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『心中天網島』  映画化に関して黒子たちが登場。解説するとしたら、運命を操る何かが実在するということか。

評価 ☆☆



あらすじ
江戸時代、亨保5年。大坂天満で商売をしている紙屋の主人である治兵衛は、曽根崎新地にある河庄の遊女、小春と深い仲になっていた。治兵衛の女房だったおさんは、小春に夫と別れて欲しいという手紙を出した。また、治兵衛の兄である孫右衛門も侍に変装して小春に会おうとしていた。



ATGつまりアートシアターギルドの制作した映画の中で面白いものを紹介しようと思ってすぐに頭に浮かんだのが『心中天網島』だった。1969年公開で、監督は篠田正浩。出演は中村吉右衛門、岩下志麻。脚本は篠田正浩、富岡多恵子、武満徹の3人という珍しい組み合わせ。原作は近松門左衛門。



大阪天満の紙屋治兵衛が妻子がありながらも遊女の小春と深い馴染みになり、 2人が真に結ばれるには情死するしかないという心中もの。



篠田正浩。このひとも妙な監督だ。『卑弥呼』も変な話だった。ちなみに彼が映画監督になったのは、ある予告編を編集して音楽の使い方がすごかったからだという。その予告編を観たが、確かに迫力があった。



『心中天網島』は、岩下志麻と中村吉右衛門が、書割のようなセットの中で芝居をしている。まるで人形浄瑠璃のように黒子たちが何人も登場する。最初は「なんだ、なんだ」と思いながら見ているが、そのうちにこの黒子たちが不気味見えてくる。いったい、この黒子たちはなんなのか? 理由付けもない。



黒子の登場は特殊で、この他の映画では観たことがない。この黒子が存在するだけで、映画は極めて緊張感を持つ仕上がりになっている。すこぶる怖い。



敢えて解説するとすれば、黒子は神の手先あるいは運命の操作者。例えば、我々は自分の意思で生きていると思っている。ところが、実は黒子がいて、我々は操られているのかもしれない。いや、馬鹿な、と本当に笑えるのか? それは誰にもわからない。



黒子たちの存在は実際に生きている人間たちにはわからない。だが、時折、そんなものがいるかも、と感じる瞬間がある。それは死を選ぶ時。本来なら生物にとって最も敬遠されるべき死に向かう行為は、自分のものではなく誰かに操られていると思うのでは、ということだ。



モノクロの映像も美しく、武満徹の音楽も妙にはかない。斬新というか、アーティスティックなアプローチができて、同時に映画的に成立している作品。こういうのは人形浄瑠璃の教養とセンス、もちろん映画監督としてのスキルがないとできない。



昔の人たちの方が絶対頭いい感じがする。いまの映画監督には作れない。いや、観客のクオリティが高かったのかもしれない。



確かにネットで情報は増えた。けれど、スマホでSNSばかり追っていて、自分で考える時間が少なくなっているのは事実。本当にそんなのでいいのだろうか。本当にそんなことで『心中天網島』レベルの映画、小説が作れるのだろうか?



心中モノっていうのはこの年になると魅力的に感じることがある。なぜでしょう。『失楽園』だって現代の心中モノ。ちょっと気になる。



追記



この映画の助監督は小栗康平。確かに彼の映画には『心中天網島』の影響が見え隠れしている。



初出 「西参道シネマブログ」 2006-01-12



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