前陣速攻

前陣速攻。1999年に統合失調症を発症。病前の元気な頃の自分の記録。 病後、統合失調症…

前陣速攻

前陣速攻。1999年に統合失調症を発症。病前の元気な頃の自分の記録。 病後、統合失調症を抱えつつも、どう生活していったかの記録です。

マガジン

  • 二十歳のころ

    1995年 21歳の僕はオーストラリアに旅立った。

最近の記事

ワーキングクラス

私は大学を卒業して、長野県の小諸市に本社がある日精ASB機械株式会社に入社した。ペットボトルの射出成形機のメーカーである。私にとって日精ASB機械株式会社は思い入れのある会社である。社会人になって初めて入社した会社であり、また統合失調症を発症した時の会社でもある。ASB機械はニッチでありながら世界を相手に事業をしている企業である。若い頃私は海外で働きたいという夢があった。その夢を叶えるにはASB機械は願ってもない会社であった。 入社一年目、工場で研修があった。先輩の手伝いを

    • 成功の向こう側           航海 オーストラリアにて

      私は21歳の時、オーストラリアを旅した。その中で最も影響を受けたのはイーブンとニコルのフランス人夫妻だった。彼らは子育てを終え、家を売り、念願の世界一周の航海に出た。とりわけイーブンは5年以上の航海をして、夢を実現した。彼らは自分らは特別ではない普通の家庭だと話をしてくれた。いざ自分が彼らが航海したその年代に近くなってみると、世界一周の航海をするのはすごいことだと思う。普通の家庭ではない、類のない家庭だと思う。 私が今考えると、世界一周の航海に出るという決断がすごいことだと

      • 50歳になった

        とうとう私も50歳になった。いざ50歳になってみると実感はない。ただ年はとったなぁと思う。20歳から30歳にかけて、オーストラリアにワーホリに行き、大学を卒業し、会社に就職した。そして統合失調症を発症。入院し、デイケア、福祉施設に通う。20代の後半は統合失調症の陰性症状でひきこもりの毎日でした。会社の同僚のMさんと病院のケースワーカーのことが大好きだったなぁ。 30歳から40歳にかけて、統合失調症の症状も安定してきて、パートタイムで週5日、人材派遣会社に働くようになった。テ

        • 新年の挨拶

          あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。 今年もずっとやり続けていることを続けたいと思っています。 仕事、テニス、旅、アウトドア、仕事は足かけ17年働いているし、テニスも仕事を始めた時期にやりだしたから、もう17年くらいテニスクールに通っています。昨年はテニススクール仲間と市民大会に出場しました。 登山は昨年大学時代の友人と富士登山をしました。今年も生活の一部に登山等、アウトドアの生活を取り入れたらと考えています。 今年、僕は50歳になります。

        ワーキングクラス

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        • 二十歳のころ
          65本

        記事

          旅というもの

          若い頃、私は旅が好きだった。大学時代、私はユースホステルクラブに所属し、友人と北海道や西表島を旅した。そして21歳の時、オーストラリアにワーキングホリデーに行き、オーストラリを旅した。私はバックパックを背負ってあちこちの国を周り旅したことを旅だと考えていた。若い頃私は沢木耕太郎さんの深夜特急のような旅がしたかった。私のやりたいことの唯一のことだった。旅の他に特に何かをやってみたいことは私にはなかった。 そんな私が統合失調症になり、普通の日常生活を営むことができなくなった。陽

          旅というもの

          統合失調症のバリ島サヌール一人旅。

          今年の夏休みに僕はバリ島のサヌールに行ってきた。バリ島は僕のオーストラリアの滞在記「二十歳のころ」の時に訪れた土地でもある。28年ぶりのバリ島滞在である。今、現在僕は時間だけはあるバックパッカーではなく、夏休み1週間という枠で旅する旅行者である。 6泊7日で機内泊2日、マレーシア航空を利用し、アビアンハーモニーホテルに宿泊した。 空港に到着して、ビザを購入し、空港で3万円を両替した。そしてエアポートタクシーを利用し、ホテルに向かった。タクシーの運ちゃんに僕は20数年ぶりに

          統合失調症のバリ島サヌール一人旅。

          私の履歴書

           私は誰かの期待に応えようと努めてきた。それは両親であったり、友人であったり、先生であったり、恋人であったりした。私は誰かの期待に応えてきただろうか?彼らの期待に誠実であったであろうか。私は否と答えるだろう。私はどちらかというと自分本位な人間で誰かの期待には応えてきてはいないように思える。逆に私は誰かに期待することはあっただろうか?もちろん私は誰かに期待はしたと思う。もし私の願いが叶うならば期待もするだろう。しかし当たり前のように人は自分の期待通りにはならない。と同時に私も誰

          私の履歴書

          コロナウィルス禍と共に統合失調症

          2020年1月私は中学時代の友人3人と新宿で新年会を楽しんでいた。まさか翌月にはコロナウィルスに怯えながら生活を送らなくてはいけないとは私たちは考えもしなかった。中国で発生したコロナウィルスとはどんなものか誰もが正確なことは知りもしなかった。私は吞気なものでコロナウィルスは私の生活圏には縁のないものだとまだ高をくくっていた。 しかしコロナウィルスは私たちの生活を一変させた。メディアは街に人がいない光景を報道し、コロナウィルスで連日有名人が亡くなったことを伝え、日本中を震撼さ

          コロナウィルス禍と共に統合失調症

          きれいな素顔もう一度

          作詞 作曲 前陣速攻 G            Em サンピアっていうホテルで 僕らは出会った。 C          G      D みんなで汗をかきかき 幸せつくったね。 G              C 「今日の味噌汁私がつくったの 味はどうですか?」 G          D     C   D    G 「なすの味噌汁 嫌いと笑いながら 無理矢理すすった。 G         Em 人気のない駐車場で 帰り間際に君は言う。 C           G     D

          きれいな素顔もう一度

          ユートピア 学生時代 大学時代 オーストラリア パースでの暮らし

          僕は信州大学に入学して、長野県の松本市で一人暮らしを始めた。僕はなりゆきでユースホステルクラブに入部した。川崎市に住んでいた僕にとって松本市の一人暮らしは何もかもが初めてだった。先輩にいろいろな所に連れて行ってもらった。長野県内の名所、日帰り温泉。戸隠のサマーキャンプ。居酒屋。ユースホステル。野沢温泉のスキー合宿。授業がない暇な時はサークルボックスに立ち寄って、ボックスには誰かしらがいて、だべって時間を潰していた。僕にとっての居場所だった。夕方になれば定食屋に行き、誰かのアパ

          ユートピア 学生時代 大学時代 オーストラリア パースでの暮らし

          ユートピア 学生時代 高校まで

          多くの人にとって過去にあの時期はユートピアだったという時期があるだろう。統合失調症の障害を持っている私でもユートピアと呼べる時期が存在した。人によって価値観が違うし、ユートピア(理想郷)は異なる。あえて私がユートピアの時期をいくつか述べたい。これは私の価値観と言い換えてもいいかもしれない。 小学生の頃、私は富士通のサッカークラブに所属していた。週末になると南多摩の練習場に足を運んだ。私が小学生の頃「キャプテン翼」という漫画が流行っていた。私は公立の学校に通って、放課後、友達

          ユートピア 学生時代 高校まで

          東京のいい人。

          世の中はどう変わろうが、いつの世にも変わらないものがある。それは男と女の出会いである。東京に出てから、私には出会いという出会いはなかった気がする。私が気づいていないだけかもしれない。私は統合失調症を発症して東京に上京した。東京に出てから、しばらくの間、私は出会いというものを考えるどころではなかった。何しろ、私は統合失調症で一時は「死」を考えていた。私はかろうじて「死」を思い留まったが、療養には長い期間を要した。統合失調症を抱えどう生きていくかが一番の問題だった。療養中、私の想

          東京のいい人。

          私にとってのアベノミクス

          日本経済にとってアベノミクスは必要だったかは私は専門家ではないし、また専門的に分析したことはないのでわからない。安倍元首相の元、黒田総裁の日本銀行の大規模金融緩和を行い、円高の日本から円安に移行し、日本の製造業の景気に後押しをしたのは間違いない。朝日新聞はアベノミクスに対して否定的だ。日本に格差をもたらし、財政ファイナンスと供述し、日本銀行のバランスシートの不安定さを指摘している。言葉を巧みに使い、不安をあおっている。しかし数字の裏付けがない。もっと深く掘り下げることが可能な

          私にとってのアベノミクス

          ザノンフィクション 8月7日を観て

          先週に引き続き、ザノンフィクションの放送を観ていた。崩壊しそうになっていた福祉施設がどうするのか関心があったからだ。5人の職員が施設を退職し、問題のあった統合失調症の患者はしばらくの期間出入り禁止になっていた。 私の関心があるのは統合失調症の患者がどう身の処し方をするのかについて関心があった。彼は実家に帰り、静養していたらしい。そしてしばらく時間が経ってから、また施設に来てもいいということになった。施設の案で利用者という立場ではなく、ボランティアという立場で彼は利用すること

          ザノンフィクション 8月7日を観て

          ザノンフィクション 7月31日を観て。

          毎週、日曜日に観ているテレビ番組がある。それはフジテレビで放映している「ザ ノンフィクション」という番組だ。ドキュメンタリー番組で僕は楽しみにしている。 今回、福祉施設の一例を取り上げ、その中で統合失調症の通所者が取り上げられていた。僕が見た感想は、ああいう患者は中にはいるだろうなと思った。暴力はよくないが、自分のことを理解してくれない、とかスタッフが話を聞いてくれないと感じたことが僕にもそういう時期があったからだ。実際、精神科のデイケアや福祉施設に通所していた時期があり、

          ザノンフィクション 7月31日を観て。

          音楽について語ろう 中島みゆき編

          僕が中島みゆきさんを初めて聞いたのは大学時代だった。下宿先の仲間が中島みゆきさんのCDのシングルコレクションを持っていて、しばらくCDを借りて聴き始めたのがきっかけだった。まず聞いて僕が最初に感じたことは女性は怖いと思った。僕が抱いていた女性のイメージが崩れてしまった。しかし僕の暮らしは中島みゆきさんの歌が似合っていた。都会的なユーミンではなく、中島みゆきさんだった。長野県の松本の4畳半の下宿暮らし、金はなく、人との交流だけが宝物だった。わずかな金があれば友達と集り、酒を飲み

          音楽について語ろう 中島みゆき編