ふたたび寺へ
再び寺を訪れた 前回来たのがちょうど200日
の荒行の明ける前日二月十日だったから お
よそ二カ月後 本来であれば盛りであるはずの
桜はもう散り終わる気候の良さで しかしまだ
咲き残りの遅れた花がまだ桃色に見える枝葉
を縦横に広げて よく見ればそこここ花びらが
絶えず降り続く境内の外れに降り立ち 昼に
少し届かない時間 何故か途切れた曲間の
ように人がにわかに誰もいなくて レコードなら
ばちりちりと鳴る擦り傷のように風に黄緑に塗り
かわった春の林がすーっすーっと静かに鳴って
いる 前回素通りした全体から見ると駅に対し
て最奥になる鬼子母神のお堂の広い階段を
見上げると 大きな賽銭箱を前に一心に何か
頭を垂れて祈っている女性が見えた しばらく
彼女は祈っていて入れ違いに私たちが石段を
登り 賽銭を入れて しかし私は何も祈らず 妻
と娘は何かを祈っている その先に大きな絨毯
敷きの廊下が伸びて そこから奥に暗く仏像の
並ぶお堂らしきものが見えていたが 一枚入り
口から写真を撮って 奥に突き当たると堂内
撮影禁止 と書いてあって そのお堂は外廊下
がぐるりと回っているのかと 片側は山と登って
いて もう片側には日当たりのあまりよくない灯篭
や碑のある静かな庭となっていたが ぐるりと
回ることなく 口の後ろの線が一つ 繋がって
いない形となって
鬼子母神と見て寺なのに神 と疑問に思い き
しもじん とかなを入れて変換し 検索を入れて
みたらどうも日蓮の法華寺本山にまつられて
いるには何かいわくがあるらしく それについて
は詳しく見るまでもなく寺に神でいいのか と
一応の正しさのような確認を見て安心したが
きしぼじん きしもじん どちらかと言えばいい
かたとしては きしぼじん をしゃべっているのに
なぜか きしもじん で引く 昔 ユリイカの投稿
欄で読んだ詩に かりていも という言葉があ
って かありていも かりていも とルフランされ
た詩行がいまだに目に鳴っているように見える
のだけれど訶梨帝母はまさに鬼子母神のこと
だと今初めて知ったようで 多分 その詩を読ん
だ後 意味を何度か調べているはずで その
たびに恐らく初めて知ったように何度も感じた
のだろうと思う 最後 おいどがぽっかり浮かん
でいるのでした と詩は締められていて はじめ
て読んだときには おいど の意味も知らなかっ
た
鐘楼 卒塔婆 五重塔 大仏 日蓮像 大門
白山吹 普通の山吹 桜 荒行堂など 一連の
風景を写真に撮っていく 荒行堂の手前で 桜
の花びらを竹ぼうきで聴いている女性 寺男
ならぬ寺女 いや おそらく身内か清掃に雇わ
れた人なのか 赤いエプロンで石畳に半円を
書くように掃き集めている横を抜けて ここで
荒行が行われるのか というお堂の薄暗がりの
なかをさっと見て いつも裏に回りたくなる性分
の裏に回ると もうひとつ 荒行堂 と白文字で
かかれた板のかかる農家の家程の大きさの
建屋があった そちらがろくに取れない休憩
のための堂になっているのだろうか 帰り際に
花びらの掃除大変ですね と声をかけると な
んだか 雨が降りそうな気がして今のうちに
掃いているんですよ と掃き集めた花弁は米袋
いっぱいよりもありそうで 桜は後が大変だと
いっていた管理人の言葉を妻が聞いてきたこ
とを思い出した 声をかけた私を見て妻はいや
そうな顔をしていた
また 猫に逢った 腰をかがめると猫はよって
きて それは前に来た時と同じだったが 前に
来た時と同じように嚙まれるのではないかという
勢いで 今回も何も持っていなくて済まん と
思いながら撮るならば餌を と怒っているような
猫相手に私 妻 娘 三人して寄って写真をしばし
撮りまくる その横は墓地になっていて 卒塔婆
が何十と重なってたてられているのを珍しくお
もってそれも撮った
息子を除いた家族三人で居ても私一人で境内を
歩いているような気持ちになった 写真にする
対象物に気をとられていて まだ少し残る桜の
中で懐かしいような焦げ臭いにおいがしていた
線香が煙を流して その風下に親子がじっと立っ
ているのは頭の中身にご利益を得たいからな
のだろうが じっと目を閉じて立っている様が
ほんのりと滑稽で しかし 何か木を焚いている
ような匂いがする線香だなと思って 田舎に
来た匂いがする と聞こえるかどうかの離れ具
合に二人で寄り添っている妻と娘に 母にいう
ふとした発見を言うように呼びかけた
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