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【紀行】伝説の源(竹原市)

「頼 惟清」旧宅

山陽の祖父又十郎は、宝永4年(1707)頼兼屋弥右衛門善裕の長男として生まれ、諱を惟清といい晩年には享翁と号した。文運のさかんな竹原の町に紺屋を営み和歌をよく詠じたが天明3年(1783)77才で没した。

その子春水(山陽の父)、杏平はともに広島藩の儒官となり、第二子の春風は竹原の家を継ぎ医院を開いた。

この家は重曹屋根入母屋造り本瓦葺の離れ座敷からなっており、双方とも塗りごめ造りである。母屋の道路側八畳は紺屋の店であったものと考えられます。

昭和32年09月20日県史跡指定(現地掲示板より)

歴史上のヒトになってしまった「頼 山陽」。その父「頼 春水」、さらには祖父である「頼 惟清」本拠がご当地竹原であり。山陽その人も、折々赴くこともあった旧宅がこちら。

頼家のハナシをする時には…やはり二人の作家を挙げることになる。ヒトリは森鴎外。そしていま一人は、1978年に「もう頬づえはつかない」を書いた見延典子女史。

実験的な小説として早大一文在学中に書かれた「もう頬づえはつかない」は後に映画化され、桃井かおりさんや伊丹十三さんなどの出演がイメージに色濃い作品。良作だったと思います。

そんな見延さんは結婚後、広島に移住。広島の郷土史に触れるともなく触れることとなり。「そもそもは、古文書を読むための「くずし字講座」に通ったことが、再び筆を執る上での契機となった」と、後にご述懐。

広島の郷土史を概観するに、国家と郷土いずれかに影響を与えたヒトを思うと…江戸期における儒官「頼(らい)」家をめぐる事象は、はずすことの出来ない事柄かと。

たしか『氷』屋の向こうが頼惟清旧宅…(うろおぼえ)

恥ずかしながら…成人以降、郷土史に関してわざわざ触れることもないままを過ごす不良中年としては、「いつかは読んだり調べたりすることになる」課題ではございました。>「頼」家

竹原という町はニッカウヰスキー生みの親、「マッサン」の主題となった竹鶴家・竹鶴酒造もあり。観光拠点として多くの方々がお越しです。

ニッカウヰスキーねぇ…。ワタクシ、蒸留酒はバーボン専門でございます。
玉山鉄二さんに、負けず劣らず…いい男さんでした。>竹鶴さん

尾道三部作を作製した大林宣彦監督の映画本編中。取り上げるべき場所として(尾道が街すぎるので)竹原をロケ地に選ばれたりしたこともありましたっけ。

西方寺普明閣に向かう石段ですわ

『転校生』にて。この階段が「尾美としのり」と「小林聡美」が転げ落ちて入れ替わった現場だったでしょうかね。

平成時代には観光地として磨かれて、ちょっとくたびれた観のする町並みではありますけど。蕎麦屋あり、お好み焼き屋さんあり。散策するには良い場所でございます。

ただし…夏場はぢごくですけどね。