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ユートピア 学生時代 高校まで

多くの人にとって過去にあの時期はユートピアだったという時期があるだろう。統合失調症の障害を持っている私でもユートピアと呼べる時期が存在した。人によって価値観が違うし、ユートピア(理想郷)は異なる。あえて私がユートピアの時期をいくつか述べたい。これは私の価値観と言い換えてもいいかもしれない。

小学生の頃、私は富士通のサッカークラブに所属していた。週末になると南多摩の練習場に足を運んだ。私が小学生の頃「キャプテン翼」という漫画が流行っていた。私は公立の学校に通って、放課後、友達とグランドでサッカーをするのが楽しみの毎日だった。いろいろ技術を試してみたい。面白い足技をやってみたい。学校では私はサッカーが上手い方だったと思うがクラブの練習に出ると、私は下手な方から数えた方が早かった。だからといってサッカーの練習をすることは苦じゃなかった。反復練習をし、どんどん技術を吸収した。クラブの友達同士、切磋琢磨するのは楽しかった。6年生になった時、私たちは市民大会に出場することになった。いつもの練習とは違う真剣勝負だった。私は控えに回った。何試合も控えだった。俺が出れば、活躍できるのにと何度やきもきしただろう。しかし私は控えだった。そして最後の試合、私は出場する機会に恵まれた。私は試合に出たが闘う選手ではなかった。選手同士の当たりに負け、サイドをスピードでえぐられ、1対1に強くなかったのだ。コーチは私のことを練習で見抜いていた。私は闘える選手ではないと。ただクラブは練習生はサッカーを好きにしてくれた。寒い冬も、炎天下の夏もボールを追いかけた。夏休みになると読売ランドで合宿もした。気持ち悪くなるほど走った。年月が経った今で覚えている。サッカー観戦をすると今でも熱くなる自分がいる。

中学時代、私は公立の中学に進んだ。私の中学では男子は体育会系の部活に参加するのが求められていた。サッカー部に入ろうか、卓球部に入ろうか迷った。仲のいい友人が卓球部に入るというのでなんとなく卓球部に入部した。体の小さい私はサッカーより卓球の方が向いていると考えたのも一つの理由だった。私は卓球にすぐ夢中になった。同級生や先輩達と練習をし、めきめきと上達した。授業が終わると、私たちは武道場にいくか、プレハブの練習場に行った。ランニングをし、筋トレをし、球を打った。

私は卓球の試合に向いていた。試合になると練習の時より集中力が増した。そしてあまり物怖じしなかった。私は2年生の頃からレギュラーに選ばれた。県大会止まりだったが私は卓球を面白く感じた。駆け引きや考えてプレーするのは苦手だったが、バチバチと打ち合いをするのが好きだった。私が覚えている試合といえば勝った試合でなく、負けた試合の方が多い。そして私が最も面白く感じられたのは自分より少し強い相手と卓球をし、自分の持っている以上のプレーが出来たときだ。気分良く球を打ち合いながら、こんな時間がこんな勝負がずっとできたらいいのにと思っていた。私は勝負事が好きである。特に心理戦が好きである。日々、生活をしていてここが勝負だと思える時間がいくつかある。たとえば資産運用とかしているとき、市場が弱気な時がある。私はそういう時こそ燃えてくるのだ。ここが勝負。私の勝負感は卓球で培ったものである。

高校の時、私は私立の男子校に進んだ。私立の男子校に進んだのは私立の高校に行けば大学に合格しやすいと聞いたからだ。私の高校は進学校で私はとりわけ優秀でもなく、何かができた生徒でもなかった。私はからわれやすく、自分を守るために自分よりも体の大きい相手と殴り合いの喧嘩もした。そんな私でも友達はできた。休み時間になると、麻雀や花札をし、放課後は雀荘にいったり、歌舞伎町のゲーセンでぶらぶらしていた。私は何かに熱中することもなく、日々を過ごした。同級生とスキー旅行の旅をしたのも高校の頃だった。友人が越後湯沢のマンションに無料で泊まることができることを知り、胸をわくわくさせて行った。女の子との出会いも期待したが、僕らは女の子にどう声をかけていいかわからなかったので目論見は外れた。そんな私にもいつかは勉強に力を入れなくてはいけない時期が来ていた。私は水道橋に館山塾という塾をみつけ、受験に備え、なんとか信州大学経済学部に合格した。

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