「あなたは自由に生きていいのよ」そう言って女権業者は、家庭を破壊し夫を奴隷化する方法を教えている。

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「法」にのっとって解決しようともがいていると、法によって仕切られた枠の中でしか物事を考えられなくなってしまう。ましてや、こんにちの司法の役割は、少なくとも家庭裁判所においては、なかんずく子供連れ去り問題に関しては、崩壊している。
連れ去り妻―女権団体―ラチベンのトライアングルによって、家事法はいいように蹂躙されているのが現実だ。
 多くの拉致被害父親たちと同様、私も「法」の前に屈従を強いられていた。ふつうの人は「法は絶対」と思い込んでいる。信仰のようなものだ。法が自分たちの幸せを守ってくれて、法を犯すと天罰が下ると信じてやまない。ご多分にもれず、私もそう思っていた。
 だが、その法は何をしてくれただろうか。私が罰を受けるのはいい。大人だから、自分が選んだ伴侶から仕打ちを受けることも理解できる。
 子供たちには何の罪があったのだろう。なぜ、ただ平和を願って暮らしていた幼子は心を引き裂かれなければならなかったのか。法は万能でも公平でも平等でも無く、「だいたいこういう場合は、こうなる」と最大公約数的に物事を当てはめるだけの社会装置なのだ。
 法によって追い詰められた私は、とうとう法を無視することにした。
「子供に会いに行こう」と決意したのだ。子供を探し出して、抱きしめよう。「お父さんは君を愛している」と伝えよう。法を使って追い詰められたことが、法を乗り越えて、暴力的なことをする父親であってはならないという思い込みを取っ払ってくれた。
どれだけ「高葛藤」をおさえこみ、社会的信用をアピールし、良心に則って反省を示し、前向きな譲歩を提案したところで、法はそんなものを意に介さない。これらが、はじめから無意味な取り組みだったと分かったことが、唯一の収穫だった。法は、無視する。というより、私たちの問題には関係なかった。部外者なのだ。心が決まると、元気がわいてくる。
 当然、善良な部外者の皆さんからは反対の声が上がった。口をそろえて「友達として」「おまえのために」と言う。しかし「俺を止めたことの責任をどう取る? 子供たちが危険にさらされつづけるかもしれないが、どうすればいい?」と尋ねると、誰ひとりとして、それに答える者は無かった。当然だ。私が逆の立場だったとしても、責任の取りようなど無い。
 私に必要なのは、励ましや慰めではなかった。ましてや倫理や人の道を説いてもらうことであろうはずがない。ただひたすら、情報が欲しかった。事前のシミュレーションをなるべく完璧に近づけるための情報が。
 私は事情を誰にも話さずに、情報のみを集めることに専念した。
 まず子供たちの居場所がわからない。元妻がどこに住んでいるのかも謎だ。
 彼女の実家に電話をかけても「現在、使われておりません」というアナウンスが流れる。子供が出ないように固定電話を外したのか、それとも引っ越してしまったのだろうか。元妻は両親を嫌っていたので、一緒に住んでいない可能性もある。事実、「離婚して仕事が忙しくなったら、子供は施設に預ければいい」と私の母親に豪語していたこともある。

 女権団体の洗脳の核は「息苦しい母性のくびき」から「男女平等」を大義名分に、女性を解放することにある。母であることを放棄する行為に、正当性を持たせる。「頑張らなくていい」「あなたは、そのままで素晴らしい」「好きに生きていい」という魔法の言葉は女性の内なる不満を、子供を遺棄し夫を敵視することで気持ちよく昇華させる。
 事実、これは元妻から聞いた話だが、女権団体幹部の多くは、離婚して夫を排斥している人が多いそうだ。もっとも象徴的だったのは、夫と離婚した後も一緒に住み、夫を家政婦あつかいしながら自分の好きな趣味に明け暮れている女性だ。彼女は「離婚しても夫に生活の保証をさせつづけること」を「自立した女性」の成功例として声高に語っている。
男性でも、もし「仕事に誇りを持たねばならない」「しっかり稼がなければならない」「立派な男でいなければならない」という思い込みが無意味であると信じられたなら、ラクになれる人は少なくないだろう。ただ、そうなったら確実に社会は崩壊する。女権団体が、家庭を崩壊させたように。

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