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つまり、そういうことだ⑥

おまえはすっかり忘れているが、おまえは本当は、満ち足りた状態で存在している。
いま、そこにいるおまえは、それをさらに満喫するための、かりそめの姿、いわば例え話のようなものだ。
言い換えれば、この世は存在が、おまえというアバターをまとって遊んでるメタバースみたいなものだ。

簡単に言えば、ごっこ遊びだ。「ゲーム」だ。
どんなゲームも、人生に例えられないものは、ゲームとして成立しない。
皿の上に豆を乗せ、それを箸でつつく。
回数は無制限。豆が潰れてもいいし、箸が滑ってもいい。何回つついてもいい。つつかなくてもいいし、いつやめても構わない。
これはゲームにはならない。
ゲームにはルールが必要だ。リスクやゴールが必要だ。
それがなければ、快楽を得られないからだ。
人生という限定された環境、人間という有限なアバター。
その構造を模倣するもの以外、おまえは楽しめないように出来ている。

たとえばテトリスは、空から落ちてくるブロックをきれいに並べて消していくゲームだ。
現実世界で空からブロックが降ってくることは滅多にないし、ましてそれを並べると消えるなんてことはありえない。
しかし、おまえの心の中ではこれが起こっている。
誰かがおまえにタスクを与える。おまえは条件を整えて、それを消化する。
現実世界では面倒くさかったり、リスクを伴ったりするそれが、ゲームの世界では比較的簡単にクリアできる。リスクもゲームの中だけで収められるようにつくられている。
どんなにミスしても、ゲームをやめれば無かったことになる。ごっこ遊びだからだ、
だから、ゲームは面白い。
得たかった快感が簡単に得られるからだ。

世界は、フラクタル構造だ。
「自己相似性」を有する幾何学的構造。
全体を見ても部分を見ても、似たような形をしている。
ブロッコリーを分解していくと、ちぎった部分が全体と同じ形をしていることに気付く。
人生ってやつも同じだ。
生まれてから死ぬまで、何度も覚醒と睡眠を繰り返す。
覚醒している時間にすら、脳は寝たり起きたりしている。
国や組織は、人が集まって意見を交わし運営されているが、ひとりの人間の中にすら、複数の意見は存在している。
微分しても積分しても、似たような構造になっている。

人間はゲームをする。それに熱中する。
ゲームは、大人になるにつれ、複雑性を増していく。
知識や経験が増え、技術が習熟し、刺激にも強くなってくる。
そうすると、もっと強い刺激や、入り組んだギミックがなければ快楽を得られない。
おまえは生長すればするほど、より現実に近い、より本質的な構造のゲームを求めることになる。
最終的には、自分という限定された存在で、リアルな刺激を得られる「人生」というゲームに帰って来るわけだ。
人生をゲームとして熱中しているのは、おまえという限定的アバターを超えた、本来のおまえという存在だ。

そして、その本来のおまえという存在もまた、さらに大きなフラクタルの一部にすぎない。

じゃあ、おまえとは何だ。
存在とは、何なんだ。
終わりも始めもないフラクタルの中を漂って何がしたいんだ。

(つづく)

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