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20200214 バレンタイン・喫す

「メーデー! 仇敵バレンタイン・デーが日付変更線を大股開きで乗り越え、意気揚々とこの極東の大地へ足を踏み込みやがった! もうこれ以上は持ち堪えられそうにない……。誰か地球の自転を遡及させてくれ! うわぁああ——」
 男寡仁道会・太平洋湾岸前哨基地からの通信は断末魔と共に途絶える。僕は哨兵の名を叫んだ。何度彼の名を呼ぼうとも僕の鼓膜を擽るのはサーというホワイト・ノイズだけだった。
 僕は満身へと瀰漫した憤慨に拠って身体を震わせながら、無線機器を放り投げる。ふざけるなよ! 同胞が次々と屠られていく現実と相搏っておきながら、僕の権謀実数は糞の役にも立たず何の成果も齎さないじゃあないか。諸葛孔明に師事を仰ぎ得たものに価値はなかったのか? 否、そんな筈があるか!
 僕は日の丸の旗を掲げ、そのポールを支柱にして立ち上がった。御旗は勢いよくはためいた。向かい風は滅法に強い。僕の対の脚はゲラゲラと嘲笑っている。これは決して怯懦に拠ってではない。僕らの勝利を信じて笑っているのだ。これはそう、正しく武者震いだ。荒武者の相貌で僕は彼方を睨めつける。僕は口角を引き揚げ、対の脚と共に笑う。仇敵斬り捨てんと嗤笑をしてやったのだ。
 眼前に広がる眺望はまるで渺茫とした荒野が続いていた。そしてその向こうでは、愛の伝導者・ウァレンティヌスとユノが大日本国全土を席巻すべくアルカイックな微笑みを浮かべてこちらを睥睨している。
「——だめだ。まだだ、まだ白旗を振るには早い! 我らの野望はこの程度で潰えるのか……? 否だ! 否、否! 否である、馬鹿め! 愚劣なる糠釘破廉恥サイコモンキー共よ! 迎撃の支度を迅速に済ませろ! 鬨の声を上げるのだ!」
 僕は咽喉をくわと開き、怒鳴りを上げた。
 しかしこれに続く声は轟かなかった! よもやと急激な不安に襲われ、僕は後方へ振り返る。そこにあったのは惨憺そのものだった。
 質実剛健、鉄腸豪胆たる精鋭の男寡仁道会の面々でさえも愛慾の重力に屈服してしまったらしく、誰も彼もが押し並べて平伏させられ気息奄々に陥っていた。日頃の鍛錬が足らぬからだ! この熱量なしの緑豆もやしめ! と罵ってやりたい気にもなったが、彼らの気持ちも手に取るようにわかる。僕だって平伏叩頭して赦しを乞いたい。
 彼らは「あの窈窕たる懸想人から俺も贈られたかった」「婀娜よ、私に微笑んでおくれ」「どうして嬌羞は俺の前に顕現しないんだ!」「嗚呼、何だか無性にチヨコレイトが食べたい」「ラヴ……ミー……ドゥ……」「チヨコレイト・デイスコ……」と口々に世迷言を呟いている。
 そんなにも弱音を吐かれてしまっては、僕の熱り勃っていた硬派な嶋大輔の如き意志もふにゃふにゃの腑抜けになってしまう。このままでは法界悋気に丸呑みされて巧言令色が湧き出してしまうではないか。末恐ろしいことこの上ないぞ。
 しかしそうは問屋が卸して堪るものか。僕と卸売業との間に蜜月はない。僕は、僕自身を十把一絡げの木端戦闘員などではないと思い込み、克己啓蒙の矜持を再び奮起させた。そして満腔に行き渡った憤懣の遣る方を太平洋へ向ける。僕は傲然と踏ん反り返る。孤独な戦いへ身を投じるより他はなかった。それでもいい。漢として散らねばなるまい。軟派に屈して骨を日出ずる国に埋めることなどできまい!
 貪瞋痴を捨てよ。さすれば運鈍根も何れ僕に味方するだろう。そうでなければ、このうらぶれた半生の採算が取れないだろうが!
「さあ聞け! やあやあ我こそは男寡仁道会が首謀であり、ミュンヒハウゼンの申し子、エピキュリズム・ネオテニーである! アニミズム大国の同志よ、立ち上がれ! 先達の意志を受け継げ! 資本主義の成立から早百年と少し。御仏の地にキリストの文明を跋扈させて堪るものか。洋菓子産業の恣意に操られて堪るものか。旗日も関係なく労働を課される僕が日捲りに赤字ですら書かれない民間行事に屈服して堪るものか! チヨコレイトを贈呈されたい、そして喰いたい。ステディなあの娘と成層圏を超えて弥終まで行脚旅行に行きたい! 愛を囁きたい! それも滔々とな! ああ、クソ。もう既に前頭葉まで侵食されてやがると来た。震えるな、僕の脚。動け! 僕は、僕は、僕は——」

 あれからどれくらいが経っただろう。男寡仁道会は総動員され、誰もが手と手を繋いで歌い踊っている。
「シャラララ……素敵に喫す……」
 閑寂の中で野太い歌声だけが響いている。
「シャラララ……素顔に喫す……」
 誰それは啜り泣き、誰それは慟哭を上げている。
「シャラララ……素敵に喫す……」
 僕は一等声を荒らげて歌っている。これではまるで血のバレンタインそのものじゃあないか。
「シャラララ……素直に喫す……」
 今年も僕らのバレンタイン戦争は大惨敗で緞帳は降りていく。

映画観ます。