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平常心? あるいは、ドキドキの記憶

平常心を保つことは大事ですよ、というようなお説教を聞いた記憶がある。中学の修学旅行だったかなあ。詳細は忘れてしまったけれども。
これはごもっともなことでありましょう。お坊さんには常に求められることなのかもしれんし、一般の人にだっていろいろな場面で当てはまることでござんしょう。ただ、私個人としては心が揺れちゃうようなことは嫌いではない。というか、平常心キープで生涯を送るということを望まない。というか、そんなクールなスタンスはそもそも私には無理でございます。というか、それよりむしろ、ドキっとしたり、ドキドキしたりの、テンションの上がり下がりのある生活を所望する次第です。というか、まあ、朝から晩までどたばたじゃ困るけれども、少なからず盛り上がったり下がったり、みたいな方がいいな。というか、悟りの境地に至るのは、くたばる直前、例えば、ゴールの五分か十分前でいいよ。それまではがたぴしゃどっすんばったん、というか。
なんて、「というか」を矢鱈に連発するとどうなるかなんてなことを試したりしているわけですが……って、どんどんとっ散らかっていますが、このとっ散らかり具合が私における平常心の産物なのです、なんてなことを言ってみたい気がしなくもない。
平常心というのは必要な場面では必要だろうけれども……なんちゃって畳語法の酷い見本だなあ……日々の生活ではゆらゆら揺れ動くような、千々に乱れる、なんてな形容も使ってみたいような、そういう生活がいいかなってなことを思ったりしている戯けがここにおりますですよ。

中学の数学の授業で、因数分解や二次方程式を学ぶ頃、11から19までの二乗を暗記させられました。先生が11と言ったら121と答える。17と言われたら289と答える、なんてことをやらされた。中にはそういうのを覚えるのが苦手な人はいるわけで、答えられずに困っている場面もよく目にしましたが、そのときに先生が放った言葉がおもろかった。記憶力の悪いものは幸いなるかな、どんどん忘れてしまうなら一冊の漫画を何度読んでも初めてのように楽しめるだろう、生涯一冊の漫画本で済むよな、というようなことを。もちろん、これは皮肉として言っていたんだろうけれどね。
覚えろと言われると覚えられないことは間々あるけれども、ところがどっこい、すっかり忘れてしまうということもなかなかに難しい。そんなわけで、歳とともにドキっとするような場面って減ってくるよね。感性が鈍くなってくるってことよりも、経験量の(あるいは、その記憶の)問題だろうな。初めての時にはドキっとしたであろうことも二度目三度目となれば、ドキ度は減じますわな。致し方なし。初めて女の娘の手を握ったときのこと、あるいは、初めてむぎゅーっと抱き寄せて何が何して何とやら、詳細は控えますが、みたいなこととかさ、もうあのドキドキした心の動きは再現されることはないわけで。というか、そものそも、女の娘をむぎゅーっなんてシチュエイション、この先、あるだろうか。ふむ。

塾や家庭教師で教えていたとき、受験を控えた若い人たちの真剣な姿を目にして、そんなに深刻にならんでもええがな、こんな時こそ平常心だろうってなことを思ったり言ったりしたものだった。受験に成功しても失敗しても、命に関わるほどのことではない。もちろん、ちょっとは人生の流れが変わるけれども、ゼロになるわけではないし、100になるわけでもない、なんてことを私は思うわけだったけれども、当人たちにとっては世界が変わる一大事のように感じられているようであった。そんな彼らの姿が羨ましいような気がしたのも事実だ。こういうドキドキする感じはもう味わえないんだよなあ、なんてな思い。
しかしだね、ふりかえってよくよく考えてみると、私は受験でドキドキしたことはそもそもなかったのでした。受験勉強というものに真摯に取り組んだことがなかったわけで、そういう意味では受験でドキドキするような資格すらなかったと言うべきか。
試験が近づいた頃、小原く~ん、遊びましょ、なんて友だちを迎えにいくと、あんた、全太くんと一緒になって遊んでる場合じゃないのよ、勉強しなさい、なんてお母さんが軽く怒り気味に言っているのが聞こえたりして、なんか、すんません、みたいな気持ちになったことなど思い出したりして。
そんなわけで、受験でドキドキしている若者たちが羨ましい、なんて言ってみたところで、もう一度受験することになってもやっばりドキドキできそうにない私なのであります。いやはや。

そもそもそんなことでドキドキするよりさ、どうせなら女の娘をむぎゅーっとって方でドキドキしたいものだ……なんて、余計な一言を書いたところで、本日はおしまい。

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