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禄寿応穏 後北条氏の減税政策

中抜き排除と簡素化の税制改革


 禄寿応穏は戦国大名の中でも民生に重きを置いたことで知られる後北条氏の政治姿勢を表した言葉です。その意味は「民の禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように」です。一般に後北条氏は他の戦国大名が6公4民あるいは5公5民だった時代に4公6民を実現したと言われています。
 しかし、後北条氏を例外として、戦国大名の税金の実態は資料が乏しく実際にどのくらいの税率だったかを確定するのは極めて困難です。これから新資料が発見されて、後北条氏は実は重税だった、なんて話になるかもしれません。
(以前、減税新聞に寄稿したものの再編集版です。)

Ⅰ 戦国大名の税制について

 後北条氏に限らず、戦国大名の税金は主に次の4つによって構成されています。
① 本年貢
 土地からの収穫に対する基本的な税です。
 4公6民、5公5民という場合、そのほとんどは、この本年貢を指します。
② 公事方
 本年貢以外の雑多な税金の総称です。
 公事(くじ)という言葉には様々な意味がありますが、「公的行事」という意味もあります。寺社の造営や国家的儀式の費用捻出のために臨時に課された税金だったものが恒常化したものです。時代が進むにつれて、様々な名目での課税が積み重なっていきます。
 暫定税率のなし崩し恒久化や再エネ賦課金で、現在の我々にもおなじみの現象です。
③ 棟別銭
 家屋にかかった税金です。
 基本的に間口の広さに応じて課税されました。旧街道沿いの家屋に鰻の寝床が多いのは、この棟別銭対策です。
④ 夫 役 
 いわゆる賦役(労役税)です。
 城郭建築や公共工事のための「普請役」、合戦時の小荷駄(補給物資)の運搬を行う「陣夫役」に分けられます。

Ⅱ 後北条氏の減税政策

 後北条氏の税制改革は早雲から氏康までの三代に渡って行われましたが、ここでは代表的な一人の事績として説明していきます。

1 北条早雲の減税政策
・4公6民を実施し、基本税率を下げる。
 北条早雲は伊豆相模を征した後、本年貢を5公5民から4公6民に下げたとされています。これは江戸時代前期に成立した「北条五代記」という本に記されています。しかし、冒頭に書いたとおり後北条氏の前の領主の税率は不明なので本当に下げたかについては議論があるところです。私は後述する理由から実際に「下げた」と思っています。
 少し詳しくなりますが、この本年貢が具体的にどう算出されたかという話をします。まず、貫高という計算の基本単位があります。これは田1段が500文です。これに基準に納法という数字を用います。これは平年作の場合、貫高100文当1斗4升です。したがって、平年作の場合、田1段当1斗4升×5=7斗≒2俵になります。
4公6民で逆算すると田1段当5俵の収穫があったことになり、これはまず妥当な数値とされていますので、4公6民自体は実施されたと言っていいと思います。
 ところで、納法の数字は毎年の作柄を勘案して定められます。この数値は1斗5升から1斗1升の数字が確認されています。平年作と比べれば、豊作で+7%、凶作で-20%です。

2 北条氏綱の減税政策
課税内容を明示して中抜きを禁止
検地の実施とその結果の通知で課税ベースを透明化
税金への不服審査体制の整備

 氏綱は公事方の課税に「虎朱印状」というものを用いました。

 各代官はこれを村落に示して納税させました。これがなぜ減税政策になるかという説明をします。
 冒頭で戦国大名の税率が不明という話をしましたが、それはこうした課税内容を示す文書が残っていないからです。他の大名は家臣に税額を示し、家臣はそれを各代官に伝え、各代官が税額を各村落へ示します。
 そうすると、何が起こるでしょうか。いわゆる中抜き泥棒政治(クレプトクラシー)になります。大名から1000文の指示があった場合、家臣は1250文を課税して250文を懐へしまい込む、代官は1500文を課税して250文を懐へしまい込む、こうした中抜きが一般化していたのです。
 課税内容が直接に各村落へ伝わる後北条氏領国ではこれが起こらないので、実質的に減税になるわけです。

 後北条氏は代替り(当主の交代)毎に検地を行うのを慣習化していきます。当時の検地には「竿入」と「指出」がありました。「竿入」は実際に北条氏の直臣が村落に入って行うもの、「指出」は家臣に領地の村落の結果を自己申告させるものです。他の戦国大名はおおむね直轄地のみで竿入検地を行いましたが、後北条氏は家臣の領地についても竿入検地を行うことがありました(基本は指出です)。
 さらに、後北条氏は検地の結果を家臣・村落の双方に文書で通知しました。これによって隠田等が明らかになり、長い間の伝統?でゆがんだ課税ベースが整理され、公平な税制の基礎を確立しました。
 結果が家臣・村落双方に通知されることが泥棒政治の防止に役立ったことも間違いありません。又、後北条氏は、それまで不輸不入になっていた土地にも漏れなく検地を実施したうえで、その内容を吟味し、祭儀の実施費用等を課税対象から控除する措置を行います。決して、権力を背景に一方的に検地を行ったわけではないのです。

 後北条氏には「目安制」というものがありました。これは村落が後北条氏に訴訟を直接提起できる制度です。
 それまで村落はまず領主である家臣に代官の不正を訴えました。しかし、代官とぐるになって中抜きしている家臣に訴えても、代官は十分に処罰されないことがほとんどでした。目安制も家臣や代官の恣意的な課税を牽制し、中抜き泥棒政治の防止に役立ったでしょう。

3 北条氏康の税制改革
 氏康以降の後北条氏は単純に減税政策をとってばかりもいられなくなります。合戦の大規模化・遠距離化に伴う軍事負担の増大、なにより北からあの軍勢が降ってきます。
その一方で、地震や天候不順で村落は疲弊していきます。氏康は軍事と民生をどう両立させるかで苦闘し続けます。

(1) 増税と「国中諸郡退転」そして税制改革へ
 氏康の税制改革は実は増税から始まります。天文15年(1546)の川越合戦に勝利した氏康は武蔵全土から上野・房総へと急速に勢力を拡大します。そのために「陣夫役」の増徴を実施します。
 しかし、同19年には一転して「国中諸郡退転」(「退転」は農民が組織的に村落から逃げ出すことで中世におけるストライキ的なもの)という危機を迎えます。これは先の増税による負担増と前年にあった大地震(諸説あり)の被害に後北条氏が迅速に対応しなかったことが原因とされています。
 危機を認識した氏康は同年4月「公事赦免令」を発布します。その内容は以下のとおりです。
畠地にかかっていた公事(諸税)をすべて廃止し、「懸銭」に一本化したうえで減税
・一部の陣夫役については銭納を認める
・退転した農民について、借銭・借米の債務破棄を認める
夫役の一部廃止
目安制の全面適用(直轄領→全領国へ)
 これによって、農繁期に入る前に農民を村落へ戻すことにおおむね成功します。さらに同年中に「棟別銭」の減免を実施、同21年(1552)には田地にかかっていた公事の「反銭」への一本化と減税を行います。
 この時の減税幅はおおむね2割程度と推定されています。

(2) 再びの増税と危機の再発、隠居へ
 領国の安定をみた氏康は弘治元年(1555)から、膨張する軍事費を調達するために増税へと転じ、天文の減税はほぼ帳消しになります。さらに、弘治3年から再び天候不順による不作が続きます。慢性的な飢饉が続き、農民の退転が相次ぐ中で、永禄2年末(1559)に氏康は隠居し、家督を氏政に譲ることになります。

(3) 代替りと徳政令
 氏康はなぜ隠居したのか、これは失政の責任をとるとともにこれから述べる徳政令を出す環境づくり(代替り徳政はよくあることでした)だったと思われます。
 永禄3年2月末、後北条氏は9箇条からなる徳政令を発布します。その内容は以下の通りです。
・借銭、借米、質入物の債務を破棄する
・年季奉公に出した妻子下人の債務を破棄する
・年季売りに出した田畑の債務の減免
・秋の年貢の半分を現物納とする。
 目的は天文の徳政令と同じく村落に人を返すことです。発布時期からもそれがうかがえます。こうして、後北条氏が領国再建を進めている最中に「あれ」は降ってきたのです。

(4) 上杉謙信と戦いながら税制を確立する
 永禄3年9月上杉謙信は関東へ出陣します。古河公方が上杉支持に回ったこともあり、後北条氏領になって日が浅い上野から武蔵の諸将は上杉方に転じ、大軍になります。
 氏康は徹底した籠城作戦でこれに対抗します。兵糧不足と内部分裂で謙信は翌春には越後へ帰陣します。領国の状況から早晩兵糧不足に陥るはず、という氏康の冷静な読みがあったことは間違いないでしょう。
 しかし、領国を荒らされた痛手は大きく翌4年にも徳政令を発布しています。その後も、連年、繰り返される上杉軍の侵攻に対応するため、後北条氏は恒久的な減税措置で村落を回復させることができず、個別の徳政令で村落の疲弊に対応していかざるをえなくなります。しかし、西上野を割譲してでも武田氏と関東で共同作戦をとったあたりに氏康が民生に最大限考慮していたことがうかがえると思います。謙信との戦いは永禄10年にほぼ決着がつきます。
 これから、この永禄年間に行った氏康の税制改正をみていきたいと思います。
・諸税の現物納化
 これまでなんとなく書いてきましたが、戦国時代は諸税は「銭」による納付が原則でした。これを後北条氏は徐々に現物納付としていきます。最終的には棟別銭まで米や麦による代納を認めています。これには「撰銭(えりぜに)」という中世の貨幣経済を近世の米本位制へと転換させた社会現象が大きく関わっています。しかし、この問題について書き出すときりがなくなりますので、関心のある方はググってみて下さい。
・税の収取機構の確立
 税の現物納化に伴い、村における名主層の役割の明確化、代官の職務の明確化が行われます。名主は村を代表して現物納付する穀物の計量・梱包を行います。もし、未進(未払)が生ずれば、まず、彼らが罰せられます。その一方、年貢の納入に責任を持つ彼らには「名主給(免)」といった免税措置が与えられました。
 代官は、現地で課税を行う存在から、単に年貢を確認受領する存在になります。一方、退転事件が起こった場合には、まず、彼らが罰せられました。江戸時代の村役人と代官の関係の基本がここで成立します。

4 三代の税制改革のまとめ
 早雲-氏綱-氏康の税制改革をまとめると以下のようになります。②は現代では支出面の課題ですが、他は現代でも税制改革のお手本になる内容です。
税率の低減(本年貢・公事方)
中抜きの防止(虎朱印状)
税制の簡素化(公事方の整理)
課税ベースの整理(検地)
不服審査体制の整備(目安制)

5 後北条氏の税制その後
 北条氏の税制は税率的には氏康がつくった弘治元年のものがほぼ受け継がれていきます。(天正9年に増徴が行われていますが、これは氏政→氏直の代替り検地に代えたもので厳密な意味での増税とはいい難いです)。
しかし、武田信玄との戦いや北関東反北条連合との対決など軍事行動は目白押しで、臨時の課税をしばしば余儀なくされました。
 一方で、不作や天災には個別の徳政を行って柔軟に対応していきます。小田原陣後に関東に入ってきた徳川家康も後北条氏の税制を基本的に継承しました。早雲・氏綱・氏康の三代に渡る税制改革が江戸幕府の税制の基礎をつくったのです。

Ⅲ 後北条氏はなぜ減税政策を採ったのか

 ここまでは基本的に歴史学会で現在有力となっている説を紹介してきましたが、ここから先は私の個人的な意見が100%になります。

理由1 強固な伝統的支配基盤を打ち破るため
 まず、前提として東国と西国における社会状況の差を説明することから始めさせてもらいます。戦国前期において、東国と西国のどちらが保守的な色彩が強かったでしょうか。古い歴史を持つ西国の方がより保守的だった、という印象を持つ人もいるかもしれません。しかし、中央構造線以西の西国は、南北朝の争乱と室町幕府の成立に伴い、支配層がかなりシャッフルされているのです。一方、東国は相対的にシャッフルの度合いが低く、関東八屋形と呼ばれるような鎌倉以来の有力国人が大きな勢力を保ち続けていました。
 領主と領民は固い伝統的絆で結ばれていたのです。その典型例が戦国最弱の異名を持つ常陸の小田氏治です。この年貢の話の真偽は別としても、後北条氏はこうした強固な伝統的支配基盤を打ち破る必要があったのです。
 そこで、早雲は「良い政治」という「実績」をもって、「伝統」を乗り越える策を採ったのだと、私は考えています。そして、最もわかりやすくかつ即効性が高い「良い政治」として「減税政策」を選んだのではないでしょうか。

理由2 早雲は中抜き泥棒政治の本家本元の出身だったから
 最初に挙げたのが、減税政策の理念的基盤とすれば、こちらは技術的基盤です。現在、北条早雲は幕府政所執事伊勢氏一族の伊勢盛時が本名だったことが定説になっています。そして、幕府政所の職務は以下のとおりです。
・幕府財政の管理
・幕府御料所の管理
・京都の酒屋・土倉の統制
・土地の移転や財産・貸借などに関する訴訟
 おおむね、室町幕府の大蔵大臣といった役どころです。伊勢氏一族はこの役目を代々世襲していました。ちなみに、伊勢氏を補佐したのがアニメ一休さんに出てくる蜷川新右衛門さんです。内容を見ればわかるとおり、賄賂は取り放題でした。例えば、訴訟を受理するときに礼金1000貫を原告から受けて、幕府には500貫納め、あとは新右衛門さん達と山分け、年貢と礼金の差はあれど、”中抜き泥棒政治の本家本元”と言っていい存在でした。
 また、完全に定説とはなっていませんが、将軍出仕前に備中で実際に所領経営に携わった可能性も指摘されています。早雲はどのような政治がどのように現場で行われているかに精通していた可能性が高いのです。
 早雲自身の現場経験と伊勢家に積み重ねられてきた中抜き泥棒政治のノウハウを「良い政治」のために結合させたのが、後北条氏の税制改革だったと私は考えています。

 次回は鎌倉時代の「二重課税はだめだよね」という話か、江戸の増税メガネの姑息な増税策を取り上げてみようと思っています。