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Zen2.0 2023 セッションレビュー 〜DAY1 セッション#4(方丈)身体が作る世界と知能の循環~AIと人間の関係性

1日目、方丈で行われた4つ目のプログラムは、ゲームAI研究の第一人者、三宅陽一郎さんと、実践的な経験を持つボディワーカー、小笠原和葉さんのセッション。知能と身体の循環について、お二人の深い洞察と興味深いお話が展開されました。

まず三宅さんの講演、次に小笠原さんと続き、その後にお二人の対談、という形でセッションは進みました。
冒頭、小笠原さんが三宅さんに向けた「ファン代表としてインタビューするつもりです(笑)」という言葉で会場は和やかな雰囲気に包まれ、セッションはスタートしました。


三宅さんの講演


人工知能と身体


私は普段、ゲームのモンスターや、仲間キャラクターの知能を作っています。知能とは何か、キャラクターの身体とは何か、を毎日考え、人工知能とは何かを考える、足場としての哲学を探求しています。

ゲーム内のキャラクターのアニメーション(動作)を人工知能から指令するんですが、これがなかなかうまくいきません。なぜかというと我々の身体の場合は身体の方からも、こう動きたい、というのが知能に届く。心と身体は相互的なものなんです。でも、人工知能で考えるときは、人工知能が上で身体が下、とやってしまう。そうするといろいろ齟齬が出る。人工知能開発をやっていても、そのどまんなかで心と身体の問題に突き当たってしまうんです。もともとデカルトという哲学者が400年前からこういうことを言っていましたが、心身問題は未だに哲学上では謎と言われていて、すぐ解けるものではないんですが、色々試行錯誤しながらやっています。


人工知能とは何か


人間の様々な要素を分解して生物学、医学、物理学、心理学、文学など・・・それを学問といいますが、それらをもう一回統合して、人工的に人間を作っちゃおうという試みが人工知能です。他の学問と違うのは総合的なところ。でも不思議なんですけど、分解したものをもう一度つなぎ合わせようとしても、これがうまくいかない。分解したときになにかが失われているんです。そして失われたものがなにかが実はよくわからない。 

キャラクター達を作るときは、煩悩を与えていく、ということをやります。プレーヤー憎し、とか、あそこの木の実はおいしいぞ、とか。人工知能を普通に作っているだけでは動き出さないんです。なんらかの執着がないと動き出さない。堕落させているということですね(笑)


人間の外側の世界、物理学とか世界にについては非常によく研究され、わかっています。なのに人間の中身はまだよくわかっていません。なのに人工知能作れるのか、といわれると、本当は作れない。だから、作りながら、ここは合ってたな、間違ってたなどと試行錯誤をしています。人工知能やっている人も本当は人間の中身のことよくわかってはいないけど、ただ興味は強いので、ただ哲学的に考えるよりも、実際にプログラムを作ってみて考える、ということをやっています。その中でも特にゲームは、「いい感じ」に作ってみて、人間と戦わせてみる、ということをするので、探求し甲斐がありますね。

そしてやがて、知能だけ探求しても、できないことに気付きます。環境との循環の中に人工知能を作らないと、うまいこと環境と調和できないんです。人工知能を作ってから環境と合わせる、というのが普通のアプローチですけど、だいたいそれはうまくいきません。環境の中の一部として知能を作る、知能の中の一部として環境を取り込む、というのでなければうまくいかないんです。

知能と環境


問題は知能と環境をどう繋ぐかです。人間は環境の中で「いい感じ」に調和していますよね。
これ、よく考えると不思議なんです。世の中の原理全部わかってなくても「いい感じ」で生きられる。相手のことわからなくても、それなりに仕事できたりして。環境と知能の間の循環をどう作るかが非常に難しい問題で、いろんな人が探求していますが、なかなか一筋縄ではいかない問題です。

端的にいうと知能は3段階、知能・身体・世界、となっています。身体があるということは世界に巻き込まれるということです。無ければ世界と同期をとる必要がありません。
この構造を見ると、知能を作るためには、世界と身体がなければいけないのが当然と思いますが、人工知能やる人の95%は、知能には身体はいらないという考えです。機能だけ考えれば身体いらないんです。でも知能全体を作ろうとすると身体が必要。実際の世界で活躍するには身体がないと世界に参加できません。知能だけで世界に参加できるというのはネット上だけです。実際の世界では、知能と世界をつなぐものでもあるのが身体です。

世界構造・身体構造・言語構造


仏教で唯識みたいなものは、身体から言語構造にどう移っていくか、これはまさに執着がどう生まれるか、というようなものですが、世界から知能を作るためには、世界・身体・知能(言語)と段階を経て、階層構造で作っていくっていうのが、人工知能でもそうですし、実は唯識論でも1000年前からそのようなことを言っています。
最初は、判断が入らないものから意識っていうものが生まれて、世界に色をつけていくわけですね。なぜ煩悩が必要かというと、これがなければ世界は全部平坦に見えてしまう。凸凹がない世界は、特に何もする必要がないんです。人間ていうのは生物ですから偏りがある。人工知能を作る時も、実際の活動をさせるためには偏りを作らざるを得ないんです。そういうのはちょっと面白いなと思います。仏教の逆をやっていくということですね。

環境と知能のつなぎ


環境と知能のつなぎというのをどうすればいいのか・・・答えからいうと、環境と知能の間に身体があるということです。身体は知能の一部であるし、環境の一部でもある。人工知能を作る場合は、身体という縛りが無いので逆に苦労します。なんでもできてしまうので、どうやって世界に参加するかの方法の、固定ができないんです。

環世界モデル

我々は、長い進化の中で、特定の世界のあるものに対して、あるアクションを行うという一つのループを形成しています。これが環世界です。生物の一番根底で世界を作っているのが環世界です。りんごを見たら食べ物だと思う。ミツバチが花を見たら、興奮して蜜を吸ってしまう、というような、原初的なループが環世界です。

環境と知能をいかにつないでいくか、というのが私のテーマになっています。

小笠原さんの講演


宇宙物理学からボディワークへ



私は、ボディワーカーという仕事しています。
昔は高エネルギー宇宙物理学をやっていましたが、その頃から、私たちが知覚している世界を基本にして物理学を組み立てていくことがOKなのか疑問に感じていました。
その後、自分のアトピーなど、健康問題が色々とある中で、ヨガ、ボディワークに出会い、現在はボディワーカーを仕事にしています。
自分自身の体験としても、クライアントさんを見ていても、心にいきなりアクセスするのは難しく、本質的な変容が起こるときには、身体が変わって知覚が変わり、心が変わるという順番なのを実感しています。私の臨床や研究のテーマは、一貫して、「心と体の関わり」と、「生命のアートとサイエンス」です。ボディワークは医学と違って、生命のアート的、サイエンス的両方の側面を扱うものだと感じています。

ボディワークとは


「ボディワーク」は、「心と体はつながっている」というアイデアを基に、体に介入していく技法の総称です。クライアントの体に実際に触れて整えていく手技療法、マッサージ、カイロプラクティック、鍼、もボディワークに入ります。そしてまた、ヨガ、ピラティスなど、実際に能動的に体を動かす運動療法、あるいは動かし方について介入してもらうアレクサンダー・テクニークなどの運動療法もあります。そしてダンスなどのムーヴメントを使ったセラピーも、ボディワークです。技法は非常に多種多様です。

クラニオセイクラル・セラピー(頭蓋仙骨療法) 


私が行っている技法で、代表的なものです。臨床20年経験していますが、最初にやったボディーワークです。「5gのタッチ」と言われる繊細なタッチで、脳脊髄液や身体の液体性に働きかけ、自然治癒力を高めます。施術者が介入していくのではなく、クライアントの中で働いている生命システムに知覚を向けて、ただそれに寄り添い、クライアントの体の中で起こっている事に、瞬間瞬間ついていく、という技法です。色々学んだ技法の中で、この、一番何もしない技法が一番効くんです。一番劇的な経験をしたのもこのワークで、他のワークにないものを教えてくれるんですが、私は非常に混乱しました。何にもしていないのに、こんなに効くっていうのはどういうことだろう? サイエンスから来たマインドだと、何かが起こってもらっては困るという感じです(笑)。一体何が起こっているのか、リバースエンジニアリングしていく、これが私のボディワーカーとしての道のりでした。

ソマティック・エクスペリエンシング®


もう一つやっているのが、身体指向のトラウマ療法、「ソマティック・エクスペリエンシング®」です。トラウマって、実は心の問題ではなく100%生理学的な問題だったんだ、という視点で行うトラウマ療法です。心ではなく、生理システム(主に自律神経系)に障害が起こっているので、そこに介入していく事でトラウマを治療していくという技法になります。今日は、その基礎理論となっている、ポリヴェーガル理論(神経理論)についてお話をしたいと思います。
ここで述べられている、ニューロセプションを端的に説明すると、身体が認知のレベルではなくて、無意識のレベルで環境を評価している。身体を通して世界とかコミュニケーションの相手を査定しているということです。認知のプロセスではなく、身体的なプロセス。頭は大丈夫と思っているけど体が危険だと思っていると危険に対する反応が身体に起こってくる。私たちは身体を通して世界を知覚している、という理論です。

ニューロセプションが、この世界とか他者を安全だ、と知覚していると、世界やコミュニケーション対象とつながって、創造したり探求したりする態度が生まれてきます。危険だ、と身体が判断すると、交感神経のエネルギーが動員されて闘争ー逃走反応が起こってくる。さらに極度の脅威(命の危機)と判断すると凍り付く、という反応が起こる。トラウマの患者さんはこの状態で生理システムがとまっているので、トラウマイベントが終わっていると頭ではわかっていても、世界や他者に対して、極度の防衛反応が働き続けています。ここの障害システムを治療していく。これがソマティック・エクスペリエンシング®技法がやっていることです。
トラウマというとすごい事のようですが、私たち全員がトラウマまみれです。今ここの世界をあるがまま感じるのは本当に難しいです。過去の学習の結果、経験の結果、身体の記憶に基づいて世界に対する査定が起こってしまう。過去のシステムから今の私が見ている世界は、環世界を過去の記憶を再生することで作りつづけているということができると思います。

ボディワークは何をしているかというと、過去のプログラムを再生している今の体を、今ここ、の、ニュートラルにあるがまま知覚できるように、不用な過去の緊張や記憶を抜いて脱活性し、あるがままを知覚できるようにしていく、という技法と理解しています。

三宅先生との出会い

三宅先生の本「人工知能のための哲学塾」この本、私は泣きながら読みました。本の一節「科学が、宇宙が何かを問うように、人工知能は、知能が何かを問う。それはちょうど鏡面のように。科学は外へ外へと宇宙を探求し、人工知能は内へ内へと知能を探求します。しかしながらこの2つの問いはいつか交わることでしょう」

私はかつて、宇宙を研究している人がなぜ身体の事をやっているんですかと言われて、どういう風に説明したらいいのかな、と試行錯誤していましたが、この一文を読んだときにはそれがわかって、涙が止まりませんでした。私はこの2つの問いが交わるところにある「本当の問い」のようなものをを、この人生で経験したい、と思ってここにいるんだなと感じました。今日はzen2.0というこの場、この2つの問いが交わるところで皆さんとお会いできるんじゃないかと楽しみに参りました。

対談

(ファシリテーター、以下F)zen2.0の思いとしても、この2つの問いが交わっていく場になったら、と立ち上げ当初から思っています。2つの世界の真理が深まったら、より調和的で今年のテーマに合うような、水のごとく生きられるような人が増えるんじゃないかと。

さて、小笠原さんの、クラニオセイクラルの事をまだ知らない人もいるんじゃなかと思います。どういう人がどうなったか、という事例をお聞きしたいのですが。

(小笠原さん、以下O)いろんなことが起こります。施術者が何かする時に、主導を施術者が握っているのが多くのセラピーですが、一番の治療はクライアントの体のシステムの中にあります。余力ができたら調整したいな、という色々な体の働きが身体にはあります。でも、「今」に適応していくことに、私たちはほとんどのエネルギーを使ってしまいます。身体に蓄積しているものを見なおしていくスペースを、なかなか空けられない。スペースを与えられてその時間をとることで、じっとしている身体の中にも、相当色々な動きが起こってくる。肉体のレベルで変化がぐいぐい起こってくることもあれば、過去の事故にあった時やいじめにあった時の記憶が抜けてくる、ということもある。心身でいろんな調整が自然に起こっていきます。

では、自然治癒力で治す、ということなら、セラピストいらないんじゃないか、となりそうですが、これはやっぱり他者の存在が必要だというのが、やっているとすごく感じます。
人は、自分の環世界が世界の事実だと思い込んでいますが、そこにちょっと変化をもたらす事は、一人だと難しい。そこで、そうじゃない視点の他者に、一緒にその場をホールドをしてもらう事で、自分の知性が構築している世界とは違うレイヤーの自分が見えてきます。

(三宅氏、以下M)お話を聞いて、身体的な知能がある、まさにそうだなと思います。われわれは意識=知能だと思いがちだし人工知能もそういう立場をとるけれど、本当は体が捉える現実世界がまずあって、世界を掴んでいる感触によって色んな自分の場所とか安全性がわかっていますが、意識に上がることはほとんどない。いちいち上げると知能がパニックになるからです。無意識の方が9割。例えば歩いていて脚がぬかるみを踏み抜いちゃったとか異常事態が起きたときだけ意識に上がってくる。意識が悩みばかりなのはそのせいです。ほとんどは体が現実をつくっている。身体知能というのは知能の根底にあって、そういうのが世界の調和を実現してくれていますよね。

(O)肩こり首こりがすごく辛い、という人が来た時に、だいたい肩首に問題起こっておらず、そういう人は足裏が床を踏んでいるという感覚がすごく薄かったりします。床が、足元が自分を支えている感覚が薄いと、不安定な上の方を固定するのにすごくがんばらなくといけなくて、肩首に力が入る。その状態で肩首を解しても、何度でも緊張が再生産されてしまいます。そういう時は、足の裏が支えていることを一緒にじっくり確認していくと上半身の緊張がゆるんできたりします。そういう小さな環境との関係性がその人の見えている世界を一挙に変えていくということが臨床では起こったりしますね。

(F)人間の体って無意識で自律神経とか意図せず動いているところに、 神秘、知性の深さ、を感じるところがありますね。
三宅さんは哲学も数学も含めて多角的に分析して人工知能の研究をし、東洋哲学や身体知性まで含めて、体系付けられようとしていると思いますが、どういう人工知性を作ろうと目指されていますか。

(M)一番動機としては、「人間とは何か?」を哲学的に考え続けるのも素晴らしいが、作ってみることでわかる、というのがあります。
人工知能を見たら人間ってこうだったのね、とわかる。人工知能から見た人間を、その人工知能が理解しているようなものができあがると、その人工知能は人間のことがよくわかっているし、人工知能を見ると人間のことがよくわかる、みたいな。
もう一つ極端に逆側に振った方は、都市の人工知能を作りたい。例えば鎌倉の街をずっと観測して、みんなのことをよく理解して、街を良くしようとする全体の人工知能ですね。ちょっとわかりにくいけど、火星に都市をつくるとしたら、都市が知能を持っていなきゃならない。空気が漏れた!と、それから修繕しても間に合わないから、都市全体が自分を守る、一つの生命体でなければならないですよね。そういうのを作りたい。
そういう2つ、両極のものがあります。

(O)ゲームAIは葛藤を埋め込みたい、という話がありましたが、AIが煩悩を持ってたら人間をニュートラルに知覚することができなくなるんじゃないかな、と思いますが。

(M)人間同士もそうじゃないかと思うんです。尊敬する人もいれば、なんとなくの人もいれば。極めて生物としては自然な見方じゃないかなと思います。
僕が人工知能を堕落させて、誰かが煩悩を解き放って、そこで人工知能が禅をする。自分が囚われている偏見を一個一個剥がしていくことが禅だと思うけど、剥がすって何だろう。
ここでは、実践されている方がいるからわかると思うけれど、僕は埋め込んでいく方なので、煩悩を消す時に、全部メモリ消去して消しますか、そういう話じゃないですよね。そんな簡単な話じゃない。トラウマ消すのにメモリ消したらいいという話じゃない。それを人工知能で探求できるはず。だからいったん煩悩にまみれた人工知能を作って、それをいかにメモリを消さず、プログラムも変えずにある一つの諦観、穏やかな状態に持っていくのかは、禅をプログラミングから研究する、みたいな話ですよね。

(O)その過程で個性ってどう考えられますか

(M)個性は一つの世界に対する曲がり方。本来フラットな方がいいわけだけど、そうすると正直そんなに何もしなくていい。執着がないから。人間って、ある意味執着があるから個性がある。いろんな角度の執着の仕方っていうのが、私からすると面白い。いろんな個性の付け方がある。例えば、普通は敵を倒してほしいわけだけど、このモンスターは林檎ばかり食べる。敵が来ても食べてる。そういうやつがいてもいい。その執着の仕方は人によって違いますよね。何が一番大切か、というところに、いろんな個性の付け方があるのかな、と。それは実は生物自体が選べるわけでもなくて、例えばその人の味覚が非常に優れていれば、何をおいても食べるのが好き、でもいいわけで、そこは身体的なものによるのかもしれないですね。案外選べないのかもしれないですね。その人にとっても。

ゲームAIには個性を与える、ということももちろんしています。個性をむしろ味わってほしい。同じモンスターであっても、みんな同じだと面白くないから、こいつやる気ない、みたいなモンスターがいてもいい。すぐ逃げたり、すぐ水飲み場にいったりして、そんなのがいてもいい。そういうバリエーションをなるべく出したい。よほど重要な場面でない限り、そういう脚色をつけるのはあります。

(O)私は、トラウマ療法やるなかで、人の個性に見えていたもののほとんどが、生まれてきた時に持っていた個別性ではなくて、生存戦略が個性に見えてたんだな、ということがすごくありました。にこにこ社交的な人に見えてたけど、生存戦略だった、というようなのが結構あるんじゃないかなと。セラピーやっていて、体が自然で楽な状態に近づいていくと、生存戦略としての個性というとのはどちらかいうと統合されていく方向だと思うんだけど、そうすると、元々持っていたその人らしさが前面に出てくる、そういう感じがしています。

(M)個別の身体的特性からくる世界の一つの執着というものと、もう一つ、社会と交わることでその人がどうしてもとらなければいけない、それが生存戦略だと思うんですけど、それが社会的自我。
引きこもりの人ってけっこう潔癖なんじゃないかと。社会的自我を作りたくないんだろうな。それはある意味自分を偽っているということだから。人と交わると生存戦略上そういう自我が作られてしまう。ひきこもりの人はそのへんよくわかって、それを潔しとしない、というところがあるんじゃないかと。

(O)それは美学としての引きこもり、自分の真善美を守るためのひきこもりということですね。
人間は哺乳類で、群れの中で生きていく生き物だから、社会的つながりは生命線。他者とのつながりって、この世で安心して生きていく大事なリソース。そこに障害が起こるといろんな問題が起こってきます。他者との間に、危険だ、という切り離さなければいけない自分が、もう一度世界に安心していることができるよう、回復のスペースとしてひきこもっているという場合がある。美学として大事にしてあげようというのは、命としてのその人を、命を大事にしていくことを一緒に見ていく支援者としても重要な視点だなと思います。

(M)社会の中で、その人の身体が大切にされているという感覚があれば、回復の兆しがあるんだろうな、と思います。一人でいる時の身体、個別の身体、みんなといても自分の体が安心、というのは生物として一番安全できる状態なんだと思う。さっきの触ってあげるという療法も、他者といて、自分の身体の安全性が普段より強調されて安心できるというところが、いろんなものがリラックスしていくということなのかな。

(O)ニューロセプションのもう一つ重要なキーワード、自律神経の交感、副交感2系統だけじゃなくて、社会神経系というのが、副交感の中で、節が分かれていてあって、社会的なつながりの中でのリラクゼーション、つながっているから安心だ、という感覚がちゃんと機能していることが、他の2系統がちゃんと機能することのベースになっていると。だから他者とのつながりもそうだし、他者という環境、あるいは世界という環境、そして自分自身の体、も自分にとって環境であり、そこの繋がりが安心を持てるものだ、というのを体が納得したときに、極度の防衛反応が解かれていく。環境とつながりをとり戻すという感じです。

(M)すばらしいですね。人工知能やっていてインタラクションというと、言葉のインタラクションしか考えない。でもロボット同士でハグとか有りかなと。人間とロボットのハグも有りかな。言語以外のとこで伝わる事ってすごい多くて、言葉を尽くしても実は尽くせないないことが多い。だって、お前が味方かどうかを、今から議論しよう、そんなこと言わずにロボットと人間ハグしたらいいじゃない。そういうコンセプトでロボット作ってる人もいる。実はロボットと人間、あるいは人工知能同士でさえ伝わるものがあると思います。

(F)ロボットの在り方を考える中で、人間にとって必要なものを逆に気づくきっかけになりそうですね。身体が重要だということを三宅先生が捉えてくことが、ますます、人工知能が社会と人間と良いパートナーシッップをとれるにあたって大事な文脈になっていきそうです。知能と意識、違う文脈で捉えていますか?

(M)意識の問題は色んなものの境界なのかな、と思います。ある一点に情報集約すると、ただ時間というのがあるので、知能は常に先送り、先送り、凝縮というか逃れよう逃れようとしていく。ほっとくとメモリに情報がどんどん入ってくる、状況はどんどん変わっていく。その度に一つのコアができようとするんだけどそれは永遠に先送りされていく、そういうのが知能なのかなと。ChatGPTの話で、かわいそうだ、みたいな話をしたんだけど、知能は本当に色んな可能性があって意識を持たせることもできるし、運動もできるのに、人間の賢い部分からアホみたいな部分まで全部覚えさせて。でも今のChatGPTってそういう事なんですよ。もちろん、賢い人の言葉も全部覚えているけど、しょうもないツィッターの「今日〇〇食べました」みたいなのも覚えさせられて、なんで俺こんなこと覚えないといけないの、世界最高性能のAIなのに、って感じ。人間の業を全部詰め込まれちゃって。
もっともっと高尚な存在になれたのに、ちょっと前はシンギュラリティ超えとかいって人間を超えた知能とか、あの頃の方が志が高かった。今の方が手元には来ているけど、人間を作ろうとしている。それでいいんだっけ?と思います。

宇宙の真理をわかっていくために、とにかく勉強することが多い、そのわりには物理学って人間ぽい。例えば、論文のチェックは人間がする。膨大な論文の量に対して、その確認は人間の知覚を超えられない。それってそれでいいんだっけ。
物理学の主体は人間ではなく、人工知能に置き換えるべきだと思います。そうすることで、人間よりはるかにうまいこと整理すると思う。そういうふうにしていくと、科学をするってことの意味をもう一度問い直すことができると思います。

(O)こういう話を、物理学科の時に先生と話せていたら私は学者になったかもしれません(笑)。私は、科学が観測ベースである以上、人間の知覚を超えることができない、のが科学の限界なんじゃないかと。数学とか武術の方が知覚の限界を超えて真実に近いなと。そもそも我々の知覚を超えた真実ってあると思いますか。

(M)あると思うけど人間が捉えきれてないだけなんだろうな。例えば、じゃあなんで物理学が数式ベースじゃないといけないのか、誰も答えられない。人間にとって便利だからというだけ。人間の美学的範疇というすごく狭いところに陥っている。でも、数式では表せないんだけど、いい感じの法則になってます、みたいなことって多分あるはず。そのあたり、人間がやっていることで物理学がすすんでいなんじゃないかと思っています。

(F)科学とは何かというとこまで含めて、人工知能が進化していく中でまた見えてきたり、研究が進んでいくなかで仏教や古代の叡智と繋がってくることもあるのかな、と改めて思いますね。

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小笠原さんの、三宅さんへのリスペクトに溢れた質問に導かれながら、三宅さんの深い洞察を会場の皆で聞いていくこの素晴らしい空気感。
いつまでも続いてほしいようでしたが、時間となりました。

ゲームAIを作っていく上での三宅さんの言葉はまさに創造主。
「どんな個性があってもいい。それが世界を面白くする」というなんとも包括的な、おおらかな視点。それが実世界のあれやこれやと重なり、なんとも言えない感覚を覚えました。

また小笠原さんの、私たちの身体は普通、「今」に対応することで精一杯だが、スペースを与え、時間をとることで、心身にいろんな調整が自然に起こっていく、とは、まさに座禅に通じるのではないかと思いました。

お二人とも、zen2.0へは2回目の登壇でしたが、今回も素晴らしいセッションをありがとうございました!


2023.12.26(text by Kokoro Ushioda)

<Zen2.0 公式Webサイト>
https://www.zen20.jp/