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『座頭市』(1989年) 勝新太郎の独創的で斬新な殺陣シーンは必見。

評価 ☆☆☆



あらすじ
役人をからかったとして牢に入った座頭市は、鶴という革命家気取りの男と知り合いになる。百叩きを受け、解放された市は知り合いの老人・儀肋を頼ってある海辺の町に向かう。この地域を縄張りとするのは五右衛門一家だった。



以前から『座頭市』シリーズは面白いと聞いていたし、勝新太郎に関する伝説も数多くあるのも知っていた。特にテレビシリーズの『座頭市』を製作する際の伝説的なエピソードはどれも興味深かった。



映像が先行し、ストーリーは二の次という脚本を無視した映画作りをする勝新太郎の姿勢は、まるでヌーヴェル・ヴァーグである。やっと1989年版の『座頭市』を観ることができた。座頭市の映画として26年目である。最後の勝新太郎監督による作品。出演は緒形拳、樋口可南子、陣内孝則、内田裕也など。



驚くべきは殺陣シーンだ。本当に凄い。斬新なアイデアが満載で、ラストの決闘は映画的な感覚に溢れて、それだけで興奮させられる。樋口可南子も美しく撮れている。



映画が映像芸術であることに間違いない。勝新太郎が提唱している映像先行論理もある意味では賛同する。だが、1989年の『座頭市』は映像重視になりすぎている。物語としてすっきりしていない。前のエピソードが次のエピソードにつながっていない部分も多々ある。



緒形拳の描き方も中途半端、樋口可南子の背景もわからない。小さな子供たちを集めて寺子屋のようにしている話もよくわからない。「世界観」に整合性がないということかもしれない。



「世界観」がわからなくなるのは冷静な判断が下せないからか? 晩年の黒澤明もそうだが、有名になってしまうと誰かの冷静で辛辣なアドバイスに耳を傾けなくなるようだ。結果的に出来上がった作品はひとりよがりなものになる傾向がある。だから面白さが半減してしまう。



このことは果たして、作品のために良いことか? それとも? このあたりの基準は各監督によって異なるし、正解などないのだろう。観客も多種多様な価値観がある。僕個人としては映画なんだからさ、もうちょっと話の世界観が統一されて欲しいよね、と僕は思う。



『座頭市』は普通の映画のレベルを超えた面白さではある。娯楽作品としても楽しめるし、殺陣のクオリティは最高レベルだ。類似品を遥かに超える。その意味では見て損はないはず。



初出 「西参道シネマブログ」 2012-10-05



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