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下手の考え

芦川いづみの映画を眺めながら……って、またその話? まあ、他の映画でもいいんだけれども、というか、映画である必要性さえなく、たとえにあげるのはどんなネタでもいいんだけれども……リアルタイムって何じゃらほい、なんてなことを思ったりするって話。
いたいけないお嬢さんが冤罪で死刑囚となっている兄の無罪を晴らすべく東奔西走する『青春を返せ』という作品。1963年公開。なので、ご年輩の方で公開時に映画館に足を運んだ人ならば「おぅ、それならリアルタイムで観たぜ」とおっしゃるやもしれません。ただですね、いま私が考えているのはそういうリアルタイムではなくて、現実に眼前で生まれては消えていく事象のリアルタイムのことなんですよ。

Macでレコーディングをするときにバッファ・サイズなんてものを考える必要があります。ざっくり言えば、先読み(結果として聞こえの遅れ)のサイズってことなんですが、私はギターを録るのに256サンプルで録ることが多いかな。うちのレコーディング環境だと256サンプルってのは1/48000秒の256倍ってことか。0.005秒ちょいって感じ。その往復で二倍。これにオーディオインターフェイスとMacが計算作業する分の遅れも加わる。それにしたって、100分の1秒強とかそんなもんってことなんでしょう。けれども、これぐらいの遅れでも人間は感じとるんですよね。でもって、なかにはこれじゃあ遅れが気になって弾きにくいぜ、唄えないわよってな人もいたりして、その場合、128とか64サンプルにバッファを詰めなきゃならなくなる。そうすると、だんだんMacがひぃひぃいう展開になるわけで、あんまり詰め詰めにするのはきついよなあ、マシンを買い換えるとなると大変だしなあ、なんてなことに相なる次第。
なんてな、実務っぽい話を書きましたが、そういうことでもなくて、私(あるいは、あなた)がリアルタイムだと思って受け止めている世界も実はちょびっと遅れているんだよなって話なんですよ、いま気になっているのは。
あさがやんずの初期の初期の初期の「Out With Their…」って曲に「シリウスをおまえの頭の上に落っこどしてやるぞ」みたいな歌詞がありました。ヤン・オブライエンくんが作詞したもの。シリウスってのはおおいぬ座のいちばん目立つ星ですね。なんて、物知り顔で書いてますが、実はいま検索したばっか。地球からおよそ8.6光年のところにあるそうです。つまり、私らが見ている光は8.6年前のものってことかな。もしかしたら、もうシリウスは爆発してなくなっているかもしれないよね、九年もあればいろんなことが起こるもんざんしょう。2015年か。セカンド地元久我山に馴染みはじめたぐらいかな。そんな昔の光を今になって見とるっちゅうことか。ううむ。『But Only Love…』のサントラに取り組んでいた時期かな。あれはあれでおもろい経験だった。
いかんいかん、またとっ散らかった。とにもかくにも、ものすごく遠くにあるものはその姿を目にするまでにやたらと時間がかかるってことですよ、光が毎秒30万キロというすんごい速さで進むにしたってね。これはあまりに極端な例なので、リアルタイムという感覚のもやもやが伝わらないかもしれないな。もう少し身近なもの、例えば、雷を考えよう。音速はざっくり毎秒340メートル。ぴかっと光ってから、三秒後にがらがらどしゃん、なんて聞こえたら、340メートルの三倍、ざっと一キロほど離れたところに落ちたんだな、なんてな見当がつく。この場合、雷をリアルタイムで体験したと言えるのかどうか。雷というひとつの事象ではあるものの、光のリアルタイムと音のリアルタイムは別だと考えるべきなのか。あるいは、ずれて聞こえることも含めてリアルタイムとまとめるべきなのか。発生した側のリアルタイム。受け取る側のリアルタイム。むむむ。

私はライヴではエレクトリック・ギターを弾くことがほとんどなわけですが、あれって弦をじゃらんとやるとそれがピックアップってものを通して電気信号に化けてケーブルの中を進むんですよ。で、たいていの場合、いくつかのエフェクタって器械の中を経由して、またケーブルを通ってアンプに入る。あれこれのパーツをへめぐり信号が増幅されてスピーカーが空気を揺らす、その振動がちょいと離れた私の耳に戻ってきて、ようやく自分が弾いた音が聞こえるってことです。電気や空気の波はすんごい速さで伝わるわけで、リアルタイムのように感じているけれども、実はちょびっと遅れた音を聞いている。お客さんだってそうだよ。アンプから5メートルのところに座っていたら、鳴っている音が約5/340秒、つまり、0.015秒ほど遅れて聞こえることになる。だからなんだって話ではありますけれども。
さらに細かく拘るならば、鼓膜が音の波を受け取ってから脳に情報が到達するまでにもごくわずかとはいえ遅れが生じる。そこまできて漸くかっちょいいとかそういうことが感じられるってことですかねえ。気が遠くなるほどいろいろな出来事が一瞬のうちに起きているなんてすげえな、とも言えるけれども、あらゆる出来事を少しずつ遅れてしか感じられないんだよなあと少し寂しい気がしたり、微妙にもやもやする。例えば、私が芦川いづみを抱き寄せてキスしたとして、唇が触れた感触が脳に届いてその柔らかさや湿り気を感じるまでにもほんのほんのわずかとはいえ遅れがあるんだよねえってなことを思ったりするわけ。

仮に、キスの感触が512サンプル遅れて、つまり、1/100秒ほど遅れて脳に届くようなことになったら、人によっては誤差が気持ち悪くてキスできません、みたいな世界になるのかな、なんてなことを思い浮かべて……ああ、下手の考え休むに似たりってことで、また今日もあたら時間を浪費してしまった。こんな具合に日々無駄な時間を過ごす人間が1/100秒のことを気にか’けたところで詮なきことでありますなあ。いやはや。

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