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つまり、そういうことだ㉓

では自由とは、なんだ。
自由とは、拘束されていないことではない。
楽ができることでもない。
時間やお金が余っていることでもない。
だから仕組みをつくることでもない。
ましてや他人を動かしたり操ることなどではない。
ワガママを通すことかと言われれば、部分的には合っている。
ワガママしたほうが良いときにワガママできるなら、それは自由かもしれない。
ワガママしたくないときに、ワガママになってしまうなら、それは不自由以外の何物でもない。
自由とは、自分に必要な縛りを選ぶことであり、自分を操って動かすことであり、都合が悪いことが出来(〓しゅったい)しても喜んでそれを選べることだ。

どういうことか。
自由とは、自由だけ単独では存在しえないものだ。
例えば「適当なタイミングで何でもいいから好きなだけ話してください」と言われたら、おまえは何を話すだろうか。
「いつから何をどんな風に話すか」について迷うか、迷わないか、それ以外だろう。
それと較べて「合図をしたら、きのう食べたものについて味と量と満足度を一分間で話してください」と言われたらどうだろう。
前者に較べれば格段に話しやすくなる。

「制限」や「条件」は、おまえが何かを選ぶための基準となり、道標となるものだ。
「愛とは無条件に与えること」という格言すら、条件を述べている。
「自由とは、制限や条件の中でしか実感できないもの」なのだ。

自由は、いつも縛りを求めている。
自由に走るためには地に足をつけなければならない。
自由に泳ぐためには水の抵抗がなくてはならない。
自由にものを観るためには、光(見える)だけでなく、陰(見えない)も必要なのだ。

そして自由は、「自在」とセットになって、はじめて実効性を持つ。
自由が、好きな通りに「選べる」ことだとすれば、自在は、思うがまま能動的に「使える(動かせる)」ことだ。
選んだだけでは、自由は自由たりえない。
自在に使う(動かす)ことが、自由を自由たらしめる。
痩せると決めた。痩せることを選んだが、運動が続かない。道具を使えない、身体を使えない、時間を使えない。やる気を出させられない。
これでは、せっかくの自由を行使することが出来ないではないか。

自由と自在はセットである。
自由は縛りを求め、自在は能動を必要としている。
自分の頭と心と身体を動かすこと無くして、自由も自在も無い。
自由は、楽することではない。
苦楽や快不快、損得を超越して、生命の使い方を選び、実行することなのだ。
そして充実感を得ることにほかならない。
これ以外に、自由はなく、この条件を満たさずして自由にはなられない。

(つづく)

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