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朝5時、渋谷スクランブル交差点にて

 無職になって気づいたのだが、私の人生には“無駄”が多い。

 8月の初旬、今朝も朝の5時から渋谷のスクランブル交差点で映画のエキストラに参加した。ちなみに謝礼はなかった。

 映画といっても有名な俳優は誰ひとりとしておらず、極端に顔の小さい女子高生姿の女の子2人と男子高校生3人。男の子のうちひとりはダサい感じ、でも多分主役の子に想いを寄せていて、あとの2人は所謂イケてるグループの男の子。そして私を含めた通行人のエキストラのみだった。

 おそらく学園ものの映画、しかも低予算なのか思いのほかスタッフの数は少なく、メガホンを取る監督らしき男性も随分と若い。ちょっとだけイケメンだな、と思ったのは余計なひとことだが、どうも私は長髪の気の強そうな男性にグッときてしまうところがあるらしい。

 私に与えられた仕事は渋谷のスクランブル交差点を、交番前からTSUTAYAに向かってひたすら歩くと言うそれだけの役割。そこは流石に映画なので、今日だけで軽く10往復はした。

 映画のタイトルはおろか、集合場所に到着しても名前すらまともに確認されない。指示を出すスタッフは暑さと疲労の滲んだ顔で、ひたすらに「位置についてください」と「始まりまーす」を繰り返している。

 正直な気持ちを言えば随分な扱いだなと思うけど、まあそんなところへノコノコと出ていった私が悪い。

 私以外のエキストラはいわゆる関係者といったところで、スタッフの誰かしらと顔見知りなのか、友達同士で参加しているのかそれぞれで何やらお話ししている。こう言うときに社交性を発揮できたらいいのだろうけど、ネットでたまたま見つけた募集に興味本位で申し込んだだけの私では声はかけられなかった。やっぱり私は人見知りだ。

 何テイクも、何テイクも交差点を行き来する。そんな中でも役を与えられた高校生たちは、カメラを向けられようが向けられまいが、決まった役割を演じ続ける。その時々で会話の内容は異なるが、“東京の高校生”然としてそれっぽい会話を楽しそうにしてみせる。

 カメラが止まると、主役の女の子には常にメイクさんやらスタイリストさんやら大人たちが着いている。主役ではない女の子はマネージャーらしき男性と遠巻きにそれを眺めたり、これ見よがしに男子高校生役の男の子と楽しげに会話をして見せたりする。彼女たちはこれっぽっちの少女の時代から自分の値段を突きつけられ、消費されるコンテンツとしてその役割を果足している。あと何年かして、立場が逆転するかもしれないし、このままかもしれないし、どちらも表舞台から姿を消すのかもしれない。華やかに見える白鳥も、水の中では常に足をバタつかせ、沈むまいと踠いている。そんな刹那の馴れ合いを、これまた遠巻きに私は眺めて色々と想像してしまう。

 それを他所に大人たちは駆け回る。演出らしき男性がカメラの位置や役者の所作にあれこれ注文をつけ、その横で監督らしき男性がTSUTAYAビルの警備員と何やら撮影許可の件でもめている。メイクさんは主役の女の子の前髪に夢中だし、スタイリストさんは男子高校生のネクタイとYシャツをズボンにインする感じがどうやったらダサく見えるか試行錯誤している。

 この光景を間近で見られただけで、私はもうここに来たことに満足する。映画もドラマも小説も、ひとりの力では作れない。こんなにたくさんの人の手によって『かたち』になるのだと言うことを、無職でありながら教えていただけるこの環境に、ささやかではあるが感謝さえしてしまう。

 全く無駄の多い人生だと思う。本当は、こんなところにいないで家で教科書でも読んでいた方がいいのかもしれない。今日のこの行動は、多分これから先の理学療法士の仕事にはそれほど役立たないこともわかっている。

 でも、こういう無駄を私は無性に愛してしまう。夫と娘の寝ている間に家を出て、目覚めた頃に帰宅するようなこの時間が、たぶん私の人生の中の有意味の一部分を担ってしまうのだ。ああ、生きづらい。

 たぶん、何かしていないと不安なのだ。どうせ何かするなら意味のあることがしたいと思うけど、そんなことを容易く見つけられるほどの経験も知恵も美貌もないので、私は無駄ばかりしてしまう。これに気を病んでそれでも何かに食らい付いてしまえばもっと有意味な人生が送れるのかもしれないけど、これはこれで楽しいと思ってしまうからたちが悪い。

 こんなところに書くことではないんだけど、前の職場は上司ともめて退職した。私にも問題はあったし、でも彼にも問題はあったと思う。それを在職中に立証できなかった私の実力不足ゆえに退職してこうして無職になったわけだけど、昨夜その上司がパワハラで更迭され今年いっぱいで退職することになった、という知らせがきた。彼が退職したら戻ってこないか、と声をかけられた。

 そんなことを言われて二つ返事で決断できるほど身軽な分際でもないので、私はひどく悩んでいる。おかげで眠れず、今朝は寝坊した。それでも現場には到着したので、スクランブル交差点を右往左往しながらそのことを考えていた。

 長い目で見たら、前の職場にいた1年半も無駄なのかもしれないし、無駄ではないのかもしれない。そんなことを言ったら今ここでこのnoteを書いている時間さえも無駄なのかもしれない。大学を出て理学療法士になって、夫と出会って結婚したことも出産したことも無駄かもしれない。ちなみに退職を決めてから理学療法士以外の仕事をしようとしていくつか企業を受けたけど、どれも採用にならなかった。理由はきっとひとつではないけれど、心の底で無駄でもいいやなんて思っているから落とされるのだろうとも思う。

 結論、無駄かどうか決めるのは私だ。たぶん全て無駄であり、でもそこに意味づけできたら有意味なのだ。もしそれを他者に認めて欲しいなら、何かしらの『結果』に結びつけなくてはならない。でも『結果』というやつはすぐには表に出てこない。

 たぶん、本当の『実力』とは踠いて踠いた末にそこに何も残らなかったとしても、絶望しないことなのではないかと思う。仮に絶望したとしても、そこで足をばたつかせることを諦めてしまったとき、私の身体は腐り始める。腐っていない実感が欲しかったから、無駄と知りながら私は今日あの場所に足を運んだのだと思う。

 ちなみに夏が終わった頃、また働き始める。一応、就職が決まっている。だからそれまで無駄でもいいから何かしていたいと思う。それが未来の私にとって有意味であるかどうかはわからないが、少しでも意味づけしたいと思うなら少しの『結果』をお土産にできるように、もう少しだけ計画的に踠いてみることにする。

 朝の渋谷は久しぶりだけど、朝帰りでも出勤でもない目的でスクランブル交差点を渡ることは、たぶんもう二度とないと思う。



読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。