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悲しいほど

近頃いくつか写真が公式マガジンに入るように
なってきた ところで何で写真を撮るようになっ
たのだろう おそらく五十くらいからちょっといい
コンデジを持ち歩くようになった 今となっては
田園地帯をよく仕事で回っていたから四季折々
の田畑なんか撮って置いたらよかったかとも思
うけれど どうせ誰かがそういう風景は撮ってる
と思うとわずかに鞄が重くなる程度なのにカメラ
を持ち歩くことがなかった 雨の日に営業車を
何とかデンキの駐車場に止めていて 大きな
灰色の縦樋から大量の雨水がざはざば落ちて
来るところなんか撮っておけばよかったと思う
今でも容易く撮れる光景ではある

スマホで撮るというのもあるけれどなぜかひょい
とスマホを取り出す という気になれなかった
熊本ではそれほど写真を仕事以外で撮らなか
ったが何という事のない茂みへ下りていくコンク
リートで出来た坂道と飛行機からの窓の外を
数枚撮った きれいに撮れていた 長四角の
縦の構図がなんとなく嫌なのかもしれない 写
りはコンデジもスマホもさほど変わらないだろう
PCやスマホで見る分には プリントアウトすると
見られたものではない となってしまうのかもし
れないがそこまでの想定では撮っていない 基
本 デジタル撮影された風景は儚いと思ってい
る ここの所は 今書かれて 広く読まれている
物語や詩歌も儚いものだと思っている この時代
にあっておそらくそれはほぼすべて消え去るだろ
うと考えている 百年はともかく 二百年後には
恐らく何も残らない 人が上書きという概念を
知ってしまったからには

となったときに例えば残っていくような見物読み
物というと 何かと言えば精巧につくられた作品
よりも 何気なく書き付けられた言葉や意図の
分からない写真など 元の流れが消えてしまっ
てばらけてしまった人の営み その声や視線
の方が意外に人の心を打ち 受け継がれていく
ような気がする 稚拙さや言葉足らずのために
謎になる部分を持つものに心惹かれるという
うのは意外に人の共通心理の一つなのではな
いかなどと根拠なく思ったりもしている それを
意識しないでもないけれど作為でどうこうできる
ものでもないことを悲しいほど知っている


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