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キアゲハの幼虫のお尻の感触

うちの狭い庭には明日葉が植えてあります。そこにキアゲハの幼虫がいる。蛹化に向けて卒業が続き、あとは四匹を残すのみだが、数日前までは犇いているというほどではないけれども二十数匹がいた。食欲旺盛なみなさん、一つの枝の葉を食い尽くしてしまい、三匹がそこで呆然と渋滞しているなんてな光景を目にすることがある。そうなると、どこかまだ葉がたくさん残っているエリアに引っ越しさせんといかんなということになります。で、連中が居座っている葉を失った茎を切って移動させるわけだけれど、その際に新しい葉の上に近寄せても自分から進んでいくということはまずなく、しょうがないので、そこらに落っこちている枝でお尻をソフトにちょんちょんと押したりする必要が生じます。ところが、一寸の虫にも五分の魂とはよく言ったもので、彼らには彼らの意志があるわけで、いやんいやん、みたいな感じでなかなか動こうとしないやつなんぞもいたりする。そう言わずにさ、そっちに行けば葉っぱがいっぱいあるんだから喰い放題だぜ、早いとこ移りたまえよ、なんて声かけしても私の気持ちはまるで伝わらず、両手が塞がって座りこんで作業しているところに蚊の軍団が押し寄せてきたりして、なかなかにつらくじれったい作業であります。まあ、しかし、そうしないと幼虫のみなさんが食糧危機に陥ること必至なのでがんばりますが。
なんてなことをずるずる書いてきましたが、書きたかったのは、キアゲハの幼虫とのコミュニケイションの困難、なんてな話ではなく、その感触のことです。枯れ枝でお尻をちょんちょんと押すさいに感じる弾力というかもわもわとした柔らかさと申しましょうか。一方、表面はそれなりの硬度を持っているようにも感じられる。また、あの吸盤的な足のいちばん最後のふたつが想像以上にしっかりと茎をホールドしている感じなんぞも。そういうのが枯れ枝経由でも伝わってくるんですね。
以前に、望月くん(誰?)は経験主義者、私は想像主義者、みたいなことを書いたような気がします。そういうスタンスの私ですが、こういう感触は、やはり、想像だけでは得られにくいものだと思います。
キアゲハの幼虫の柔らかさなんぞ、知らんでもわしの人生には何の影響もないがな、そもそも芋虫は嫌いだい、とおっしゃるか。そう。その通り。たまたまさっきキアゲハの幼虫の引っ越し作業をしたばかりだったから例に出しただけでね、他のものでもいい、というか、これに限らずあらゆるものの感触、感覚って話なんだけどね。
「それにしちゃ前振りが長すぎだわよ。あたし、虫嫌いなの!」
ああそうですか。貴女は虫愛づらぬ姫君ですか。それは申し訳ないことをしました。

何十年か前、エボナイトを轆轤で削り出す技術者の若者と話した時に、0.01ミリ単位なら皮膚感覚でわかります、と豪語していて、へええ、すごいもんだなあと思ったんですが、職人さんというのはみんなそういうものなのか、それとも彼だけなのか、あるいは、彼がちょびっと吹いていただけなのか、判然としませんが、私のような鈍感な人間でも気づく差もあります。例えば、片足だけ靴下を履いた状態でうろうろすると、その感触といい、生地の分の高さの違いとで猛烈な違和感を感じますよね。
先に書いた職人さんほどとは言わずとも、人間って意外に繊細に感じ取っているもんですよ。真っ平に思える机の上を指でなぞると、ね、気づくでしょ、微かな段差のようなものを。そこそこにつるつるに思える紙の上に萬年筆でさらさら下手くそな文字を書いていくとやっぱり、ああ、紙ってじんわりざらっとしているもんだなあ、なんて思ったり。ああ、何かもっと手頃な例がありそうなものだが思いつけないもんだな。ま、いいや。
キアゲハの幼虫のお尻の感触……小枝ごしですけれども……あれって手の感覚として認識していますが、結局は脳みそが受け止めていることなんですよね。なので、将来的には脳にダイレクトにプラグインするApplePlugなんてなものが出てきたり、なんだったら、AppleChipなんつって埋め込み型の代物さえ出回るようになったら、実際に自分で触ったことのないものの感触も「これがキアゲハの幼虫のお尻を小枝でソフトに押したときのぽよんとした感触だよん」なんてんで脳にダイレクトに信号として送り届けることも不可能ではなくなるのかもしれません。それが、嬉しいことなのかどうかはともかくとして。
そんなことが実現するのはどれぐらい近い未来か遠い先のことなのかわからんですが、今のところ、そういう感覚は体験することでしか得られないわけですね。なので、キアゲハの幼虫のお尻の感触は実地に枯れ枝などで学んでいくしかないわけです。それを学びたい人がいるならば。
キアゲハ、靴下に限らず、あっちゃこっちゃのあれこれの情報を脳が受け止めて整理していき、私にとっての(あるいは、あなたにとっての)世界を形成していくわけですよね。というか、考えてみれば、脳に集積されるデータが私の、あるいは、あなたの世界そのものだと言ってもいいのかな。いや、もともと遺伝子に埋め込まれている情報もあるか。とはいえ。

何年か前になりますが、一ヶ月ほどの死に損ない入院から戻ってきてからしばらくはリハビリがてらの散歩が日課になりました。その初日、明け方に近所の川沿いを歩いたとき、水の音、ほんのかすかな風が頬や髪を過ぎる感触、緑や土の匂い、木々の間から漏れる陽光、そういうものがわーっと押し寄せてきたんですよ。それまで、衛生管理の行き届いた概ね白に包まれた部屋に閉じ込められていたのでね、娑婆の色や匂いや何もかもが懐かしく、かつ、新鮮だったし、なんだったらちょっとした衝撃でさえあった。
懐かしいと感じるのも、新鮮だと思うのも、どちらにしても脳内に蓄積されてきた情報との比較なんだよなあ。情報というとコンピュータやネットワークのことを想起しがちだけれども、そものそも、私ら人間ってものが情報の塊なのであるということも忘れないようにしないとだよな、なんて。

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