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「“保育園落ちた日本死ね!!!”ってなおちゃんが書いたの?」と実の母から言われたのは、4年前のちょうど今頃だった

生きていると、人はなんども絶望する。わたしなんてかなり不出来な人間だから、1日に1回か2回は絶望しているんだけど、度々そんなことをしているといつの間にか絶望自体に慣れてしまって、気づいたら忘れているなんてのは常々だ。

でも、そんな中でも忘れられない絶望がある。それが“保活”だ。
娘がもうすぐ5歳になる今だから、忘れないよう記録しておく。ちょうど長々と文章が書きたい気分でもあったので、書いてみる。

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2015年、娘が生まれた。

3月27日の金曜日、その日はちょうどプロ野球の開幕戦で、大好きな巨人・亀井が見事なホームランをライトスタンドに打ち込んだのをテレビで見て、「やったー」と万歳をした瞬間に破水した。

何がなんだかわからないまま入院し、促進剤を点滴してもなかなか娘は生まれてこず、28日の夜から29日の夕方まで信じられないくらいの陣痛に襲われ、「なんでもいいから引っ張り出してください、無理ならわたしを殺してください」と看護師さんに懇願し、なんやかんやで2015年3月29日18:46、わたしの可愛い娘が生まれた。

こんなわたしだけど、『お母さん』になった。

2ヶ月ほど実家で過ごし、東京の自宅へ戻るとわたしと夫、娘の3人の生活が始まった。いま思えばその年の夫はかつてないほどに仕事が忙しく、昼に家を出て夜遅くに帰宅する毎日を送っていた。

フリーランスで放送作家をしている夫は、時間が空くと家に帰って娘を愛で、仕事以外の予定は極力入れずに家族で過ごす時間を大切にしてくれた。娘はミルクをよく飲み、あまり泣かず、たまに便秘をする程度でそれほど手もかからなかった。

夫はあまり家にいなかったが、居るときは育児に協力的だった。当時、『ワンオペ育児』という言葉はなかったが、たぶんわたしは完全に『ワンオペ』で育児をしていたわけではなかった。夫はよく手伝ってくれた。それなりにママ友はいたし、児童館や公園にいけば誰かしら顔見知りのママがいて、その時々で離乳食やらリトミックやら予防接種の話をした。

でも、わたしは孤独だった。

わたしのことを話せる相手が欲しかった、テレビやネットの何気ない話題を共有する相手が欲しかった、あんなに苦労した理学療法士の仕事がしたいと思った、リハビリテーションなんて何のことだかわからないのに、誰かとリハビリテーションがしたかった。

気づいたら、“わたし”という存在は社会から孤立した存在になっていた。

わたしはこのまま娘とふたりきりで家に居る生活をしていくのか。
そう考えた途端、背筋がゾッとした。何より、こんなつまらない母親と四六時中一緒にいたら、この子はとんでもなくつまらない子どもになってしまうのではないか。そんな風に考えた。

そうして一念発起して、6月頃から保活を始めた。

保育園には二種類ある。認可保育園(行政が家庭ごとの収入によって保育料を決める)とそうでない園のどちらかだ。

認可保育園でない園の保育料は世帯の収入によって決まる。誰がどの園に入れるかは区によって振り分けられ、世帯収入の低い家や、介護の必要な家族がいる、片親であるなどのそれぞれの事情を点数化し、“より保育が必要とされる家”が優先的に入園できる仕組みになっている。

わたしは世田谷区に住んでいる。どうか覚えていて欲しい。世田谷区で一般的な収入の家庭が認可保育園に子供を預けるのは、地方の公立高校のちょっと頭の良い子が東大に入るようようなものである。しかも、努力の問題ではない。受験のようにたくさん勉強したら希望の大学に入れるとか、そういうものではない。

はっきり言って、本人がいくら努力したところで状況は変わらない。なんかよくわからないけど、保育園の数に対して世田谷区に住む幼子の数が圧倒的に多いのだ。どうしようもない。マジでどうしようもない。「どうにかならないの?」とか言う人がいたら、「配慮が足りないから!バイザーか先輩にババちびるくらい怒られたらいいから!」って言い返しておいて欲しい。

結果的に、30施設以上の保育園に申し込んだが認可保育園は全て落た。近場はもちろん、現実的に通えないであろう遠方の園にまで申し込んだけど、全て落ちた。

孤独に耐えかねて社会に参加しようとしていたにも関わらず、四方八方からNoを突きつけられていたわたしが、当時ネットで目にしたものが『保育園落ちた日本死ね!!』だった。※画像、見づらくてすみません…

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「あれ?これわたしが書いたの?」と思うくらい、そこに居たのは“わたし”だった。そして母からもタイトルの通り、電話がきた。

オリンピックのエンブレムの問題が炎上していた時はその諸々のお金で保育園を作って欲しと思ったし、不倫した川谷絵音は申し訳ないと思うならその気持ちで保育園を作って欲しいと思ったし、SMAPが解散するなら一人2園ずつくらい激戦区に保育園を作って欲しいと思っていた。

月額13万円(土日祝日休み)の無認可保育園にしか娘を預けられない状況になったわたしのために、近場で月5万くらいで割と環境の良い保育園を作って欲しいと思っていた。もう認可じゃなくていいから、何でもいいから良心的な値段で、安全で安楽に娘の面倒を見てくれる施設が欲しかった。

でも、どんなに嘆いてもどうにもできなかった。保育園という施設はそう簡単に作れるものではない。「ねーねー、この辺に保育所作りたいって相談こないの?」と、不動産会社で働く妹に尋ねたら、「お姉ちゃん、保育園作るのってデイサービス作るよりずっと難しいんだよ」という返答がきて我に返った。

こうしてわたしは絶望した。社会に、日本に、世田谷区に、そして『母』という役割を除いてしまったら何も残らない自分という存在に深く絶望した。

どうしてこんなことになっちゃったんだろう。このまま家に娘といて、それなりに時が経ったらこの子を幼稚園にでも入れて、なんなら二人目も妊娠して、なんだ、側から見たらすごく幸せそうじゃないか、そんな風にも思えたけど、でもそれはわたしの欲しいものではなかった。

で、なんやかんやで結局、それなりの保育園に入れたわけなんだけど、長くなってしまったのでこのお話は次回『わたしは人生で一度だけ、マジなトーンで「神様の思し召しですね」と言われたことがある』に続きます…。



読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。