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海も暮れきる

ふた月前ほど 春の終わりの暑い日に息子たち
と隣町に出かけて古本を買った その本 吉村
昭 の 私の普段着 というのをナイトキャップ
代わりの読書で少しずつ読んでいて 二カ月も
読み終わらない本ではない気軽なエッセイ集
だけれど間にとっかえひっかえ別の本を挟む
から読み終わるまであと少しかかる 吉村昭
は当初幻想をモチーフとした作家としてスタート
したがのちに史実小説といった分野へ行って
数多くの名作を書いた といって私はそちらの
方面の作家の仕事はほとんど読んでいなくて
史実小説へ逸れた といった思いを内心抱いた
りしてもいる 初期には 星への旅 とか 少女
架刑 といったちょっとノーマルとはいいがたい
題材を冷徹な筆致で描く作品をものしていて
史実小説の合間に差しはさまれるようにして
短編集が何冊も編まれているが そちらは初期
の幻想性にはとぼしいものの ちょっとした人生
の齟齬 悪意 落胆 そのような話を簡潔な文
章で読ませる たとえば 離婚の原因が 妻の
箸を短く持つ鳥がついばむような食事のとり方
だったとか

吉村昭に 海も暮れきる という自由律俳人
尾崎放哉の評伝小説がある 落ちぶれた放哉
が寺男になって田舎で朽ちていくのを描いた
長篇小説で たしか同じ題材で丸谷才一に
横しぐれ という作品もあった 簡単な言葉で
短い詩 私には自由律俳句が何故俳句なのか
今一つ掴めない 十七文字にも満たない短い
言葉で百年以上人のくちのはに乗り続けている
のだから放哉はどえらい 今風に言うならコスパ
のいい書き手なのかもしれない その生涯は
般若湯に溺れた悲惨なものだったようだが

ニ三日前の新聞で橋爪功のインタビューを読んだ
海も暮れ切る がドラマ化され 放哉を橋爪が
演じた その時の話が載っていた 吉村のエッセイ
でやはり 海も暮れきる のドラマについて書
かれていたのを読んだすぐ後だったのでシンクロ
というのか こういう偶然はよくあることだがある
たびに何だかささやかなくじにあたったような
気分になる 活字籤

そのドラマはプロの役者は橋爪功だけで他の
キャストは地元の人だったとのことで それで
話題にもなったようだ しかし見物は何といっても
橋爪の鬼気迫る酒癖の悪さの演技だったようで
その後 吉村と橋爪の顔合わせ並びに会食の
機会があったときに 吉村は本当にあんな酒癖
の人だったらどうしようかと真剣に悩んだようだ
恐る恐る酒を酌み交わし和やかに酒宴が進んだ
ところで 吉村は橋爪に 本当にあんな酒癖の
悪さだったらどうしようかと思った というと ああ
あれはある人の酒癖を真似て演じたんです と
帰ってきた これは吉村のエッセイに書かれている
話で ある人 というのはエッセイでは伏せて
あったが 橋爪のインタビューではその人物の
名があっさり明かされていた 師匠の 芥川比呂志 との
こと エッセイの匿名が新聞で明かされたという

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