夏の夕方、ビールよりも苦い

「乾杯」と言えばビールなんだけど、その美味しさに気づいたのはほんの最近だ。大人になるよりも前に大人の経験をしてしまった私には、あの日あのタイミングでビールが飲めたらよかったのに、と後悔してしまう場面がいくつかある。大学1年生の夏にあったあのほろ苦い出来事も、そんな思い出の一つだった。

「一緒に来てもらえないかな?」

男の人が何かを成し遂げようとするとき、それも容易いことではなくて、途轍もない勇気を伴わなくてはならないとき、彼らの顔はほんの少しだけど凛々しくなる。それだけに留まらず、その勇ましい挑戦に向かうのに、私のようなちっぽけな存在が傍にあって欲しいと望むのだから、それはもうとてつもなく甘美なことではないかと思う。

で、冒頭のセリフに戻るのだけど、人生で一度だけ、私はこの台詞を言われたことがある。

夏休み、大学のサークルの旅行でのことで、私と老川くん(仮名)は、出し物係を任命されていた。私が所属していたサークルの旅行は1年生の精鋭たち10名ほどが幹事をするのが伝統になっていて、老川くんは出し物係のリーダーだった。

入学して数ヶ月、親元を離れ孤独で孤独で仕方なかった私にとって、幹事のグループの集まりは心の拠り所であり、新しくできた家族のような存在だった。先輩たちを喜ばせたい一心で、『ただの旅行』の計画を「これでもか!」と丹精込めて練り上げる。みんなで力を合わせることが楽しかった。辛かった受験勉強の先に、こんなに楽しい毎日が待っていた。寒い教室で震えながら、涙を流してマークシートを埋めていたセンター試験前の私には信じ難い光景だ。

若い男女が複数人集まれば、当然ながら恋が生まれる。正直テラスハウスは世代じゃなくて、私からするとラブワゴンの方がしっくり来るわけだけど、まあそんなことはどちらでもいい。現に幹事グループに留まらず、サークルの1年生の中でもやれ同級生だ、やれ先輩だと淡くて脆い恋の花が咲き乱れていたものだった。

で、老川くんには心に決めた人がいた。

ここまで話を振っておいて、残念ながら相手は私じゃないんだけど、老川くんは同じサークルの園田さん(仮名)に恋をしていた。

園田さんは、清楚で可憐。大人しいのに賑やかな場所が好きで、1年生だけの飲み会で酔い潰れて帰宅困難者となり、同じく酔い潰れた渡辺くん(仮名)と私の家に雪崩れ込んでイチャコラついてた過去がある。当然、この事実は老川くんには伝えない。あの頃の私たちは、とても優しくてとても残酷な子どもだった。

で、再び冒頭のセリフに戻る。

旅行の初日は海水浴だった。普段、私服姿しか見慣れていない男女が水着となってビーチを駆け回る訳だから、意中の女の子の露出度に心を踊らせる男子は老川くんだけには留まらない。決まった相手のいない私は、はしゃぐ皆さまの笑顔がガソリンです、と言わんばかりにやれ飲み物だ、やれゲームコーナーだと那智勝浦の渚を駆けずり回ったものだった。

で、事件はその夕刻に起こった。海水浴場から2kmほど離れた旅館に着くと、幹事たちによからぬ知らせが舞い込んだ。それを聞いた老川くんは、すぐさま私のところに駆け込んでこう言い放った。

「園田さんが、上着を海水浴場に忘れてきたらしい。俺がひとりで取りに行くと、気持ち悪いと思われるかもしれないから、一緒に来てもらえないかな?」

老川くんは決してイケメンではない。どちらかというとモテないことをネタにしていじられるタイプだ。「俺なんかに好意を寄せられていたら、園田さんに不気味がられる」と、常々彼は話していた。だから私から園田さんに上着を渡して欲しいと言う。老川くんが取りに行って、それを私が渡せばいいじゃないかと尋ねたが、園田さんが「自分の上着に老川くんが触れた」ことで気を悪くするのが不安だと言う。なんて誠実な“バカちん”なんだ…。私の悪魔が呆れ返った。

なんで、私が…という余計な一言をぐっと飲み込んで、私は老川くんの依頼を受けた。「俺と一緒に来て欲しい」という一生に一度聞けぬかどうかのセリフをいただいた以上、私も後には引けなかった。何よりも、好きな女に好かれたい一心で私に頭を下げる老川くんは凛々しかった。

老川くんと夕暮れの海岸沿いを歩いた。時間にしておよそ1時間程度だと思う。男性経験はあるけど男性と付き合った経験はなかった当時の私にとって、それは不思議な感覚だった。並んで歩いていると時々、私の左手に老川くんの右手が触れる。夕方の海の風は、照りつける日差しがなくて心地よい。ほんの一瞬、老川くんを好きだと思ったけど、心から触れたいとは思えなかったから錯覚だと安堵した。今思うと、あれは愛情だったのかもしれない。あの時の私にとって、老川くんは家族だった。

上着は無事に、私の手から園田さんに渡った。道中、幾度となく「持ってみろ」「嗅いでみろ」と老川くんをからかったが、とうとう彼が園田さんの上着に触れることはなかった。老川くんの「馬鹿」は「誠実」が上回っていて愛おしい。

この恋はその後、園田さんが別の同級生と付き合うこととなり儚く散った訳だけど、あの日あの時の彼の勇姿を私は忘れない。そうしていつしか私たちは大学を卒業して、社会人になって、それぞれの場所で“本当に一緒についてきてほしい人”に出会い、父親になったり母親になったりした。それなのに夏の海の夕暮れは、どういうわけか私に老川くんを思い出させる。相変わらずビールの味は苦いけど、それを美味しいと思えるようになったのはあの夏のずっと後だった。だから私はあの時できなかった乾杯を、こっそりと老川くんに捧げてしまう。時として恋は、ビールよりも苦いのだ。


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