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午前中いっぱいのわが町の旅1

娘が授業で使うスマホアプリが、スマホが古くて入らないという。
特別にタブレットを貸してあげようと先生に言われ、なんだそれみっともねぇと妻と娘の機種変更予約。ついでなのでついていくことにした。
ドコモの店員は感じのいいお嬢さんが多いので少し話でもして浮かれようかと思いきや当てが外れて午前中いっぱいのわが町の旅に出る。

というのも、何気なく動画を覗いていたところ、わが町にある横丁とかつてあった遊郭のことが映し出されてきたのだが、その遊郭のあたりには仲の良かった友人の家があり、多分遊郭の最後の建屋をみたことがあったのをおもいだして、少しうろついてみようという酔狂をおこしたというわけだった。

この町は街道沿いの宿場町として陸運と水運の両方の要所であり、農業と商業の混在する、つまり現在とさほど変わらない都会であり田舎なのだが、紹介の際には必ず東京のベッドタウンと称される寝床町なのだった。私はここで生まれ現在もここに住んでいる。わずかに富士山の麓に単身暮らしたがそれ以外はこの町でずっと一人ではない暮らしをしてきた。

というわけでそれなりにこの町の変遷を見てきたのだが、線路をはさんで
西と東に分断されたこの町はあまり両者の交流がない。西は東を田舎と言い
東は西をシタという。私は東だが学校の移転にともないシタまでバスで通学することになった。そのためシタに友達が自然多い。
今回の旅はシタの路地を巡る旅となった。
記憶のままに何軒か友人宅を探したが二軒はそのまま残っていて他の何軒は跡形もなかった。その数少ない残った一軒の通りが旧遊郭街だったところだ。
その友人はふざけたことしか言わない割には勉強ができた男で、よく互いの家を行き来して泊まりあったりした。
通りには薬屋の同級生、革職人の家の同級生もいてみんな勉強ができた。薬屋は女子だったので行かなかったが店先を覗いたりした。
薬屋の向かいあたりに昔の学校のような木造の大きなアパートがあったのだがそれがどうも昔の遊郭だったと思われる。そこはコリアンの人たちの宿舎
になっていたようだったがもう40年も前の事なのでわからない。恐らくそこから学校に来ていた同級生とは女子だが仲が良いほうだった。

通りの広さは多分4メートル道路と言われる幅で全く変わりなかったが、何軒かの古い家が点在するほかは建て替わっていた。とくに薬屋や革職人のあたりは大規模マンションになっていて、面影など跡形もない。遊郭の跡地は
保育園だったようだが、その保育園もなくなったのか移転したのか、おそらく遊郭時代からあったであろう柳の下で物置と化して打ち捨てられていた。

遊郭の跡はほぼマンションの並びに囲まれ盆地地帯の様相だったが当時を思わせる名残が柳の木のほかに二つあった。ひとつは古い街灯、もう一つは神社である。とはいえその二つは動画ないしブログですでに見ていたので自分の眼での再確認という形になった。

件の動画によると街灯はかなり残存しているようだが、通りで私が見たのは
四本程度だった。民家の庭から出ているものもあったが、今のような目の細かいコンクリート造りではなく水槽の底に敷く砂利砂を固めたような素材であり、老朽により中の鉄筋が見えて錆びていた。か細いものだが倒れてきたらそれなりに怖い。
朱色の鉄柵に覆われたマンションの壁と奇妙なマッチングを見せたりして面白く感じた。


つづく

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