儀式とASD 役割 なりたい
ゴフマンという社会学者の本を読んでいて、あるエピソードを思い出した。この本では「自分の役割を信じ込んでいるパフォーマー」と「全く信じてないパフォーマー」の極があるとするんだけれど、ASDは役割というものが欠落していると思う。僕の場合は自分の顔と名前が「自己」という感覚が全くない。「この人」の役割を僕がやっている感覚がない。ASDの人に同じ質問を何回かしたことがあるが、自分の名前と意識が一致しない人は一人だけだった。
母親の葬式で、一滴も涙が出なかった。僕があまりにも普通