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【ミステリ】切り裂きジャックの帰還 1 / 全8話

あらすじ

生活安全課の刑事、曽根は主婦の失踪事件を追っていた。時を同じくして起こる陰惨な殺人事件。その手口は逮捕されたはずの犯人、通称「切り裂きジャック」と酷似していた。
かつて事件を担当していた分析官、神代真琴を協力者に迎え、ふたりは事件の捜査を進める。神代真琴の犯罪分析と曽根の捜査により、失踪していた主婦を助け出すことに成功するものの、誤認逮捕を隠蔽しようとする警察組織に阻まれ、真犯人の捜査は頓挫する。
落胆する二人だったが、かつてジャックにより娘を亡くした家族の協力を得て、ついに真犯人にたどり着く。しかし、真犯人はふたりを挑発するような言葉を残して姿を消すのだった。

 1

 デスクから顔を上げると、生活安全課の少年係は曽根ひとりだった。腕時計を見て日誌を閉じ、コートを手に立ちあがると内線電話が鳴った。無視しようと思ったが、同じフロアで残業している数名が首を伸ばして、早く取れというように曽根を見ていた。
 舌打ちして電話に出ると、外からかけているのか雑音がひどかった。
「曽根か?」
 蟹江の声だとわかって気持ちが強張った。努めて平坦な口調で答えた。
「少年係に用か?」
「見てほしいものがある」
 反射的に壁にかかった時計を見た。
「勘弁してくれ。朝から聞き込みしてるんだ」
「探しているのが女だったら、関係あるかもしれんぞ」
 曽根から表情が消えた。
 人をやったから来い、と言って電話が切れた。放っておくわけにもいくまい。また舌打ちして、娘に遅くなると連絡を入れた。
 コートの襟を立て署の外に出ると、外灯が並ぶ国道沿いに人影はなく、風の音だけがごうごうと響いていた。
 ひどい晩になりそうだ。
 警官の送迎で監察医務院に着くと、蟹江は薄暗い廊下のベンチに座っていた。曽根に気づくと立ち上がり、顎をしゃくってついてこいと促した。
「覚悟はいいか」と蟹江が言った。
「さっさと済まそう」
 帽子、マスク、手袋で準備を整えると解剖室に入った。小便とヘドロの混じったような臭いがして鼻の奥がむず痒くなった。しばらく取れそうもない臭いだが、一方で刑事課に戻ったような懐かしさもあった。解剖台の前で顔を上げた男性医師は知った顔で、片手を上げてマスク越しに挨拶した。
「この間はごちそうさん」
「いま飯の話はよせ」
「しばらく来ないうちにホトケさんが駄目になったか?」
 医師はマスクの下で笑いながら、同意を促すように蟹江に目線を向けた。蟹江は肩をすくめただけだった。
 遺体はともかく、この臭いは堪える。胸がむかむかしたが、それでも遺体に近づくと下水のような臭いが耐えられないほど強まり、思わず目を閉じてマスクの上から鼻と口を押さえた。だが次に目を開けて遺体を覗き込んだ途端、曽根は凍りついた。
 一瞥して五体満足でないのがわかった。両足は切断されているものの、作りかけのジグソーパズルのようにあるべき場所に置かれている。胸から太ももあたりにかけては欠損がひどい。顔も傷つけられている。どうやら人の形を保っているが、いたるところが裂けて崩れていて、大きな口が人間を咀嚼して吐き出したように滅茶苦茶だった。
「ひでえな」
 そう言って蟹江が咳払いした。緊張しているのだ。
 医師は手を合わせると、ピンセットで頭を指した。
「上から行くか。二十代の若い女性。髪の毛は乱雑に切られてる。断面は恐らくハサミの様なものだろう。顔も同じだ。何度も切りつけられてる」
 医師がそう言って遺体の瞼を上げると、眼球がなかった。
「魚が食ったかな? 唇のほうは人がやってるな。削がれているし──舌も切ってる」
 遺体の首を撫でるように観察し、視線は抉られた胸元に移った。
「左右の乳房は目の細かい鋸のようなもので切断されてる。切断面から足を切断した凶器と同じだろう。性器は、長い釘状のもので何度も突かれてるな。小さな丸い傷口が複数ついてる」
 そう言って槍を突くようなしぐさをして見せた。
「太めの千枚通しのようなものを突きさしてる。おそらく腸まで貫通してるだろう。それから太ももの肉、これは削ぐように切ってる」
 途中から医師の言葉が入ってこなかった。あり得ないことが目の前で起こっていた。
 いや、やはり起こったか、というべきかもしれない。
 臭気や疲れは吹き飛び、思わず天井を仰いだ。
 医師は続けた。
「傷口から見て、ほとんどが生きているときにやられてる」
「分かってる」と蟹江が言った。
 その蟹江と目が合った。
 医師は言葉に反応して蟹江を、それから曽根を見た。押し黙っていると、医師が抉り取られた太ももを指した。
「傷の縁が治りかけてる。この傷がつけられてから殺害されるまで数日かけてるね。切り口は雑だがためらいはない。こりゃ過去にもやってるね」
 曽根が遺体を見つめながら口を開いた。
「どのぐらい水に浸かってた?」
「さあ、どうだかね」
「多摩川だ。鑑識はまだ仕事をしてる」蟹江がいった。
 バッテリーライトの傍で、這いつくばって作業を進める現場の状況が目に浮かんだ。折からの強風と小雨で、多摩川沿いは荒涼としているだろう。夜から早朝にかけてはいつ本降りになってもおかしくない。遺体回収を急いだ理由もわかった。
「足の切断は? 生きたまま切れるものかな?」
 曽根は質問ではなく確認のつもりだった。
 医師は頷いて、遺体に視線を戻した。
「足を切ったのは死んでからだってことは言えるね。凶器は少なくとも三つある。髪の毛はハサミのようなもの。顔の傷、胸、太ももは目の細かいノコギリや刃先がギザギザになっているナイフのようなもの。性器は長い釘状のもの。この三つ。傷の治り方だけを見ると、太ももの肉を削いでから三、四日は生きていた計算になるが、水に浸かっているからね。どうにも、絞り込むのは難儀だね」
 曽根は手帳に書きとりながら呟いた。
「切り裂きジャックがご帰還か」
 蟹江が驚いて、医師に「口外するな」と指示した。
 曽根が鼻で笑った。
「いいんだ。こいつはいいんだよ」
 蟹江は医師と曽根を交互に見て、マスクの下でため息をついたようだった。
 押し黙ったまま解剖室を出ると蟹江が後に続き、帽子を毟るように取って手袋やマスクと一緒にごみ箱に投げ入れた。
 蟹江が解剖室に顎をしゃくって言った。
「探している女か?」
 一瞬何のことか考えたが、失踪人の話だとわかった。
「いや、体格が違い過ぎる。探してるのは二十八の主婦だ。三日前に失踪してる」
「そうか」
 蟹江はまた黙った。
 曽根は解剖室の遺体を振り返り、二年前の凄惨な手口を思い返した。
 マッチングアプリを狩場にした連続婦女暴行殺害事件。不謹慎な捜査官が女性を解剖するような手口から犯人を『切り裂きジャック』と命名し、そのまま呼称となった。
「俺の勘が正しかったみたいだな」と曽根が言った。
 蟹江は無言だった。
「当時の手口はいまも公表してない」
 蟹江は声を落とせと手で制した。
「ここで滅多なこというなよ」
「今度こそ、本当のジャックを捕らえるチャンスだ」
「興奮するな。知らせてやったろ」
 蟹江は切り捨てるような口調で話を終わらせると、曽根の背後に視線を移した。近づいてくる足音に振り向くと、廊下の先に三人の男が見えた。
「帳場が立つ」蟹江が呟いた。
 男たちは明らかに曽根と蟹江に向かってきていた。
「初動はどうなってる?」
 蟹江は首を振った。これから、という意味なのか、収穫はない、という意味なのか判断できなかった。
 曽根が口を開くより早く、三人のうち先頭にいた男が吠えた。
「蟹江! 指示があるまで動くなと伝えたはずだ!」
「申し訳ありません。証拠保全のために遺体の収容を急ぎました」
 曽根と蟹江が敬礼すると、叫んだ男はもうひとりを伴って解剖室に入っていき、残された背の低い中年の男は寒そうに背を丸め、手をポケットに突っ込んだまま蟹江に近づいた。
「どうも黒伏です。ふたりとも、ここで見たことは口外しないでください。こちらで方針をまとめますから」
 蟹江が返事をすると、黒伏は曽根を見た。値踏みするような視線だった。薄気味悪い男だと思いながら、曽根は名乗った。
「生安課の曽根です。失踪人を探していたところ、遺体が上がったと聞いて駆けつけたのですが、別人だったようです」
 黒伏は蟹江を一瞥してから、にやけ顔で曽根に視線を戻した。
「君は管轄外でしょう。事件係には声をかけますから、よろしく言っておいてください。追って指示を出します」
 立ち去ろうとした黒伏の背中に、曽根が声をかけた。
「遺体損壊の手口が特徴的ですね」
 黒伏は踵を返した。
「なんですって?」
「遺体のことです」
 黒伏は口元に笑みを残したまま曽根に詰め寄った。
「いいですか? 捜査員に余計な話を漏らしたりしたら、懲戒ものですよ。先入観ほど恐ろしいものはないんですからね」
 言葉は柔らかだったが、有無を言わさぬ口調だった。
「失礼しました」
「時間が惜しいんです。もう行ってください」
 黒伏はそう言うと、先の二人には続かずベンチに腰を下ろしてスマートフォンをいじりだした。

 曽根が帰宅するとダイニングテーブルにはラップのかかった野菜炒めや小鉢が乗っており、洗面所からドライヤーの音が漏れていた。
 味噌汁の入った鍋に火をつけ、夕飯をレンジにかけて温める間に手早く部屋着に着替えて戻った。
「おかえり」
 パジャマ姿の娘がダイニングに入ってきた。寝る準備が整っている。そのまま部屋に引っ込もうとするところを話があるからと言って引き留めると、向かいの椅子に座った。
「課題やって寝たいんだけど、長くなる?」
 曽根は味噌汁をかき混ぜながら切り出した。
「警察辞めて良いかな?」
「え、なんで? 異動したばっかりでしょ」
「いまやってる事件に決着がついたら、そろそろ潮時だと思うんだよ」
 娘は考え込むように小さく唸ってから、いいよと言った。
「お母さんが生きてたら喜ぶと思う」
「そうか? 俺は複雑な顔すると思うけどな」
「そりゃあ、お父さんの前ではね。私にはずっと危険な仕事だから心配って言ってたよ」
「それは俺も言われた」
 味噌汁をすすると娘は席を立った。
「来年は就職だし、まあ何とかなるでしょ」
「卒業までは面倒見るから」
「ありがたい」娘は拝むように手を合わせた。
「飯、悪いな。作らなくてもいいんだぞ」
「そういうけど、つまみしか買ってこないじゃん」
 娘が部屋に引っ込むと食事と洗い物を済ませ、熱い茶を胃に流し込みながら検察庁から謄写してきた過去の事件記録と向かい合った。
 事件のあらましは二年前の夏から始まっている。曽根は自分の記憶と照らし合わせながら読み進めていった。
 最初の遺体は大きな公園で見つかった。次は住宅地の裏手で、最後は藪の中。いずれも多摩川付近で、わずか三か月の間に立て続けに起こった。目撃者なし。動機も不明。満足な証拠は集まらず、死体ばかりが増えていった。
 忘れられない事件だ。
 夏も終わりに差し掛かった頃、最後に発見された遺体に付着した精液からDNAが検出されて事件は決着した。
 いや、決着したはずだった。
 自供によると、被疑者はマッチングアプリを利用して知り会った女性三名と性交したのち殺害。多摩川付近で遺体を損壊し、遺棄したという。精神鑑定の結果は責任能力ありとして有罪となり、無期の判決が為された。被疑者は痴漢で数件の前科前歴があり、DNAデータはその時採取したものだった。
 調書の通りなら杜撰な犯行だし、曽根は腑に落ちなかった。
 合同捜査本部は異常性犯罪と断定したものの、精液は三番目に見つかった遺体からしか検出されていない。遺体を運んだとされる車内からは知人友人含めて複数の痕跡が検出されたが、被害者三名のなかでは最後のひとり分の髪の毛や皮膚片しか出なかった。
 この点は弁護士も指摘していたが、検察の抗弁はこうだ。
 いずれの遺体にも性交の痕跡はあったが、精液からDNA型を検出できたのが三番目の被害者だけだった。遺体はビニールシートなどでくるんで車に乗せ、足も移動後に切ったという自供を得ている。証拠隠滅を図って都度車内を掃除していることから、多くの証拠が消されたのだろう。
 なるほど検察の主張は一応理屈が通っていた。
 だが遺体の脚ひとつとっても、医師が言うような鋸で切断するには時間がかかる。腕力のある者でも簡単ではない。夜の土手とはいえ、人目に付きそうな場所でやるのは不用心すぎる。運ぶのにも不便だし、まず切ってから車に乗せそうなものだ。
 しかし判決はすでに出ている。自供と状況証拠、そしてDNAという強力な物証があっては、どうすることもできない。当時も上の顔色を無視して粘ったが、捜査の見落としや証言を覆すような証拠を集められず、手詰まりになった。思い返してもDNAが出たことで枝葉の捜査を打ち切ったのは早計だ。
 この事件はもっとうまくやれたはずだ。初動捜査も遅れ、捜査員の動きも鈍かった。いまとなっては切り捨てた枝葉の中に真実が紛れていたと思わざるを得ない。
 そう考えて、科学警察研究所からきていた分析官を思い出した。起訴資料からは省かれているが、ジャックの犯人像について積極的に仮説を立てていた。
 たしか、資料があったはずだ。
 自室の段ボールをあさると、ステープルで止められた数枚のレポートが出てきた。捜査関係者に配布されたもので、そこには逮捕された被疑者について納得のいかない点が端的にまとめられていた。分析データを提示したうえで、被疑者のパーソナリティが犯行と合致しておらず、検察の言うような性的異常を認めるなら当然発生するであろう強姦や性交の代替となる行動の形跡がなかったことを、繰り返し証明しようとしていた。曽根が覚えていた疑念についても、すべてレポートに列挙されている。
 いずれも自供や捜査本部の見解と相反する内容で見向きもされなかったが、いまでは彼女の指摘も信憑性が増してくる。
 逮捕されたジャックが別人なら、これは始まりだ。
 携帯が鳴った。娘を起こさないよう飛びつくと、電話口で蟹江の声がした。
「起きてたか。招集だ」
「昔の資料を見てた」
「遺体の身元がわかった。被害者の姿が見えなくなったのは十日ほど前で、同僚が最初に気づいたらしい。死亡してから三日ほどだ。一週間は生きてた計算になる」
「強姦の形跡は?」
「ない」
「ジャック事件で精液が出たのは最後のひとりだけだった」
「ああ、三人とも強姦されたうえで殺されたことになってるがな」
 蟹江も過去の資料に当たっているのがわかった。元来、関係のない事件を覚えていられるほど記憶力のいい男じゃない。
 曽根が続けた。
「白の軽バンを覚えているか? 捜索を打ち切ったやつだ」
「今度の事件で目撃証言はあがってない」
「あの時はDNAが出たと騒いで、捜査対象を早く絞りすぎたんじゃないか?」
 曽根の言葉を蟹江が遮った。
「ジャック事件と似てるってことは、誰かの余計な一言で上にも十分伝わってる。これ以上かき回すな。方針が決まれば地取りには呼ばれるだろうが──」
 曽根は上の空になっていた。自分の言葉に引っ掛かりを覚えて、何かを見落としている気がした。慌ててコートから手帳を取り出すと昨日のメモを見た。
 多摩川の遺体の記録を飛ばし、発見現場の状況を飛ばして、失踪人のメモまで手帳を遡った。金曜の夜から姿を消している主婦、古賀美月の足取りを時間を追って記したものだったが、ページを繰るうちに確信に近いものを感じ始めていた。
 古賀美月を最後に見た隣人の証言メモに『軽車両 白』とあった。
 その隣人は車に詳しくなかったが、自分のバイト先でも配達に使っていると前置きしたうえで、スマートフォンで検索して似た車両を見せてくれた。白の軽バンだ。
 最後に目撃された古賀美月は、停車した車のそばに立ってスマートフォンを操作しており、運転席は見えなかったという。
 蟹江は何度か呼びかけて異変に気づいたのか、言葉を切った。
「どうした?」
「俺の追ってる主婦だが、白の軽バンらしき車両と一緒に目撃されてる」
「追うつもりか?」
 曽根は覚悟を決めて言った。
「本部はジャック事件を再捜査すると思うか?」
 蟹江は口ごもった。
「どうなんだ? わざわざ俺に遺体を見せたんだ。お前も誤認逮捕を疑ってるんだろう?」
「間違いだったらどうする?」
「懲戒ものだろうな」
「俺はごめんだ」
「このままでいいはずない」
「再調査は止めたんじゃなかったのか?」
「ジャックが戻った今なら話は別だ」
 蟹江は考え込むように唸ってから、語気を弱めた。
「本当に逮捕までもっていけるか? できなきゃ、首を括ることになる」
「二年前の事件とつなげることができれば俺の勝ちだ。あとはマスコミや世間が黙ってないだろう」
 蟹江は肯定とも否定とも取れるような声で返事をした。煮え切らない反応だった。
「わかってるだろうが、俺たちだけの問題じゃないんだぞ?」と蟹江は言った。
「その通りだよ。逮捕された男は刑に服しているし、死んだ被害者たちも浮かばれない。それに、探している女性は失踪から三日目なんだ。車しか手がかりがない。多摩川に浮かんでから悔やむのはごめんだ」
「無謀だ」
「死んだなんて報告する気はない」
「殺しは生安課の仕事じゃない」
「殺しじゃない。失踪人の捜査だ」
「多摩川の遺体とお前の追ってる女が繋がったわけじゃない」
「それを今から調べるんだよ」
「事が事だ。下手に動くと足元をすくわれる。誰にも頼れんぞ」
 曽根は手に持ったままのレポートに視線を落とした。
「そうでもない」


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