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『ときめきに死す』 オタクとカルトというふたつを先取りした予言的映画。森田芳光監督の隠れた代表作。

評価 ☆☆☆☆



あらすじ
謎の組織の男性たちがピンボールゲームをしている。夏の通り雨が過ぎた後、北海道の渡島駅に静かな佇まいの若者、工藤直也が到着した。先に車で待っていた中年男性、大倉洋介は居眠りをしていたせいで、彼を出迎えようとするが見つからない。



1984年公開の、かなり古い映画である。だが、人間を見る冷めた眼差し、人間を感情の揺れを排除して扱うことのできる映像は、森田監督の得意とするところだ。『ときめきに死す』は、そんな森田監督のひとつのエポック的存在の映画。個人的に好きな作品でもある。出演は沢田研二、杉浦直樹、樋口可南子など。



ひとりの若い男と中年男が別荘で奇妙な共同生活をする。そこに介入する若い女。予定されていたある計画。原作は丸山健二。タフな原作である。こっちの方には女性の姿などまったくない。この原作は大好きで何度も読み返している。



オフビートながらスタイリッシュな映像は前田米造によるもの。カメラも冴え渡り、非常にシャープである。



新興宗教を扱っている点でも興味深い。オウム真理教などの前だったと記憶している。



荻昌弘という映画評論家が、当時、この作品を高く評価していた。森田芳光は“冷めた人間関係を描くことのできる監督”と表現している。



僕は、何度もこの映画を観たし、実は、わざわざ、この映画のロケ地にまで行くほどのファンである。北海道のあのパチンコ屋にまで行きました。ロケ地情報は、昔、イメージフォーラムという雑誌の「ときめきに死す」の撮影日記で調べた。あれって再販しないんですかね。



もう少しこの映画を考察するとしたら、この映画はオタクとカルトを題材にしている。沢田研二演じる工藤は、ナイフオタクとして描かれているし、彼を雇うのは「新宗教」と名乗る謎のカルト宗教集団である。この2つの関係性を、静かなタッチで描こうとしているという観点からも先見の明があったと言える。



何度も観るにつれて、この映画の最大の敗因は主演の沢田研二の肉体かなと思ってしまう。やっぱり、肉体を鍛えることって大切だと思っていた。ところが、この肉体の話には実は裏がある。



沢田研二はビルドアップして撮影に臨もうとした。しかし、森田芳光監督はそれを制止して「もう少しゆるい肉体にしてくれ」と沢田研二に注文したという。



これはどういう意味か? この映画はテロではなくテロまがい。「の・ようなもの」にしたかったらしい。少年が夢見る革命はリアルの革命ではない。だからこそ得体のしれない組織に利用される。その儚さこそがこの映画のときめき、なのだろう。



意味不明な場面もいくつか出てくる。食事シーンの屋上、裏写りまがい(鏡で撮影したらしい)の殴打、岸部一徳の行う海の中での変な勧誘など。そこに意味などない。意味を排除した戯れは、80年代的ポストモダンという流行の象徴であり、得意としたものでもあった。



もちろん、この映画は森田芳光監督が自身のために製作した『椿三十郎』であることは間違いない。ただし、椿三十郎ほどのストーリーテリングの妙はない。むしろ「の・ようなもの」つまりデジタル的(本物ではないもの)な視点から、当時の日本を切っている。



新しい可能性を感じさせる作品だったが、この映画の後に続く作品はない。
そこが残念でならない。



初出 「西参道シネマブログ」 2006-01-02



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