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「関ヶ原の合戦」について

皆さん「関ヶ原の合戦」はご存じですよね?徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍を破った戦い。朝鮮出兵で武断派と文治派が対立したのが発端。小早川秀秋がどちらに付くか迷い、家康の「問鉄砲」で東軍に付く決心をした......こんな所が有名ですよね。

実は、全部「嘘」です。

武断派と文治派なんてものは存在しなかったし、小早川秀秋はどちらに付くか迷ってなんかいません。すべて江戸時代に書かれた軍記物の作者達が想像で作り出したファンタジーなのです。それを明治時代になって大日本帝国陸軍参謀本部が戦争研究を行った際に採用してしまい、後の研究本がみんな参謀本部の本を参考に書いた結果、いつの間にか「史実」となってしまった訳です。きっと皆さん「えー!」と驚くでしょう。

歴史学としてこの合戦をテーマにした学術論文は極めて少ないです。それはこれまでこの合戦の全貌が明らかにされて来なかった事が要因です。例えば増田長盛と前田玄似は家康を糾弾する手紙を全国にバラ撒いて決起しました。石田三成は後から加わった。それなのに、二人は家康に内通の手紙を送っています。それだけでも意味不明でチンプンカンプン。こんな話がゴロゴロしています。西軍総大将は五大老・毛利輝元。なのに、何故か彼は大阪城に引き籠って戦場に行かない。西軍が敗北したらサッサと自国に戻ってしまった。総大将がどうして引き籠ったのか、キチンと解説出来る専門家がこれまで現れなかったのです。

では、あの合戦場で一体何が起きたのか。皆さんに解り易く解説して行く事にしましょう。


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