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世界初のエジプトパッケージツアー物語〜スエズ運河を抜け世界一周「初」パッケージツアーを売る→日本ブーム到来〜トーマス・クックシリーズ ③

guinea(ギニー)はイギリスの旧通貨ですが、エジプトでは今でも通貨をギニーと呼んでいます

 1972年は、トーマス・クック旅行社による初の世界一周パッケージツアーからちょうど100年目を迎えた年でした。
 
これを記念して、ロンドン・タイムズ紙はクックの1872年のツアーに関する記事(上)を掲載しました。1972年はインフレの酷い時期で、旅行自体が高額に値上がりしていました。(オイルショックの時期ですよね)
 この記事では
「100周年を記念して、旅行代理店トーマス・クックが先着1000人に1872年価格で同様のパッケージ旅行を販売します」

 しかし、記事をよく見ると、応募宛先が
「宛先;Miss エイプリルフール」
になっていました。

 ところがもう分かりますよね?ちゃんと読まない早合点した大衆がこのバーゲン・オファーに素早く反応し、たちまトーマス・クックの各オフィスの前には大行列ができ、旅行代理店には電話が殺到しました。

 遅ればせながら、タイムズ紙はこのオファーをエイプリル・フールのジョークと断定し、ご迷惑をおかけしたことを謝罪したものの、何時間も並んで待っていた人々は、控えめに言っても面白くありません。激怒です。

 この記事を書いたジョン・カーター記者は解雇されましたが、「1000人」もタダ同然の値段で世界周遊させてくれるわけがない時点で、気づけと思いますが早合点した人々の浮かれた気持ちも理解できます😂。なおカーター記者はこの後にこっそり復職したそうで、ああ良かった良かった😂。

 今回は前回の「スエズ運河」繋がりで、トーマス・クックの初の世界一周パッケージツアー→日本ブームに繋がる話です。さあ、横浜にヤッラビーナ、レッツゴー!


ナイル川クルーズの成功の次はエジプトを中継にした世界ツアーを!

 時代背景をイメージしやすくするため、一応書いておきます、この記事の時代は日本では明治時代(1868年〜1912年)です。アメリカのこの時代のドラマは「大草原の小さな家」、イギリスではシャーロック・ホームズでしょうか?
 この時代の世界旅行だなんてワクワクしませんか?✨

 さて1869年、ナポレオン三世によるスエズ運河開通を控え、トーマス・クックは湧きだつエジプトに初のオールインクルーシブ(パッケージ)ツアーを出しました。
 その後もナイル川クルージングツアーを出し続け、自社の蒸気船までも開発し成功を収めます。 

 普通は「エジプト=旅行先」しか思いつきませんし、ここまでナイル川の旅が売れたならそれでもう満足じゃないか?と思いますが、トーマス・クックのパッケージ旅行への探究心は大したものです。
 なんと、「エジプト=旅行の中継点」を閃きます。いやあ、よくぞ思いついたと感心です。この発想は画期的です。

 そこで、ナイル川クルージングツアーのヒット商品とは別に1872年から1873年にかけて彼は「スエズ運河を利用した」世界一周パッケージツアーを販売します。かかる日数は222日、参加人数は8人でした。

↑日本がちゃんと描かれているのが嬉しい🤣 そしてトーマス・クックはイギリス田舎の宣教師だったのに、初期から広告センスにはものすごくこだわっていたと思います。旅行=お洒落のイメージ操作に成功したと思います。

どうして世界一周ができるようになったの?


 このワールドツアーが可能になったのは三つの重要な理由がありました。1 サンフランシスコと横浜の間に定期船の就航が始まった(1867年)
2 スエズ運河が完成し(1869年)、アフリカ沿岸や喜望峰を巡る危険な海 路や中東を通る陸路への依存がなくなり、東南アジアや極東への旅行がはるかにアクセスしやすくなった。
3カナダとアメリカを通る大陸横断鉄道の開始、北米旅行ブームにさせた(1860年代後半)

 以上の3つ(特に1と2)がなければ、222日間で世界一周は不可能です。なお、この世界周遊旅行にはクック氏本人が添乗に出ていますが、すでにTHOMAS COOK &SONのSON、息子と経営方針を巡り不穏の仲だったため(身内経営あるある)、もしかしたらひょっとしたら、ちょっと遠くに離れていたかったのかもしれません。
 父息子の関係がこじれた主な理由は、息子がイギリス軍の輸送、エジプトでの郵便サービスにも手を出したからです。前の記事でナイル川の軍隊の輸送にトーマス・クック蒸気船を貸し出したと書きましたが、実はクックの息子がやったことでした。

世界一周の訪問先

 一行は1872年9月にまずリバプールを出発しました。トーマス・クック旅行社の初ツアーは「リバプールの禁酒集会場に、同じ志の人々で参加する」という飲酒嫌いのメンバーを集めて出かけたことに始まるので、リバプールは彼の原点です。
 リバプールといえばビートルズですが、トーマス・クックも入れましょう。

 以下、ツアーの訪問先です。(*正確には訪問順序は異なります)

 リバプール→(蒸気船で)ニューヨーク、ナイアガラの滝、デトロイト、シカゴ、ソルトレイクシティ、サンフランシスコ→
(蒸気船コロラド号の船で)横浜(*これはコロラド号が観光客を乗せた記念すべき第一回目です)→東京→(船で)大阪→(瀬戸内海を通り)→長崎→(船で)上海、香港→
(船で)マラヤ(現シンガポール)、、ボンベイ、ジャバルプル、デリー、ラクナウ、カーンプル、アグラ、バラナシ、セイロン、ベンガル(1872年のクリスマスはベンガルで迎えています)→
コンスタンティノープル→パレスチナ、ヤッファ、エルサレム、ダマスカス、バールベック、ベイルート→(スエズ運河を抜けて)カイロ→
船でイギリスに戻る。

 英領インドの各地を訪れているところが、さすがイギリス人ツアーです。またニューヨークも入っていますが、自由の女神像はまだ登場していません、完成するのはこの12年後の1886年です。

横浜港による日本ブーム

横浜市のサイトより

 クックはこのツアー中、定期的に「タイムズ紙」にこの旅行の報告(エッセイ)を寄稿したので、彼の世界周遊ツアーは有名になり話題を呼びましたが、このツアーでもっとも知名度を上げた訪問先が日本でした。やはり、まだ非常に珍しかったのもあったのでは?

  日本における観光写真の初期の先駆者の一人、超有名人だったフェリーチェ・ベアト(カイロでも写真スタジオを構え活躍したイタリア人写真家兄弟の一人)は横浜港に数隻の船が移っている横浜のパノラマ写真(↓)を1867年に発表しております。当時の「写真」に対する注目度が別格であったことを念頭においてください。
 また多くの日本の写真をベアトは発表しており、そこからも日本は注目をされていました。

 この年に太平洋郵便汽船会社がサンフランシスコと横浜間の定期便の提供を開始し、東洋の本社を横浜に創立しました。
 これにより、日本を訪れる観光客の数が増加し、長期滞在する人々も出てきました。 すると他にも汽船会社が続々と横浜に代理店を構え、
アメリカン・パシフィック・メール社、
オリエンタル社、オクシデンタル社、
イングリッシュ・ペニンシュラ・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲーション・カンパニー
 これら四社が「横浜四大汽船会社」と呼ばれました。 
イギリスのオーシャン汽船会社も横浜に代理店を構え、トーマス・クック世界ツアーもそれで横浜に入って来れました。

 初世界パッケージツアーに参加したトーマス・クックのお客さんたちは旅行後、
「いやあ、日本面白かったわあ」
と言い広めました。
 
 分かる気がするのが、エジプトやインドを旅行した富裕層のイギリス人はすでに何人もいたはずですが、流石に日本まで出かけた観光客はまだ少ないので「レア感」もあったため、自慢したかったのではないかと私は想像します。
 私も誰かが「ロスに行ってきた」「ソウルに行ってきた」と話してきても、「ふうん」で食いつきませんが、「北極に行ってきた」「宇宙に行って来た」と言われたらあれこれ質問します。

日本を訪れる西洋人観光客(グローブトロッター)の増加

 トーマス・クック世界ツアーで寄った日本のことも寄稿したことがあり、1870 年代、日本は新しいタイプの観光客のお気に入りの目的地として浮上し、グローブトロッターと呼ばれる西洋人がどっと横浜港に到着しました。
 横浜では彼らのために特別に建てられた新しいホテルに滞在し、ガイドブック、新聞、または他の旅行者が書いた記事で読んだ景勝地や有名な場所を訪れました。

 そして日本の観光地では、世界中を旅する人の好みや感性に特化した土産店が誕生し、商業用写真スタジオが数十軒もオープンしました。これは話題を呼びました。
 なぜなら、日本の写真スタジオは豪華な漆塗りして装丁した、非常に日本らしいテイストのとても素晴らしい写真アルバムを作り上げてくれたのです。
 無論、商売といえばそれまでですが、こんなに素晴らしい写真アルバムは他国の写真スタジオではなかったことなので、世界中を旅する旅行者たちは大喜びし、日本の漆塗り写真アルバムは最も人気のあるお土産になりました。この120年後くらいには、日本の写真=プリクラに変貌しますね…。

トーマス・クック日本旅行代理店(1908年)

 日本観光ブームは続いたため、1908年にトーマス・クックは横浜に旅行代理店を持ちました。日本に上陸した外資旅行社の第一号のはずです。
 場所はネットで調べてもよく分かりませんでしたが、確かトーマス・クック勤務時代に私が聞いたのは山下ホテル、次に横浜のグランドホテルの中だったはず。(本当かどうかは確認していません)
 その後、東京、神戸でも旅行代理店を開きました。日本旅行をもっと流行らせようとする本気度を感じます。

日本ブーム→日本の本続々出版

 日本を書いた本も続々ベストセラーになり、例えばフィラデルフィア出身のアメリカ人ウィリアム・エリオット・グリフィスという人物はクックのツアーの「後」『ミカドの帝国(The Mikado’s Empire)』(第一部が日本の通史、第二部が滞在記)を1876年に発表。これが反響を呼びました。

 人気が出たのも分かるのが、単なる観光感想本ではないのです。グリフフィスはそもそもオランダ人の宣教師が間に入り、松平家に「日本の近代学校創設のために力を貸して欲しい」と招待され、福井の明道館で自然科学と化学の教師になりました。その際、家と馬を提供されました。 
 その後、東大の前身の一つ、南校の教師に、同じく東京大学の前身である「東京開成学校」の化学教授になり合計1870年から1874年まで日本に滞在。     彼はどっぷり日本社会に溶け込み、日本人の知的階級人にも多く会っているので、だからなおさら本の内容が素晴らしかったのかもしれません。 

 『ミカドの帝国』の中で以下のように書きました。
「これからのオーソドックスな世界一周旅行のグローブ・トロッター(globe-trotter)は、まず日本を経由し、その後アジア、ヨーロッパ、アメリカを経由することになるでしょう。」
 globe-trotterとは世界(観光)旅行者、(仕事で)いつも世界中を飛び歩いている人を意味しますが、グリフィスがこの単語を使ったことで「グローブ・トロッター」が流行語になりました。

 本の中身を少し覗くと人力車の値段交渉、古物商が提示した金額を1/10まで値下げする、図書館や博物館などに入場するのに特別な許可が必要で、日本人を介し大変だった、古代中国の書物研究の成果を自画自賛する日本人研究者の話が長い、税関の申告手続き、宿の悪口などちゃんと読むとなかなかおもしろそうです。
 余談ですが、彼は勝海舟に英語教師を紹介したそうです。

 スコットランド人のジョン・フランシス・キャンベルは日本旅行記『私の周遊記My Circular Notes 』(1876年)、イギリス人女性のイザベル・バートも日本旅行記、Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)(1881年)、
 イギリスのポーツマス出身のバジル・ホール・チェンバレン(帝国大学で教師をし、俳句の英訳や、琉球語とアイヌ語の研究で知られる)が『things Japanese(日本人のもの: 日本に関連するさまざまな主題に関するメモ)』を出版(1889年)。

 ドイツ人のカート・アドルフ・ネットは『Papierschmetterlinge aus Japan(直訳すると、日本からの紙蝶々)』を出版していますが、彼は秋田に鉱山工事現場の監督として迎えられ、新しい製錬方法を導入。その後、東京に移り住み帝国大学で鉱山および冶金学の教授になりました。
 この時、日本の木版画を収集しドイツに持ち帰りますが貯金を預けていた銀行が倒産してしまったせいで、せっかくの日本木版画をパリの美術商に売り払います。

Papierschmetterlinge aus Japan(直訳すると、日本からの紙蝶々)。アマゾン・ドイツに出ていました!
本の挿絵に使われたそうです↑
↑この約150年後には、外国製の百均ビニール傘の時代になろうとは…

 明治時代は他にも大勢の西洋人が日本の本を出しておりますが、今の日本観光ブームとの一番の違いは当時の西洋人は「物価が安いから日本に行きたい」ではなく、ちゃんと文化や歴史、風習を前もって勉強した上でそれらをもっと学びたいという志で、それなりの層が来日していることです。観光客の質自体はもう違うのかもしれません。
 私も知人に頼まれて色々な外国人を東京案内を何度かしましたが、何も日本について予習していない、あまりにも無知な外国人観光客にはちゃんと案内しよう、ちゃんと詳しく語ろうという気が失せます。(しかもボランティアですしね…)

 先日も日本のアニメ大好きな南米子さんを案内しましたが
「ジャップ」と何度か口にした時点で、太平洋戦争の話をさせてもらい、注意をしました。ちゃんと神妙に耳を傾けて謝罪してくれ、その後むしろ仲良くなれて良かったのですが、その国で言ってはいけないNGワードぐらい知っておいてね、と思いました。

80日間世界一周

 話は脱線しましたが、トーマス・クックが世界一周ツアーを出している最中、「80日間世界一周」の小説がフランスのメディアに連載され、1873年に出版もされています 。何度も映画にもなって有名な話ですが、この中でもスエズ運河を通過しています。

 ルートはロンドン→蒸気船でスエズ→蒸気船でボンベイ→鉄道でカルカッタ→蒸気船で香港→蒸気船で横浜→蒸気船でサンフランシスコ→大陸鉄道でニューヨーク→蒸気船でロンドン

南米とオセアニアがスキップされるのは「世界一周」のお約束🤣

 昔、私もこの80日間世界一周の行程を真似してやってみようと思い計画したことがあるのですが、途中で考えを変えて「世界の日本のデパートを巡るツアー」を決行をしました。 
 ロンドン三越→パリ三越とあと阪急百貨店だったかな?→ローマ三越、ローマそごう→ウィーン伊勢丹、ウィーン三越、、、、東南アジアの三越まで行きました。 

 旅の途中で知り合った日本人大学生君(卒業を控えた医学部君)とは「次はじゃあドイツの三越で◯月◯日に待ち合わせね」としたのですが、私はフランクフルト三越に行ってしまい、その日本人君はミュンヘン三越に行ってしまいました。スマホもないのでああすれ違い、、、。そののち、その彼は開業医になり、ああ逃した!ドイツに三越が複数あったせいですな。

パッケージツアーの弊害ー地元民の怒り

 話はトーマス・クックに戻りますが、世界周遊に限らずクックのパッケージツアーはどんどん増え、ヨーロッパではやはりイタリアに多くのツアーグループが押しかけました。イタリアは昔から人気の観光先だったのでしょう。

 すると新たな問題が起こり、シエナに住む住人は当時、怒りのコメントを発表しています;
「彼らは二人や三人で来るのではなく、群れでやって来ます。彼らは私たちをにらみ、笑い、教会の礼拝を妨害し、私たちの服装を認めず、私たちの料理を鼻で笑い、私たちの言葉をからかいます」

世界周遊から生まれたトーマス・クックの「大陸時刻表」

 トーマス・クック氏は初の世界ツアーを終えた後、1873年3月に初の「大陸時刻表」を出版します。表紙にはエジプトの🐪ラクダも描かれました。
 やはりトーマス・クック旅行社が一気に知名度を上げ会社を大きくできたのもエジプトのナイル川クルーズツアーが爆発的にヒットしたおかげです。なので原点(エジプト)への思いがあったと思いますが、1900年になると時刻表の表紙はライン汽船の写真に変えられました…。

ヨーロッパ鉄道に関係ない🐪のイラストが!

 この「大陸時刻表」は言わずもがな、のちの「ヨーロッパ鉄道時刻表」です。有名な赤い表紙のトーマス・クックの時刻表です。
 やっぱり自分が添乗に出たことで、鉄道の乗り継ぎで苦労を体験し時刻表の必要性を痛感したからではないかと思います。もしオフィスであぐらをかいていただけでは思いつかなかったでしょうね。

 2013年3月には時刻表初出版140周年を記念し、初版の復刻版が販売されました。買おうかなと当時、私は迷ったのですがこの二年前に東日本大震災があったところで、「モノはあまりため込むな」的な風潮がなんとなくあったため、
「本をあまり増やしてもなあ」
と買いませんでした。今、大後悔していることは言うまでもありません。

 そして2023年に150周年記念が出ましたが、この金額に腰を抜かしました。最近、紙媒体の洋書の1万円越えばかりですね…。

 トーマス・クックシリーズ記事、まだ続きます。
ちなみに私が働いていた時は、もうドイツ資本になっていました。ドイツ企業がイギリスの会社を次々買収していた時代でしたな…。

                  つづく

参照:

https://www.goodreads.com/book/show/300369.Unbeaten_Tracks_in_Japan

https://en.wikipedia.org/wiki/John_Francis_Campbell

https://hoaxes.org/af_database/permalink/around_the_world_for_210_guineas
https://www.ardalpha.de/wissen/geschichte/historische-persoenlichkeiten/thomas-cook-pauschalreise-102.html

https://www.hiddeneurope.eu/thomas-cook-march-1873

https://www.europebyrail.eu/140-years-of-the-thomas-cook-european-rail-timetable

https://visualizingcultures.mit.edu/gt_japan_places/ga2_essay01.html

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