナイ半島の光景と大きく何も変わらない。だからエジプトに住んでいる人間にとっては、ワディラムにはさほど感動するものは特になかった。
どちらといえば、イスラエルに行って広がる緑の丘を見た時の方が、「うわっ」と感動したものだ。
【赤い絆】
「君はアラビア語が上手いんだって?カイロに住んでいるんだって?」
村の宿に戻ると、フロントの青年たちが目をキラキラして私に話しかけてきた。(チェックインの時は英語で話していました)
砂漠でのベドウィンたちとのやり取りがもう伝わっているのか...
世界どこ行っても、狭い村の情報の伝達の早さは5Gどこじゃない、不思議と瞬時に伝わる。
とにかく宿の彼らにもちやほや(?)されている私を、ヒロミさんはちらっと見てそして無言で部屋に上がって行った。
30分後に私も部屋に戻った。
ヒロミさんはちょうどシャワーを浴び終えたところだったらしく、手洗いした下着を室内干ししていた。
私はギョッとした。
持参した洗濯ローブに干された彼女の下着が、真っ赤な透け透けものだったのだ。
しかも上下とも布の面積が小さい下着だという...
例えば、これがレバノン旅行の時のユッキーだったら、驚かない。
キャピキャピしていた彼女らしい、といおうか彼女のキャラに合っている、まだ若かったし(ちなみに、そのユッキーの下着は案外"ふつう"でした)。
しかしヒロミさんは元教職員のアラフォーで、おかっぱ頭に眼鏡。
メイクはほとんどしておらず、いつもトレーナー/Tシャツ&パンツにスニーカー姿だった。そもそも体型も鶏がらのようにがりがりだった。
だから、まさかオランダの飾り窓かいな、というエロい下着を身につけていたとは夢にも思わない。
また後で思えば女同士の旅で、しかも旅の最大の目的は遺跡観光だ。それなのになぜこういう勝負下着を身につけてくるのだろうかね...
面食らった私はつい何も考えず
「わっ、派手だね」。
本当に何も考えず、そう言ってしまった。
レバノン旅行を一緒にしたユッキーなら、「そやろ、派手やろ」とげらげら笑っただけだったと思う。
しかしヒロミさんは、相当ショックを受け、腹の底から煮え繰り返り激怒してしまったようだった。
翌朝...
私が目覚めると、私の枕元に折りたたまれた紙が置いてあった。
えっ!? 深夜に枕元まで配達!?恐怖新聞じゃないか!
ドキドキしたが、それはヒロミさんからの手紙だった。ちなみに彼女は一足先に起きて、先に一階まで朝食に行ったようだった。
手紙を読むと、
『昨夜、ローローさんに"下着が派手だ"と笑われて、とても傷つきました。
まだ旅行は続きます。もっと言葉に気をつけてください。
せっかくの旅行なのですから、どうか人とうまくやるよう気を使ってください。
二度と失礼なことは言わないでください、お願いします。 ヒロミ』
...
確かに「派手だね」とは言ったが、笑った記憶はない。でも謝るしかない。
それにしても、なんで余計なことを言っちゃったんだろうなぁ。せめて「素敵、オシャレ、ファビュラス」にしておくべきだった...
朝食の場で、私は昨夜の失言を詫びた。
ヒロミさんは三個目のアラビアパン(アエーシ)をかじりながら、
「あら、全然気にしていないわよ」
と朗らかに笑った。
えっ!? 手紙ではあれだけきついことを書いていたのに。
朝食を終えた後、宿をチェックアウトしていよいよかの有名なペトラ遺跡へ向かうことにした。
今回のヨルダン旅行の一番の目的は、このペトラ遺跡と死海ということは、ヒロミさんとは意見一致していた。
バスカラッジ(バスターミナル)に行くと、マイクロバスの運転手たちが
「アンマン!アンマン!」
「アカバ、アカバ!」
「ペトラ、ペトラ!」
とそれぞれ怒鳴り、叫んで集客をしていた。
エジプトでも同じだが、マイクロバスは運賃が安く小回りが利く上、途中降りたい所どこでも、ちゃんと停車して降ろしてもらえるのが便利だ。
しかも大きなバスと違い、乗客全員お互いを見えているので痴漢とスリに遭いにくい。
ただし難点もあり、満席にならないと絶対発車しないことだった。
ペトラ行きのマイクロバスは、ちょうどあと二席待ちだったので、私たちが現れると、中で座って待っていたローカルのヨルダン人たちは
「おお、よくぞ来てくれた!これでやっと発車だ」
と満面の笑顔を向け喜んできた。
狭い車内に乗り込むと、最後尾席にはあのティッシュ君が座っていた。
「やあ、昨夜はよく眠れたかい? 」と彼はニコニコ。
やっぱり爽やかだ、神について目の色を変え弾丸トークさえしなければ...。
空いていた席はこのティッシュ君の隣、最後尾の長座席だった。だから普通にティッシュ君の隣に座った。
左からティッシュ君、私、ヒロミさんで並んだ。
【赤い衝撃】
ペトラ遺跡までは、(当時は)あまり整備されていないガタガタ道が続き、マイクロバスは激しく揺れた。
とにかく揺れる。しかも一番後ろの座席なので、とりわけ揺れる。
すると乗り物酔いしたヒロミさんが、
「おえっ」。
ゲロだ。
ヒロミさんは、私の赤いシャツの上にドバっと嘔吐した。
「宿泊料金に含まれているから」
と朝食を山ほど食べていたのが問題だったらしい。
「絶対、あの朝食のパン、腐っていたのよ、そうに決まっているわ。あーあ、サイアク」
と口元をティッシュで拭った後、そう言ってわめいた。これにはさすがに私はカッチーン。だってサイアクはこっちだ。
ティッシュ君は私にまたティッシュを差し出してくれたが、ゲロをかけられた私は"臭く"なっている。
おかげで爽やかティッシュ君は、私からちょっと自分の身体も顔も背けた。
ゲロで臭い私は他の乗客らにも、振り返られチラチラ嫌な顔をされ見られた。
パッと汚れた上着の長袖シャツを脱げばいいのだが、それを脱ぐと下がタンクトップ。同じ狭い車内にはローカルのヨルダン人のオッサンたちも乗っている。
エジプトでもそうだったが、"暗黙の了解"で、観光地や欧米系ホテルなどの敷地内では、外国人はどんな格好でもオッケー。
だけど一歩出たところでは、絶対に宗教/風習を尊重した服装をせねばならないものだった。
それを分かっていないと、男でも短パン、一時流行った(わざと)破れたジーンズ...じゃなくてデニムパンツ姿だと、現地人たちにものすごく嫌がられて睨みつけられるものだった。
「イスラームへの配慮をすべきか、臭いへの配慮をすべきか...」
うーむ...
これはものすごく難問だ。サッと上着を脱ぎ変えようか(着替えが入った大きな荷物は足元にあった)、でも一瞬でも肌を見せるのはやっぱりまずいだろうか..
ペトラ遺跡まで113kmもある。休憩所に寄るのもおそらくまだまだ先だろう。
どうしたものか...
真剣に考えていると、隣のヒロミさんが
「ローローさん、さっさと脱ぎ変えたらぁ?」
と鼻をつまんで言ってきた。
ますますかっちーん。でも我慢。
ここで言い返したら、絶対口論になって、臭い&煩い二人組だということで、マイクロバスから降ろさせてしまうかもしれない。
「よし...」
小学生高学年のときに身につけた必殺技をやってみることにした。
小学校では、同じ教室で男子と体操着に着替えねばならず、だけど高学年にもなると、それがものすごく恥ずかしい。
だから、脱ぐと着るのを同時にさっさと済ますスキルを身につけるしかなかった。
久しぶりにその技を使ったのだ。脱ぐ着るをほぼ同時に一瞬でやってみせた。
成功した。
私の着替えをじっと凝視していたヨルダン人たちはびっくりし、目をぱちぱち。
すると一人のヨルダン人オバチャンが拍手をした。続けて他の乗客らも拍手をしてきた。
「さすがヤバーニー(日本人)だわ、器用だわ」
とヨルダン人の若い女性が言うのが耳に入った。まさか早着替え技でこんなに褒められるとは!
カナダ人ティッシュ君もア然とした。そして驚いた顔のままこう言ってきた。
「Ninjaだ...!」
「えっ?」
ティッシュ君は興奮してまた目をキラキラさせ、日本旅行の時には伊賀の忍者の里にも訪れただの、忍者の話を興奮して語り出した。
...
マジか、エジプトからヨルダンの長距離バスでは延々と神様がどうしたこうした話を聞かされ、
ヨルダン国内の長距離移動では、まさかの忍者話をくどくどされるとは...
ところでペトラまでまだまだ、あと90,100kmはあった。
ヒロミさんは結局、私に嘔吐物をぶっかけたことを全く謝らなかった。
ムッとした私は自分もヒロミさんに嘔吐物をぶっかけ返したかったが、
アラフォーの彼女と違い、まだ若い私は胃の動きもまだ活発でよく動いており、朝食の食べ物はすべて消化しきっていた。だから吐きたくても吐けない。ああ悔しい!
つづく
おまけ
↑永井豪先生、2009年にアンマンで講演をされたそうです。ヨルダンだけではなく、シリアでも『グレンダイザー』は大人気だったそう。
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