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【紀行】桑原史成写真美術館(津和野)

何度か赴こうとして赴けなかった場所…というのもあって。
こちら「桑原史成写真美術館」もそのうちの一つ。

津和野町立…ですからね。

桑原 史成(くわばら しせい、本名はふみあき、1936年10月7日)は、日本の報道写真家。水俣病の先駆的な写真家として知られる。

島根県鹿足郡木部村(現・津和野町)生まれ。

1960年3月、東京農業大学と東京総合写真専門学校をともに卒業。フリーの写真家になることを目指す。就職を選ばなかったため、母親から一度郷里に帰れという電報が届く。

東京駅に餞別に来た友人から、車中で読めと言って渡された夕刊や雑誌の中に、『週刊朝日』5月15日号があった。同号に掲載された小松恒夫の現地ルポ「水俣病を見よ」に衝撃を受けた桑原は、水俣病の取材撮影を決意。

小松に水俣市立病院(現・国保水俣市立総合医療センター)の大橋登院長宛ての紹介状を書いてもらい、同年7月14日、熊本県水俣市に入る。

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兵士の前で見つめ合う恋人たち…被写界深度(ボケ感)も良いです。

本来、報道写真家として著名な活動をされる桑原センセイ。

作品には「はっ!」とさせられるものもあります。描かれる内容に感じるアンビバレンツな部分…とでも言うんでしょうか。漫然と眺めて思うことは、土門拳センセイが突き詰めて描こうとした「リアリズム」でしょうかね。

植田正治さんが鳥取砂丘で家族を並べて写した写真をして、芸術性は認めるものの…それをしてリアリズムとは換言し難い、としたアレですわ。

他方、土門拳さんは戦後間もない広島に赴き。ヒバクシャの写真を撮るわけで。「これぞリアリズム」と撮り描く。

戦後昭和20年代以降、しばらくの間。
写真誌に投稿される写真が、おびただしい「貧しさ」や「(戦災の)醜さ」。社会的な正義を写真で表現する為、単に「うつくしくないもの」のオンパレードになっていく経緯から、土門拳センセイはその姿勢をご自身で一部否定もされます。

「報道写真」とは見る者をして、導引するベクトル(方向性)を提示していなければならない…のは至上の事柄。いわば必須要件なんでしょうね。写真がそれを表現するのか、写真につけられたキャンプションがそうなのか。

今も続く「卵が先か鶏が先か」のお話しでございます。で…。桑原センセイの場合はというと。

大橋が「写真でいったい何ができるのか」と問うと、桑原は「水俣を撮ることで写真家への登竜門をくぐれるのではないかと考え、水俣に来た。市立病院内部の撮影を許可していただきたい」と答えた。

大橋は許可し、桑原は水俣病専用病棟などで撮影を開始した。のちに大橋は桑原に「桑原さんは本音を言った。正直だった。それで同意したんだ」と言ったといい、桑原は「建前をしゃべっていたらおそらく、取材拒否されたんじゃないかと思う」と述べている。

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どーですか…「社会正義と報道の意義」さておき。
「写真家への登竜門」をくぐりたかったのよ、センセイはさ。これはこれで正直で宜しい。(と、小生も思います)

桑原史成先生の写真で…どれだったか指摘できないものの中に。田舎で農作業、田んぼに立ってる農婦人(田植だったかね)の写真を撮ってるヤツがあるんですけどね。そのご婦人が、素朴でイイ顔してるんです。

ゆえに、桑原センセイにも、(登竜門のために)撮りたい写真と。撮ろうと思って、撮った写真と。二種類あるんだなぁ…と思ったことがありました。

求められる写真、それを仕事の対象として撮ってる写真。表現の方法と、実際に写真家として成立するのかは、別のハナシということを感じます。

職業写真(学校で撮る集合写真とかね)の延長線上に、報道の必要性から生まれた「報道写真」もある、っちゅー事でしょうか。

桑原史成 氏撮「水俣病」(美術館パンフより)

出典と被写体となった罹患者の目の光…。説明が無ければ、各々心に思い描かれる印象は変わって来ます。これ。捉え方の問題、ということでしょうかねぇ。

腕も無ければ、心に残る表現というものも無理からぬ事。「報道写真」による写真表現の真髄がそこにはある、と。思いつつ、写真美術館を後にしたのでございます。

駅舎の左手、蒸気機関車の奥が美術館でした。

目に光…かぁ。
GODOXのストロボ買ってデイライトでいっちゃいますか。。(全然ポイント外れてます)ごめんなさい、桑原センセイ。

てなわけで、本日はここまで。(合掌)