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"危険"な女ふたりの旅(ヨルダン)④ - ペトラ遺跡のローマ時代遺物商売!


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【ローマ時代のコイン(お金)はいらんかい?】


「ローマ時代のコインはいらんか?」

ペトラ遺跡を歩いていると、赤白チェック色ターバンのベドウィンの老人に声をかけられた。

老人に見せられた巾着袋の中には、ローマ時代(紀元前63年以降のはず) のお金のコインがじゃらじゃら入っていた。

エジプトでは、"博物館"で展示させているローマ時代のコインを百回以上は見ている。だから何となく分かるのだが、このベドウィン老人の持っているコインもああ本物だ!。


「ど、どうしてこれを?」

「埋まっているのを掘り出したんじゃ。他の時代のコインはなかなかないんじゃがね、ローマ時代の遺物はコインだけでなく、他にもごろごろと出てくるんじゃ。さあ買うかね、どうするかね?」。


値段はいくらだったか覚えていないが、例え騙されていてもいいや、という大した金額ではなかったはず。だから数個購入した。


カイロに戻って、知り合いのフランス人考古学者に見せると、やっぱり本物だった。その考古学者氏は羨ましそうに欲しがったので、つい私は

「いいよ、あげるよ。どうせ今のイタリアでは、使えないお金(コイン)だから」

と言ってしまった。馬鹿ダネェ、気前良くあげてしまったことを後で後悔...


ちなみにローマ時代のコイン販売をしていたベドウィン老人の名前はムーサだった。

ムーサとはモーゼのことで、シナイ半島のベドウィンも、結構モーゼの名前が多かった。

アラブ時代に、改宗をしなかったクリスチャンの人々はどんどん砂漠へ移動したからなのだろうか。


そしてペトラ遺跡の付近に住むベドウィンたちも、ルクソールのクルナ村の人々のそうだったが、

彼らは埋もれた古代や中世時代の遺物がどこにあるのか、実によく知っている。

この人たちがそれらを盗まなかった残り物を、発掘調査隊たちが見つけているんじゃないだろうか...


ペトラ遺跡の老人ムーサは、ローマ時代の遺物はごろごろある、たくさん見つけられると言っていた。

今ならもっと詳しく話を聞くのだが、その時は如何せんもう暑さで頭が朦朧としていて、そんな気力体力もなかった。


もっとも、いずれにしろコインぐらいしか国外には持ち出せない。

エジプトでも遺物の国外持ち出しにはとても厳しかった。土産店で購入したアンティークに見えた彫刻品も、空港ではナイフで一部削られ、ものすごく調べられたものだ。

(でもブルドーザーでダイナミックに大きな棺を盗み、堂々と外国に持ち出したりしている。裏ルートさえ確保したら、案外ちょろいのかな)


それにしても、ペトラ遺跡...

暑い、とにかく暑い。ニリットルのミネラルウォータ二本もがぶがぶ飲んだ。

そしてこれだけ暑いと、隣で

「ああしんどいしんどい。暑い暑い。来なきゃよかった、来なきゃよかった」

と誰かさんがぶつぶつ言い続けているのも、余計にいらいらする。

ただでさえ、お互いにムッとしあっているところ、不仲のとどめを刺すようなこの酷暑と岩山&砂漠の光景...

炎天下を仲の悪い相手と延々と会話もなく、歩き続ける苦痛よ...


【モーゼの泉の村】


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この前の日、ワディラム(月の谷)を出た後、ペトラ遺跡のそばにあるワディムーサ(モーゼの谷)の村の宿に泊まった。

今回はヒロミさんも宿探しにぐちゃぐちゃ言わなかった。だって一軒しか宿がなかったから。

(※今では高級感溢れるコテージタイプなどの、様々なホテルがいっぱいあります)

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↑ネットから拾った最近のワディムーサ


観光業に100%頼っているワディムーサの村が栄え始めたのは、1994年のイスラエルとヨルダンの和平条約 以降だった。


1994年のイスラエル・ヨルダン和平条約...

クリントン元米大統領が立ち会ったこの和平条約(オスロ合意)は、中東では賛否を呼んだ。

で、これを不満に思い苛立った某ユダヤ人の青年は、その翌年にイスラエルの首相、ラビンを暗殺した。この暗殺事件は隣国エジプトでも大スキャンダルになった。


というのも、

「どうせまた犯人はエジプト人に違いない」

とエジプト人みんなが思ったからだ!

「どうせ何かやらかすのは、人を殺すのはエジプト人テロリストに決まっている。今回はどのエジプト人テログループが殺したんだ?」

エジプト人誰も彼も、犯人はエジプト人だと決め込んで騒いだ。

エジプトの各メディアも「犯人はエジプト人じゃないか」というニュアンスで報道した。

ところが犯人はわりとすぐに公表され、ユダヤ人青年だと...


「えっ!? エジプト人じゃないの? ユダヤ人が殺ったの!?」

エジプト人みんな、拍子抜けしてキョトン!

それにしても「悪い奴/何か問題を起こす奴/すぐに暗殺しちゃう奴= エジプシャン」と自分たちで分かっているところがアッパレですな...


何はともあれ、エジプト人/アラブ人がイスラエル首相を殺したのではなく本当によかった、とエジプトのメディアも一般の人々も胸を撫で下ろした。

なぜなら、本当にラビン首相暗殺実行犯がエジプト人もしくはアラブ人だったら、また戦争になるのが予想されたからだ。

「ユダヤはやられたら絶対やり返してくる人種だ。(←アラブもね)。ああ第五次中東戦争が起きる!」。


それで当時、親しかったカナエさん(エジプト人妻)のアドバイスで、私はアラブ銀行に預けていた貯金をすぐに全額引き落とした。

(ちなみに口座カードは"画用紙"で、窓口でしか引き落とせず。しかし普通貯金でも利率はとても良かったです)。


第五次中東戦争が勃発したら、日本はイスラエル側につくだろう。すると日本人の口座は凍結される、引き下ろせなくされる、とカナエさんのご主人(学のあるエジプト人)がそう言ったというのだ。

実際、今までの中東戦争の時にも外国人の銀行口座が凍結されたことはあったそうだ。


イスラエルとヨルダンの和平条約→イスラエル首相暗殺→第五次中東戦争...

和平を結ぶと逆に情勢が危険になるという、このパラドックスがさすが中東だ。

結局、犯人はそういうわけでアラブ人ではなかったので戦争にならなかったのだが、

あの時のエジプト各メディアの緊迫感溢れる報道合戦や、人々が一気に食料買い込みをし、

カイロ市内の店の棚からは砂糖、米、小麦粉が一瞬で消えたことは、今でもはっきり覚えている。


とにかく1994年の和平条約締結後、ヨルダンとイスラエル両国間の治安は安定に向かい、そして経済関係も大幅に改善した。

実際、イスラエルとの貿易量は十倍に増え、多くのヨルダン人労働者が、イスラエルに出稼ぎに行くようになった。

それと同時にヨルダンは外国人の観光誘致に力を入れ出し、まず大勢のお金持ちのイスラエル人がヨルダンに観光にやって来た。


中でももっともその恩恵を受けたのがワディムーサ(=モーゼの谷)の村だった。

それもそのはずで、ヨルダン一の観光の目玉であるペトラ遺跡のすぐふもとに村は位置しており、ここは旧約聖書(ユダヤ教)にも登場するからだ。

さらにワディムーサには、ユダヤ教のイスラエル人の観光客たちにとって魅力的なアインムーサ(モーゼの泉)があるからだった。


そうしてワディムーサにはユダヤ教徒の彼らがどんどんお金を落とし、また世界中からも観光客が押し寄せ、今では活気溢れる村- もとい- 町になったが、

私たちの訪れた1997年はまだまだ未開発なわびしい村に過ぎなかった。前述とおり宿も一軒のみだったし、特に何も娯楽も商店もなかったし。


村にあるモーゼの泉は一応私たちも見学した。

でも、「これが...」

もっとロマンを感じさせる泉だと期待していたのだが、実際は周囲をコンクリートで囲んだ小さな池に過ぎなかった。何と言おうか情緒も雰囲気も何もない。シラける。

そもそもエジプトにも別のモーゼの泉はあった。だからヨルダンのワディムーサでも

「またか。またモーゼの泉か」の感想...

ちなみにモーゼの泉とは、飲めない泉の水をモーゼが杖でトントンしたら、綺麗な飲める水になったという代物だ。浄水器もびっくり! 

 (↑こういう言い方をしていますが、私はクリスチャンの母親の家庭で育ち、教会にも行っていました)

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↑ふろ屋じゃないです、モーゼの奇跡の泉です


【イスラエル、そしてウェストバンク(西岸)】


ところで、ヨルダンは地図で見るととても広大に見えるが、実際のところ面積は日本の1/4に過ぎない。

この国は旧約聖書にも登場し、やはりあらゆる時代のあらゆる民族の歴史の舞台になっている。

近年では1923年にイギリスの委任統治下に入り、1946年には念願の独立国に。


1948年、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発。イスラエル側から見れば、これは「独立(建国)戦争」。

パレスチナ戦争ではシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの軍が一斉に攻めた。完全にアラブ vs ユダヤ戦争だった。


だけどもさすがアラブ人たちよ、結局この戦のどさくさ紛れ(!?)に、ヨルダンはヨルダン川西岸(以下、West Bank)を自分たちの国に完全に併合してしまった。(ただしイギリスとイラクしか認めていない)


West Bankはエルサレム、ベツレヘム、ジュリコなどの都市を含む、大変肥沃な農業地帯でもある。

砂漠だらけのこの地域での肥沃な土地、というのは貴重でどこも喉から手が出るほど欲しい。しかも聖地でもあるし。


ちなみに1517年から1917年まではオスマン帝国がWest Bankを領土に持っており、それ以降はこの土地はイギリスの委任統治下としてイギリスに保護されていた。

それを戦争の混乱に生じて、ヨルダンはここを自分たちのものにしてしまったのだ。

エジプトもエジプトで、パレスチナ戦争の最中、エジプトはまんまとガザ地区を取り、エジプト領土にした。したたかよのぅ...

大義名分だったはずのパレスチナ人への援軍話はどこへ行った、少なくとも、アラブ人たちが余計にかき乱してくれたせいで、国連の調停もややこしくなった。

その結果、ますます諸々が泥沼化し、パレスチナ人たちの難民が逆に膨大な数になってしまった。

多分、アラブが本当に一致団結していれば、イスラエル建国を邪魔できたんじゃないかという気もするが、はてさて果たして...


パレスチナ戦争の翌年、ヨルダンは王国になった。

そして1967年の第三次中東戦争では、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)でヨルダンがパレスチナからせっかく奪った(イギリス保護地区だったけど)肥沃な土地のWest Bankを、今度はイスラエルに取られた。

取られなかったヨルダン東岸は、80%が砂漠だという不毛地帯だ。

天然資源もほとんどなく、隣接しているサウジアラビアのような豊富な石油資源にも全然恵まれていない。

だからWest Bankの土地はヨルダンにとって、非常に重要だったのだが、取られたものは仕方がない。

とは言え、現在に至るまで分割云々なども含め、West Bank領土問題は終わっていない。ごちゃごちゃしている。(2020年にはトランプ元米大統領も介入を試みた)


肥沃な土地だけども不毛な領土問題を抱えたWest Bankはさておき、ヨルダンの国土は大半が砂漠の土だ。

だから、ヨルダンとしてはやはり観光業に力を入れていくのは当然なのだろう。


↓ヨルダンのツーリストインフォメーションで取ってきた、無料観光パンフレットの裏表紙ですが、地図では『イスラエル』の国は空白になっています。

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↓Jerusalem(エルサレム)とは書いてありますが、『イスラエル』はありません

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↓キプロスすら書いてあるのに!

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【紅薔薇岩の町ペトラ遺跡】


ワディムーサの村からペトラ遺跡へ向かうのに、マイクロバスに乗ったが、あえて私はティッシュ君と一緒に二席並びの座席に座った。

「えっ?」

ヒロミさんは心外そうな顔を見せたが、また吐かれた時のための用心ダヨ...


駐車場に到着すると、馬車の御者が一斉に駆け寄ってきた。

「絶対馬車で行かないと後悔する」

彼らは力説してきた。

距離でいえば遺跡の入り口まで全然歩ける距離なのだが、空を見上げると早朝にもかからわず、既に陽射しがきつくなっていた。

遺跡の範囲の広さもよく分からない。

今まで訪れたレバノンのバールバック遺跡や、シリアのパルミラ遺跡はあまり大したことがなかった。

だからヨルダンのペトラ遺跡も「どうせちゃんちゃんで終了しちゃう程度なのだろう」とナメてはいた。

だけど一応体力保存を考えていた方がいいかな、と馬車に乗ることにした。(ヒロミさんは反対したけど)

乗って正解だった。あまりにもバールバックやパルミラと規模が違うのだ!

それに馬には申し訳なかったけど、案外入り口まで遠かった。これは徒歩で向かったら、それだけで疲労困憊していただろう。

(ちなみに馬車代は全くぼられず。といおうか、ヨルダン旅行でぼられたことは皆無でした。エジプトが断トツ酷い...)

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左右に高いそびえた高い岩山の細い道を抜けると、どーんと神殿(ファラオの宝物殿)が登場した。これはワクワクものだった。

ぐるっと岩山の裏側から回り込んでいくと、いきなり目の前に巨大なアブシンベル神殿が飛び込んできた時の感動と同じ感動を、このペトラでも味わったのだ。


薔薇色の岩のファラオの宝物殿の正面には、神殿風の彫刻がされており、中に入ると四角い大きなホールが掘りぬかれていた。

ただ奥行きは全然なく、壁画などもなかったと思う。「えっ?これだけ?」。

映画「インディジョーンズ 最後の聖戦」ではこの宝物殿の中でいろいろ仕掛けがあって、ジョーンズ父息子が逃げ走り回っていたはずだが(←うろ覚え)、

当たり前だけどあれは全くのフィクション...実際の中はとにかく狭くて何もなかった。

ちょっとがっかりした。ディズニーランドのアトラクションのように、懐中電灯でもっと奥までハラハラドキドキしながら探険していけるイメージを勝手に抱いていたので!


宝物殿を出ると、5彩の砂山囲まれた広場に出て、その岩肌には宮殿、神殿、墓穴、住居などが掘られていた。それらの穴からは山羊がひょこひょこ顔を出してきた。


なお、ペトラがどんどん廃れていったのは、紀元前二世紀末にもなると、交易商業の中心がこの岩山だらけの砂漠地帯ではなく、ユーフラテス川流域に移ったからだ。

ペトラが再び世に出るのは19世紀になってからだった。

ドイツ人のアラブ専門学者が、古文書に書かれていた"紅薔薇町"を九ヶ月間捜しまくり、発見したのだった。

余談だがペトラは「岩」の意味だが、アラブ人はパピプペポの発音ができないので、「ベトラ」になる。

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↑山羊はいっぱいみました。岩山の洞窟からひょっこり出てきていました

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【遺跡巡りは体力!】


「ああ疲れた、しんどいしんどい」

せっかく『地球の歩き方』のペトラ遺跡の箇所もを付箋紙だらけにし、全部回る気満々だったヒロミさんだが、

あまりの暑さにすっかり参ってしまっているらしく、しょっちゅう休憩をとってはハアハア言っていた。

無理もない。

エジプトで遺跡案内をしていた私と違い、彼女はそもそも遺跡歩きに不慣れだった。また年齢もいっていて、さらにとても痩せている。見るからに体力がなさそうな女性だった。

だから彼女が「もういいよ、引き返そうよ」と言いたいのはありありと分かった。

私もへとへとになっていたが、おそらくこんなところに来られるのは一生に一度だ。だからもっと頑張って歩いて回りたい。


ヒロミさんだけUターンして休憩所で涼んでいるか、ワディラムの宿に戻れば、お互いにとって万事解決だ。

ところが、それを提案するとヒロミさんは不安がった。そして

「一緒に旅行に誘っておいて、それはない」と反論された。

えっ? 私から旅行に誘った覚えはないんだが...あなたから「ついていきたい」と言い出したんじゃぁ..


結局、私は彼女の分の荷物も持ってあげたり、足元が危ないところは手を引いてあげるようにした。

でも、内心モヤモヤ。

"どうしてガイドの仕事でもないのに、こんなに気を使わねばならないのだろう"。

ティッシュ君は身軽にひとりですいすい先に進んでおり、そんな彼の後ろ姿を遠目で見て、「いいなぁ」と心底羨ましかった!


不穏な空気で、炎天下の遺跡を女二人で歩いていると、冒頭の赤白色ターバンを頭に巻いたベドウィンの老人、ムーサがひょっこり何処からか現れ、声をかけてきた。

「ローマ時代のコインを買わないかね」と。


目の前に差し出された巾着袋の中を覗くと、アンティークのコインはわんさか入っていた。

真剣にどのコインにしようか選んでいると、背後のヒロミさんは大きなため息をつき、

「んもう、暑いんだからさっさと選んでよ~。どれも同じコインじゃん!」。

「...」

凄い...歴史を知らないというのは凄い。二千年近く昔のコインを、"どれも同じじゃん!"と言い放つ元小学校教師..

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↑布バッグはヒロミさんの荷物 笑

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↑ペトラ遺跡敷地内食堂


【今度は紫色...】


夕方前に宿の部屋に戻ると、ヒロミさんは

「あーあへとへと! さっさとシャワー浴びようっと!」

と浴室に入ってしまった。

でも、オイオイ、あなたの荷物も抱えて歩いた私の方こそ、ヘロヘロなんだけど...一言、「シャワー、先でもいい?」って聞いてくれてもいいんじゃぁ..


ここまでうんざりすると、もう彼女のコーヒーを飲む「ズズッ」の音も気になるし、その上コーヒーをゴックンと飲み込む喉仏の動きすら目障りになる。

バブル時代の名残りとしか思えない、イヴ・サンローランの真っ赤な口紅で"ぎとぎど"した彼女の唇を見るのすらも不快に思え、ああ別行動したい、別行動したい...ただそれだけだった。

しかし「旅慣れしているローローさんにがっちりついていくから、よろしくね!」

と出発前にさんざん頼まれていた。気軽に「オッケーオッケー」笑って答えていたけど、ああなんて私はマヌケなんだろうか。


シャワーを出てきたヒロミさんは、手で洗った下着をまた部屋に干し始めた。今度は紫色のレースひらひら透け透け下着だった。もちろん、私はもう黙っている。


明日は死海だ。

「ヒロミさんよ、どうか死海をぷかぷか浮いて、イスラエルまで流れてくれないかな」。

本気でそう思った。向こうも向こうでこちらのことを、あれこれ不満を抱いていたのは明らかだったけど。

でもこのヨルダン旅行が、実は私の次の"東欧"移住へ繋がるきっかけになるのであった。


つづく

追伸

『インディジョーンズ 最後の聖戦』はヨルダンだけではなく、エジプトでもロケされていたそうです。ありっちさんに教えていただき、初めて知りました!

インディジョーンズのあれこれ! ↓

ありっちさんは教養深く、投稿を拝見していると教えられることが多く大変有り難いです😆🙏✨


※ネット拾い画像↓ ローマ時代の女性たちのヘアスタイル。オシャレ!

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