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7.7 被災者の手記 西日本豪雨災害


こんにちはZerofagiです。


西日本で起きました豪雨災害により命を落とされた方々に心からお悔やみ申し上げます。そして行方不明となっておられる方々が一刻も早く見つかり、無事に戻られることを心からお祈り申し上げます。




このたび豪雨による災害の被災者となっていろいろなことを体験しました。この先家の片付けや各種手続きなどやらなければならないことが山積みになっておりきっと忙しくなってくるだろうと思います。車が水没して移動手段がありませんし、思うように動けない毎日です。幸い記事を更新できる環境にあり、合間合間に時間を見つけることが出来ていますので、大切なことを忘れてしまう前に自分が経験したことを記事にまとめて残しておこうと思います。あらためて振り返っても、”災害のない県”と思われていた岡山に住んでいて、それでも被災者となってしまった事実は非常に重たいと受け止めています。この経験を残しておくことで、いつかどなたかのお役に立つことがあればそれ以上のことはありません。長文になりますが、よろしければ最後までお付き合いくださいませ。


なお、この記事内での情報は客観的な事実のほかに、自分の主観もたくさん含まれています。ですので情報が正確なもの、不正確なものとが入り混じった記事になります。また時系列の順序が正しくないところもありますが、説明上の事情や記憶が不鮮明なことが理由です以上の点につきあらかじめご了承ください。




1.7月7日以前の状況


大雨や河川の決壊による災害が起こったのは7月6日から7月7日のことでした。しかし、それ以前の岡山にはその後に起こることにつながることがいくつかありました。ということで7月7日以前の状況から確認しておこうと思います。

岡山では7月3日から雨が降り続いていて、なかでも7月5日と7月6日は雨脚が強くたくさんの雨が降り注いでいました。自分はその両日とも仕事に出ていましたが、真備から職場のある倉敷まで車で通勤する際に、のちのち堤防が決壊することになる小田川にかかる橋を通ります。
(思えばそれが最初のサインだったのですが・・・)
小田川の水位は7月6日朝の7時の時点で相当に高い位置まで上がっていました。この先雨が強くなる予報も出ていましたので夜になったらどこまで上がるだろう?大丈夫かな?と通過しながら思ったことをよく覚えています。

自分はJリーグのファジアーノ岡山というクラブを応援しています。ちょうど7月7日には東京で行われる、東京ヴェルディvsファジアーノ岡山の試合に出かける予定でした。試合の前後に人に会う予定になっていましたのでそのためにも準備を進めていたのですが、7月6日の雨がかなり強く移動に支障が出るかもしれない状況でした。

JR西日本によれば山陽新幹線が大雨のためたびたび運転見合わせになっており、特に広島や福岡という岡山の西のエリアで雨の影響を強く受ける状況だったようです。

そして仕事をしていた日中から夜間にかけて、ケータイにはいくつか緊急速報メール(エリアメール)が入ってきました。警戒心を喚起するけたたましい音が鳴るたびに、これはいつもと様子が違うぞという感覚を強める人は少なくなかっただろうと思われます。どんな台風が来てもどんな地震が起こっても岡山は安全でした。そんな岡山でエリアメールを頻繁に受信すること自体、大変に珍しいことでしたから。自分も「今回だってきっと岡山は大丈夫」と信じきっていて警戒意識は非常に薄かった。しかし、このたびの災害によってもはやその前提は崩れたといわざるを得ません。

倉敷市によれば、

”土砂災害の危険があるため、平成30年7月5日23時00分に倉敷市災害対策本部を設置しました。なお、7月5日23時00分現在で大きな被害の報告はありません。”

ということで、まず大雨に対しては土砂災害の危険性が警戒されていました。7月6日の昼ごろには、

”今後、土砂災害の恐れが高まるため、倉敷市では本日11時30分をもって、倉敷市内の山沿いに「避難準備・高齢者等避難開始」を発令します。”

ということでした。
土砂災害に関するエリアメールが流れたころ自宅には妻と娘(1歳11ヶ月)がいました。真備の自宅は山と小田川の中間にありますが、裏手の山は小さい山で距離もやや離れているのでまず大丈夫なはずだと思いました。しかし、2014年に発生した広島の土砂災害のことが一瞬脳裏をかすめたので不安になり、一応妻と連絡を取り注意だけはしておこうというやり取りをしました。広島の土砂災害が頭に引っかかった理由は、取引先の方で間接的に被害にあわれた方を知っていたからです。
(ご家族やご友人にお年寄りがおられる方は、
この高齢者等避難開始を絶対に無視しないでください)



2.真備町と避難所周辺の位置取り


ここで、真備町と避難所の位置を確認しておきます。真備は東に大きな高梁川、南には小田川があり川どうしが逆L字型をつくるエリアにあります。真備から高梁川を渡って東に行けば総社市や倉敷市に抜けることができ、小田川を渡って南に向かえば倉敷市に抜けることが出来ます。住宅は平野部にあり、北のほうへいけば山があるので、北へ行くほど標高が高くなります。自分たちは自宅から東にある一番最寄の岡田小学校へ避難しました。



3.帰宅そして避難の開始


7月6日の21時過ぎ、倉敷で仕事を終え真備の自宅へと帰りました。すでに道路は大雨によってところどころ冠水しており、どの道が冠水していてどの道が冠水していないのか、もはやわからない状態でした。
帰り道にやはり小田川の橋を通るので、水量を確認しつつ通過したかったのですがなにぶん暗くて見えません。正直朝の水位を見ていたのでかなり気になったのですが、車を止める場所もないので降りて確認まではしませんでした。大雨のとき、川に近づいて亡くなった方がたくさんおられたことは知っていましたから、川に近づいてはいけないという意識が働いたためです。

帰宅して風呂に入り、夕食をとりました。休みの前の晩はお酒を飲むことにしているので、夕食とともにビールを一本飲みました。
(これも判断ミスといえば判断ミス・・・)
仕事の疲労もあって思ったよりも酔いが回ってしまったのは本当に痛かった。翌日には一応東京へ向けて出かけますから、最後の準備もしておかないといけません。実は東京行きを含めて3連休を取っていたので、仕事が終わった段階で「休みだ!遠征だ!3連休だ!」というお休みモードに入ってしまっていました。その後に起こることなんて思いもよらずに。

なお倉敷市によれば、

”土砂災害の恐れが高まっているため、19時30分をもって、倉敷市内の山沿いに「避難勧告」を発令します。”

ということでした。
自分はこの避難勧告を知らなかったのですが、家族は後々の増水のことも見越して自分が帰宅した時点である程度避難準備を進めてくれていたので非常に助かりました。通帳などの特に重要なものをそろえて持ち出してくれていたのですが、このおかげでどれだけその後対応が楽になったかわかりません。仮に家が水に浸かっても重要なものさえ持って出て行けば水が引いたときあわててとりに行かなくてもいい。被災したあとは自由に動けない場合もあるので、時間的な猶予があったほうがなにかとやりやすいです。
(避難する時は中途半端はやめて、徹底した準備が必要です)

夕食をとり一杯やって自分の部屋で明日の準備を進めつつ、ネットで川の増水関連の情報収集をしていました。雨が強くなることで明日新幹線が動くのかが気になっていたのですが、妻から「場合によっては避難もあるかもしれないので外に出られる準備はしておいて」と言われたので、パジャマではなく外行きの服装に着替え、一応自宅周辺のハザードマップも再度確認しました。

するとほどなく避難勧告がでました。

倉敷市によれば、

”小田川の水位が急激に上昇しているため、
7月6日22時00分、次のとおり「避難勧告」を発令します。”

ということでした。
(避難勧告がでたら最後の通告だと思ったほうがいいです)

お休みモード、遠征ワクワク状態、さらにほろ酔いであったために非常に後ろ髪を引かれるような気持ちでしたが避難勧告はさすがに無視できません。
まだこの時は事態を甘く見ていたのですが、隣のエリアに住んでいるファジアーノサポーター(ファジサポ)仲間がSNSで言ってくれた「40年住んでいるけどこんなこと(高梁川の異常な増水具合)ははじめてみた」という一言に、ドキっとしたことを鮮明に覚えています。
どんな警報や勧告よりも響いた一言でした。
自分はもともとこのあたりの人間ではないので、現地の人がそこまで言うのであればこれはただ事ではないだろう。何十年に一度あるかないかのという出来事がすでに起こっているので、想定外のことがおきる兆候の一つかもしれない。きっと何も起こらないとは思うけど、その時は帰って遠征にいけばいい。夜中ちょっと我慢するだけだ。
そう思って眠っていた娘を起こし、財布とケータイだけはもって家族とともに車に乗り避難所である岡田小学校へと移動しました。自分は飲酒していますから運転できませんので自分の車はガレージに置きっぱなしのままです。
(家族は2、3日分の着替えを用意していましたが自分は手ぶら。
これも判断ミス、飲酒してしまった油断・・・)
自分としては浸水の被害がここまで甚大になるとは全く思っていなかったので、せいぜい夜中避難所で過ごせば明日には遠征にいけるだろう、いやそうであってほしいという期待感がいろいろと判断の邪魔をした格好です。
この時、酔った頭をなんとか動かし先のことを想像すると、小さい子供がおり、この日義理の母も一緒でしたから、長い時間避難所に滞在するとなるとちょっとしんどいかもしれないと考えました。
このとき浮かんだ選択肢は2つ。

一つは避難場所である岡田小学校へ避難する
もう一つは倉敷にある自分の実家に避難する

実家に避難すれば避難所ほど窮屈な思いはしないですむし、足を伸ばしてゆっくり休めるスペースもあるだろうという考えです。自由にできる電気がありますからケータイの充電もできるしクーラーもある。
しかし、小田川ルートは増水で近寄れませんから、真備から倉敷に抜けるには高梁川を渡らないといけません。高梁川の状態がどうなのか?道路は無事に通行できるのか?結果としては通行可能だったのですが、当然その時点で確証はありません。みんなが避難する場所と違う場所へ移動するのは心理的に抵抗があるということもあり、岡田小学校へ避難するほうを選択をしました。

ここでどこに避難するのがいいのか?という話をしておきたいと思います。自分たちの場合結局避難所を選択することになりましたが、もし避難する際に身を寄せることのできる実家や親戚、友人などのおうちがあり、安全に移動できる場合はそちらをファーストチョイスとしたほうがいいです。はっきり申し上げて避難所暮らしは過酷です。過ごしにくさが神経をすり減らし体力をみるみるうちに奪います。また避難する時点ではどのくらい滞在を強いられるか予想する事は不可能ですからいつ出られるかわかりません。あまりに避難所に人が集中するとパンクしますし、人手不足のためサポートを十分に受けられない場合も多いそうです。ハザードマップの確認とともに、災害時に受け入れてもらえるおうちがあるのであれば事前に話を通しておいたほうがいいと痛感しました。



4.岡田小学校へ避難


外に出るともちろんあたりは真っ暗で、さほど強くありませんでしたが雨が降り続いていました。妻の車に乗って避難所に向かう道中、比較的道は空いていましたが、小学校にいよいよ入るという道になると少し渋滞になっていて、自分たちと同じタイミングで車で避難してきた人がかなりおられました。渋滞中どのくらい車が入っているかわからないので、もしかしたらすでに一杯で受け入れてもらえないかもしれないと思い、違う避難場所を検索したことを覚えています。しばし待つと、列が進み小学校へ。

岡田小学校ではグラウンドが駐車場となっていたんですが、自分たち家族が到着した22時30分くらいの段階ですでにほぼ一杯になっていて、自分たちの車は出入り口に近い端っこに停めるしかスペースがない状態でした。駐車したのちも車はどんどん入ってきて、若干の出入りはありましたが車一台通れるスペースを除いてほぼ停められるスペースはなくなっていきました。

ここで、岡田小学校の位置取りを確認しておきます。

小学校はやや高台にあり、グラウンドから右に伸びている道が真正面からの入り口でここは坂になっています。左の金田一耕介像のほうにある大きな建物が体育館。駐車場はグラウンドと、入り口脇の駐車場。それとどうやら岡田幼稚園の裏手のあたりにも駐車場が解放されていたようですが、この避難所について全然知識を持っていなかったので、避難してきた段階では全く気が付きませんでした。真正面からグラウンドに入ると、入り口からしか出入りは出来ません。
(避難場所についての予備知識を持たなかったことがその後大きく影響するとは全く想像もつかないことでした)


ひとまず役所の方がおられる体育館で避難者のリストに記入し、トイレの場所を探しながらざっと学校内を見て回りました。

こうした事態においてどのくらい誘導ができるのかはわかりませんが、ある程度並んで駐車してあるもののやはり無駄になっているスペースは多かったですね。

ここで、岡田小学校の避難者に対応してくださった役所の方々についてもお話しておきます。人手不足の苦しい中非常に懸命に動いてくださって大変感謝しています。どんどんと膨れ上がっていく避難者の数や、変わっていく状況に対応していくことは困難を極めたことでしょう。本当に頭が下がります。また炊き出しなどのボランティアに来てくださった方々にもお礼を言いたくて仕方ない。中には同じように被災された方もおられるというのに。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。

避難所ではお湯を使うだけで簡単に作れる五目ごはんやおにぎりが配られていました。食べてみると案外いけて驚いたんですが、種類がなくて何度も食べるとさすがに飽きてしまうのが難点でした。飲み物のほうは水、お茶のペットボトルが豊富にあり足りないと感じることはなかったです。しかし、自分たちのように車で待機している場合、どのタイミングで食料の支給があるのかわかりません。最大で2000人ほど避難していたようですから、人手不足の中いちいち車に配って回るわけにもいかないのも当然の話です。同じころ大きなパン工場があるせいか総社のほうの避難所ではパンが配られていたんですが、味に飽きていたので正直うらやましかった。配布されたパンは非常食ではないですしね。
この食べ物の補給であったり、役所の方の人手不足が解消されなかったことは真備というエリアの難しさが関連しているのかもしれないと思いました。それについては後のほうでまたお話したいと思います。

実はこのころ倉敷市より、

”平成30年7月6日22時40分 岡山地方気象台発表
岡山県の注意警戒事項
 【特別警報(大雨)】北部、岡山地域、倉敷地域、井笠地域、高梁地域に特別警報を発表しています。土砂災害や低い土地の浸水、河川の増水に最大級の警戒をしてください”

ということで、特別警報が発令されていました。
このたびの大雨による大災害は被害地域も幅広く、岡山以外でもどんどん特別警報が発令されていたのですが、普段聞きなれない警報なので程度がよくわかりませんでした。

後々気になったので調べてみると、この特別警報は警報の発表基準をはるかに超える現象に対して発表されるもので、レベルでいくと東日本大震災における大津波と同じという、まさに最大級の警報でした。今起きている事態があの大津波と同じくらいの扱いだと理解していた人はほとんどいなかったのではないかと思います。避難所でもそのような話を耳にすることはありませんでした。
(特別警報は東日本大震災の大津波と同じレベルの緊急性)



5.車中泊


体育館には大勢の人が休んでいて、高齢者の方や赤ちゃん連れの方が教室にて休んでいました。そのほかの人たちは乗ってきた車で休んでいたのですが、自分たちも娘がいますしTVで報道も見ることが出来るので車で過ごすことにしました。車内はどうしても体温で室内温度が上がるのでクーラーをかけ、ケータイの充電器を持ってきていたので充電も。娘がまた寝ついたので情報収集を開始。車内にいながらにして外のエリアの状況や川の増水具合を調べられたり、こちらの安否を外へ伝えたり、もてあました時間をつぶしたりと、一台で何役こなしてくれるんだという活躍ぶり。スマートフォンは絶大な威力を発揮してくれました。
(スマホは絶対に欠かすことの出来ないアイテムです)
車内は手狭でしたがおおむね快適で、パーソナルスペースを確保する意味でも車の利便性は極めて高かった。かなりストレスを軽減してくれたと思います。しかし、アイドリングしているとガソリンが減っていきます。妻の車のガソリンはメモリ半分くらいでしたから、長期戦になった場合この環境を維持できなくなるのは明白でした。家を出る時、車中泊になるかもしれないと思っていたのに、給油して備えておくことまで頭が回っていなかったのも判断ミスでした。
(つくづく避難モードになれてなかったこと、
酔ってしまっていたことがこうした準備の手落ちにつながりました)

家族や友人に避難したことを電話やSNSを通じて知らせ、高梁川の増水に備えて避難をすすめるなどひととおりできることをやって車中で過ごしていると、とてつもない音が2発立て続けに鳴り響きました。

映画『この世界の片隅に』の劇中で聞こえるリアルな爆撃の音に戦慄したことがあるのですが、あれをはるかにしのぐ尋常じゃない爆発音でした。体感としてはほんの100mくらいの場所で鳴っている様な大きさでしたから、雷がすぐそばに落ちたんだ!と瞬間的に考えました。しかし、稲光やゴロゴロという雷鳴は全くなかった。ですのでこれはおかしいぞ?と思いSNSでチェックしていると、高梁川のそばにあるアルミ工場が浸水の影響か爆発したことが徐々にわかりました。爆発する様子を捉えた動画が出回り、背景の位置関係から場所の特定や原因の推測などがあっという間に進んでいく。SNS上でみんなが解明していく力はすごい。それを目の当たりに出来たのは貴重な体験でした。

そして倉敷市によれば、

”小田川の水位が急激に上昇しているため、
7月6日23時45分、次のとおり「避難指示」を発令します。”

とのことでした。
この避難指示というのは避難勧告よりも緊急性が高い場合に出されるもので、直ちに避難行動をとるか、とれない場合生命を守る最低限度の行動をとるように指示するものです。
避難指示が出たころ車の外ではサイレンの音が聞こえたり防災無線?のアナウンスがしきりに聞こえたと記憶していますが、正直車中にいても何を伝えているのか聞き取ることはほとんど不可能でした。雨も降り続いていましたし、家の中にいてあの音が果たしてどれほどの住民に伝わっただろうか、難しいところだったのではないかと感じました。
それに加え、避難勧告の時点ですら避難所のキャパは満車に近かったのに、避難指示の時点で避難を開始した人はちゃんと避難所に入れたのだろうか?と。ナビなどがなくて道に不案内な場合、避難所にたどりつくことすら難しいケースもあったでしょう。そう考えると、避難指示を待って避難していては厳しい。やはり避難勧告の時点で行動しなければ不測の事態に対応する余裕がないのではないかと強く思いました。
この点は特に強調しておきたい点です。
(避難勧告は最後の通告だと思って避難したほうが絶対にいいです)



6.小田川の氾濫と高馬川の堤防決壊


※専門家ではありませんので川の氾濫および堤防の決壊それに伴う水の流入についての正確な説明は専門的な記事に委ねます

7日午前0時30分、岡山河川事務所、岡山地方気象台によれば、

”小田川では、倉敷市真備町箭田付近において氾濫が発生しました。(レベル5) 直ちに、市町村からの避難情報を確認するとともに、各自安全確保を図るなど、適切な防災行動をとって下さい。”

ということで、ついに小田川が氾濫してしまいました・・・
22時の避難勧告の時点でどうやら川の増水がヤバイぞという認識を持っていたのですが、ついにあふれてしまった。

もちろんどのエリアからどの程度水が入ってきているのか全くわかりませんから、とにかく家が浸水しないことを祈るしかない状態でした。なんとか軽い被害ですまないか?と何度も思ったんですが、この深夜から明け方にかけてもう一度大雨の波が来るという話を聞いていましたから、小田川の水量が減ってくれる可能性は低いだろうと。自分は甘く見ていてケータイと財布だけしか持ち出していませんでしたから、家に残してきたものはこの時点で水に浸かることを覚悟しました。ほんとに被災者になってしまった・・・
この時までは周囲を観察する姿勢も土産話にでもなればいいかという程度だったのですが、自分が被災者になってしまうのであれば話が違ってきます。”災害のない県岡山”で被災者となるのですから、これは真剣に記憶しておかないと、と姿勢を改めたことを覚えています。
(観察を残しておきたい場合、SNSでその時その時わかった事を投稿しておくと、あとあと振り返ったとき整理しやすいです)

1時30分、さらに倉敷市によれば、

”高馬川の堤防が越水し、小田川の水が北方向に流れ込んでいるため、7月7日1時30分、次のとおり「避難指示」を発令します。”

ということで、小田川に注ぐ高馬川という小川が越水(のち堤防決壊)し増水した小田川の水が真備に流れこむ事態となってしまいました。


高馬川と小田川の関係を地図で見てみます。

まきび支援学校の横の川が高馬川で、北から南へ流れて小田川に注ぎます。
自分の家が浸かるかもしれなくなった小田川の氾濫はこの高馬川よりもやや西のエリアです。まず西で水があふれ、少し東で堤防決壊が起こったという順序のようです。

さらに言うと時間は不明ですが(発見されたのが朝の6時50分ごろのため)高梁川と小田川の合流地点から3キロ登ったあたり(川辺宿駅の南あたり?)で、100メートルにわたって堤防が決壊しており、小田川の逆流によってたまった水がすごい勢いで流れ込んでしまったようです。

ですから、真備の市街地に小田川の水が流れ込むことになったのは西から順に氾濫、高馬川堤防決壊、川辺宿駅南あたりでの堤防決壊と計3回おこっていたようです。ちなみに、最後の堤防決壊について自分は全く知りませんでした。あとで実家に避難して報道で取り上げられているのを見て初めて知った次第です。

小田川の水が真備に流れ込んでいることがわかった1時30分の時点から、避難所を脱出して安全な親戚の家へと移動するまでに最も知りたかったことは3つありました。
1.水がどこから来ているのか?
2.水がどこまで来ているのか?
3.どの道が安全に通れるのか?
この情報があるかないかで動き方がまるで違ってしまう。しかし脱出するまでこの3点について正確な情報を得ることはかないませんでした。

車の中では全く眠れません。仕事の疲れもあるはずなのに神経が高ぶっているせいか眠くならないのです。狭い車中で思うように足を伸ばせないこともかなり影響しました。夜中じゅうエリアメールの音がなりますし、カーナビのTVをつけていると特別警報のアラート音もたたみかけるように鳴ります。そのたびに車中でビクッとなるのですが、とても落ち着いて寝られる状態ではありませんでしたね。消そうかとも思ったのですが何か情報が入ったらと思うと気になってしまい、音を絞って流しっぱなしにしていました。

車中ではずっと座りっぱなしでしたからエコノミー症候群に注意しないといけません。奇しくもロシアW杯の開催中でしたが、かつて日本代表であった高原直泰氏がエコノミー症候群で日韓W杯に出場できなかったことを思い出しました。SNSではベルギー対ブラジルの試合に沸いていましたが、バッテリーが心配で見れませんでした。どんな面白い試合だったのだろう?サッカー見たいなぁと、そんな風にふとサッカーのことを思い出すと、もう遠征どころの話ではなくなってしまったなと。大変なことになってしまったなと呆然とする思いでした。酔いはとっくにさめ、完全に避難モードに切り替わっていましたが、家を出る前に酔わなかったら、最初から避難モードになれていたら、もう少しいい判断ができたかもしれないと後悔しました。幼い子供と年をとった義母がいて、そう長いこと窮屈な滞在を強いられるわけにはいきません。なんとかしないといけない。そんなことを思いながら夜を明かしました。



7.朝、情報収集へ


高台に避難した人がSNSにアップしてくれた画像や動画で、小学校から西のエリアで相当浸水している様子が伝わってきました。夜が明けたこともあり雨も小雨になっていたので、周囲の様子に十分注意しながら小学校から外に出て情報収集に出かけました。気温は低く風が少しあって半そでではやや寒いくらいだったことをよく覚えています。

岡田という小学校周辺のエリアでは避難している人はあまりいないようでした。駐車場には車が停まっていましたし、早朝でしたが家の電気もところどころついていました。この時点では危険を感じる人は少なかったのでしょう。水が入ってきているのは小学校から西のほうなので、西に向かいつつ大通りのある南へと歩いてみました。通りかかった田んぼの用水路はことごとく激しい流れになっており、あぜ道は増水して道が消えてしまうところも。危ないところは避けて舗装された道を通り、ようやく大通りが見える地点に到達しました。そこで撮影した写真がこちらです。

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手ブレでぼやけていますが茶色くにごった水がここまで達しているのがわかると思います。周辺を車が走っていましたが道によってはこのような状態になっていてとても通れる状態ではありません。
同じ地点から大通り方面を撮影した写真がこちらです。

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この写真では遠いのでわかりませんが、右奥にミナモト医院という病院の看板が見えました。さらに奥には警察?消防?の大きなバスのような車両が停まっていましたが、おそらく危険を喚起するためだろうと思いました。あのあたりは明らかに水が来ていてとても近づける状態ではないと感じましたが、それでも水浸しの道路を奥へつっこんでいく車も何台か。しかし、膨れ上がった水に阻まれみんなUターンしていきました。周囲ではサイレンがあちらこちらから聞こえ、これ以上は危険なので小学校へ戻りました。ちなみに撮影したポイントは地図ではこのあたりです。

最初の写真がこの交差点から左(西)に向いて撮ったもの。
2つめの写真はこの交差点から下(南)に向いて撮ったもの。
地図を引いてみていただくとわかると思うのですが、この地点は報道でも大きく取り上げられたまび記念病院裏手のすぐそばです。朝6時の時点で水はこのくらいのエリアまで来ていました。

小学校にもどりスマホで情報収集を再開。あわせてSNSを通じて各方面に現状を報告しました。とんでもないことが起こっているのは十分に理解していましたがなにぶん自宅を見ていませんし、現実感がなくてピンとこない状態でした。それに加えて完全に避難モードに切り替わっていたので不思議と冷静になれました。


朝になって岡田小学校にさらに避難してきた人が増えました。

もともと満車状態でしたがさらに車を詰めていったので出入り口周辺のグラウンドは車でいっぱいに。自分たちの車も出入り口の近くに停めましたが、朝の時点で四方を車で囲まれる格好となり、これでいよいよ車が完全に動かせない状態になってしまいます。なお、朝から昼にかけては動かせるところに駐車した人が車で小学校から出て行くのを何度も見かけました。



8.朝から昼にかけて


この日も雨が降っていましたが、かなり勢いは弱まっていました。雨天で気温も上がらず風もあってすごしやすいコンディション。朝になるとSNSや報道で浸水した町の様子が徐々に伝わってきましたが、やはり気になるのは自宅がどの程度浸水しているか?です。浸水した町の様子をとらえた動画や画像を片っ端から見て、なるべく近所を映した映像を探しました。ちょうど自宅から30mほどのところの映像が見れたのですが、やはり2階まで水が達していることはほぼ間違いなさそうな様子。
覚悟はしていたので、仕方ない。

夜中アイドリングをしていたのでガソリンがかなり減ってきていました。当初は一晩我慢すればと思っていましたが、水がだいぶこちらに迫ってきていましたから、もしかしたらまだだいぶ時間がかかるかもしれない。ずっとアイドリングしていてはきっとガソリンが尽きてしまうことでしょう。そうなるとクーラーはかけられなくなります。ケータイの充電は最悪教室のコンセントを借りれば何とかなんとかなりそうでしたが、クーラーはありません。これからの日中、いくら雨天とはいえ真夏の七夕です。長期戦になった場合を考えるとセーブしないといけません。
(給油しそこなった準備ミスはこうして響きました)
そこで、車を出て外で待機することに。体育館はもう人でいっぱいでしたし、教室もあいているところはないとのことでした。仕方なく、靴箱のところや教室の廊下に座りしばらく過ごすことにしました。
車から開放された娘は元気にそこらじゅうを走り回ります。

体育館なんかに行かせたらうるさいし、寝ている人の迷惑になるのは間違いない。しかし、娘もストレスを感じるでしょうから広いところがいい。でも彼女の後を追い掛け回さないといけない。頭ごなしにしかりつけるわけにもいかないし、なかなか大変でした。可愛かったですが。
娘は翌々日の7月9日が誕生日です。もうだいぶしゃべりますし物事も少しはわかるので、今年はしっかりとした誕生日をしよう!と夫婦で決めていました。真備のケーキ屋さんで大好きなアンパンマンのケーキを2ヶ月前から予約していましたが、おそらくケーキ屋さんもこの災害で被害を受けているのは間違いないでしょう。なんとか誕生日を祝ってやりたいですがこの状況です。ここからでられるのかもわからない。ほんとどうなってしまうのか。なんとかしなければという思いが募るばかりでした。



9.岡田小学校前面封鎖


朝6時に情報収集してからしばらく経ったのでもう一度外の様子を見てみようと思いました。やはり水が気になりますし、周囲の情報はなるべく持っておきたい。そういうわけで小学校の正面を降りていった時撮影した写真がこちらです。

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なんと朝は何の問題もなく歩けた小学校の前の道が、坂を下りたところで水浸しになっていて封鎖されていました。強引に突破して軽トラックが一台ここを抜けていきましたが、あの時だいたい車輪がすべて水に浸かるくらいの水かさだったと思います。たった6時間半でここまで水が来ているとは全く予想していませんでした。
これには動揺しましたね・・・
まさか小学校までは上がってこないとは思いますが、なんとも不気味な水の伸び具合です。車はもう動けませんのでどのみち車では出られませんが、万が一のことも一応考えておかないといけない。
万が一をすでに体験してしまっただけに。

やはり知りたい情報は水がどこから来てどこまで来ているのか?ということでした。それを知るには空から見るしかない。ヘリは飛んでいますがもっぱら救助用であろうと思われます。現地では情報がないですし、どう動いたらいいのかわからない状態でした。記憶している限り小学校においては役所の方から校内放送でなんらかのアナウンスが放送されることはありませんでした。2000人ほどまで膨れ上がった人に対応するのに忙しかったと思いますし、人員が増員された様子もなさそうでした。

倉敷市は避難状況を随時発表してくれています。それを見てみるとよそのエリアはかなりはっきりとした避難者の数が集計されているのですが、真備の避難所はどこも集計がなされていません。ようやくはっきりとした数がではじめるのが翌日7月8日の朝8時のことです。おおよその数ではじめて発表されたのが7月7日の15時のこと。それまではおそらく作業がおっつかなくて集計できなかったのではないか?と思います。小学校前面が水で封鎖されるまで、人の出入りはかなりありましたし、外に出てもいいですよとか出ないでくださいというアナウンスも特にありませんでした。もしかしたらそういうものなかもしれませんが、避難所がリードして避難者をガイドするような雰囲気ではなかったです。

最初のほうで真備町の位置取りの話をしましたが、真備は2つの川が逆L字型になったところにありますから、外から真備に向かうには必ず高梁川か小田川を越えなければなりません。仮に外から人手を送る段取りになっていたとしても川を渡らないと行くに行けない状態です。

高梁川の氾濫の可能性もありましたから夜中に真備に渡ろうとすることは不可能だったことでしょう。真備エリア全体がいわば川と川で閉じ込められた孤島状態であったのではないか?と思います。明けて朝になったとしても川の状態や道路の状態を確認してからでないと安全とは言い切れない。そういうわけで物資や人員を外から送り込むことがおそらく出来なかったのではないか?と。繰り返しになりますが、あの時避難所で動いてくださっていた方々は冷静に真摯に対応しておられました。彼らにあれ以上のことを求める気持ちは全然ありませんでした。

ここで、情報についてお話しておきたいと思います。
水がどこから来てどこまで来ているのかが一番知りたいことだと述べましたが、避難所にいてそれを知りうる最も信頼できる情報はなんだったと思いますか?答えはあまりにも皮肉なのですが、SNSにアップされる救助を求める叫びです。救助を求める方の投稿には居場所を知らせるための住所と、水がどのくらいまで来ているかという緊急性を伝える内容がセットで記載されていることがほとんどです。その住所から位置を割り出し、川の方向からどのくらいの位置でどのくらい水が来ているのかを推測するとぼんやりとは水の動きがわかるようになります。こちらは命の危険についてさしあたって感じるレベルにないので、そういった投稿を参考にするのは非常に心苦しいものがありましたが避難所にいて空撮写真も見れない状況では、もうほかに頼れる情報源がないのです・・・・

そしてその救助を求める叫びについて気がついたことは救助を求める人の年齢です。かなりの割合で高齢者の方が含まれているということです。

若い方がひっぱっていけるならば大丈夫だと思いますが、高齢者の方はおそらくあまり移動したことのない避難所へ、しかも真っ暗な夜中に雨の降る中移動することに対して抵抗のある方が多かっただろうと思います。水は2階までは来るまいと自分たちも思っていたくらいですし、見通しが甘いところも影響したと思います。そして、終の棲家と決めた家にもしなにか起こるのであればもういっそと思われる傾向は案外強いと感じました。避難所で見かける方のうち高齢者の方はわりかし少ないように見えましたが、中ではちょくちょくそういう話も聞きましたした。ですから仮に付き添う方がおられるところであっても、避難を拒み2階にとどまることを選ばれた方も少なくなかったのかもしれません。違うエリアで避難した友人も、祖母の説得に大変時間がかかったと言っていました。
(高齢者等避難が発令されたらお年寄りの避難をはじめたほうがいいです。物理的にも心理的にも避難に時間がかかる場合があります)


10.岡田小学校脱出計画1


昼を過ぎるとさすがに真夏ですから曇っているとはいえ暑さを感じました。少しウトウトした程度でほとんど寝ていませんでしたが、疲れや眠気をさほど感じなかったのでここで決心して動くことにしました。このまま2日3日と避難所で過ごしていると、家族全員が疲弊しきってしまう。仮の形であってもなるべく早く衣食住の足りた人間らしい暮らしに落ち着きたい。もしかしたらこのまま待っていてもジリ貧かもしれない。夜になっては地理に明るくない場所をうろつくこと自体危険ですし、さすがに疲れてしまって動くに動けないだろうと。動くのであればまだ余裕のあるうちに動いておかないとチャンスはなくなってしまう。幼い子供と疲れきった義母もいます。歩くにしても悪路は難しい。そしてそう遠くにはいけない。近場で、安全で、車で来れるポイントを見つければ外から迎えに来てもらってここを脱出できるかもしれない。そう考えて、まずは脱出するルートを探しました。

総社大橋というのは高梁川にかかっている大きな橋で真備から東の総社市に抜けるときに通る橋の一つです。地図で位置を確認してみます。

地図を引いてみていただけると左下のほうに岡田小学校があります。橋と小学校の大体の距離は3キロほどでしょうか。橋まで歩かなくとも道が安全であれば橋を渡ってこちらまで来てもらい合流地点でピックアップしてもらえばいいと考えました。そこでまず総社大橋が安全に渡れるかどうかを確認するため呼びかけてみたところ、ファジサポ仲間から13時05分の段階で渡れているみたいだという回答をいただきました。(しかも橋の上から撮影された写真つき!すばらしい!)これで総社大橋まで行けば総社市へ抜けることが可能であるということがわかりました。これは大収穫でした!

そうなると岡田小学校から総社大橋までのルート上でどこか合流地点を見つければよいということになります。あまり時間をかけたくないので最短距離で行くには小学校の北から出発して山沿いを進むルートしかありません。小学校の北側の地図を確認しておきます。

小学校からスタートして右上のマビ昭和館のほうへ向かえばその先に総社大橋があります。最短距離でいくならこのルートだなと思い定め、小学校の中を探して、歩いて北側から出られるかチェックしました。すると、校舎の裏の道に抜けられるようになっていて真正面に溜まっている水を避けて出られることがわかりました。
よし、ここからいこう!そう決心して、妻に抜け道を探してくること、安全な合流ポイントを探せば迎えに来てもらえることを伝えると、非常に心配そうな顔をしていましたが絶対に無理はしないと約束しました。こうして小雨の降る中傘をさしてルート探しに出発しました。

裏手に回って岡田幼稚園を通過する際、北側にあった駐車場をそこで初めて見つけました。そこも避難者の方が利用していたようですが、もし最初からこの駐車場に車を停めていれば、正面(水が溜まっているほう)か裏かどちらに抜けるか選べる位置関係でした。
(避難所についての知識不足はこういう形で現れました)
出だしからショックを受けるスタートとなりましたが、今となっては落ち込んでも仕方のないこと。このルート探しは時間との勝負ですから、早足で先へ。

このおりん像のピンが刺さっている大きな道と自分が来た道との交差点のところを右折して東へ向かおうとすると、通りががったおじさんが「あっち(東)ほうは水が来とって通れんよ」と教えてくれました。
これには心底驚きました。
確かに小学校の前まで水が来ていましたがすでにそこまで来ているとは思いもよらない事実です。もし想像以上に水がどんどん山のほうへ向かっているのならこのプラン自体の安全性が揺らいでしまう。しかし、引き返すわけにもいきません。土砂崩れの警報がすでに出ていたわけですから山の近くを通るのは若干の不安を感じましたが、山際を進んでいくとこのエリアの方々は避難しておらず車も移動していませんでしたので大丈夫かなと思い先へ進みました。ちょくちょく車も通過していましたし、警察のパトカーも細い道を通って東へと向かっていました。
これはいいぞ!
避難してきて初めて希望を感じた瞬間でした。パトカーが通るということはこの先安全な道へとつながっている可能性も高いだろうと。もしかしたら安全な合流地点を見つけられるかもしれない。

出発から2,30分ほど進んだでしょうか雨脚がまた強くなって来ました。もう少し先に進んでみるとウーーーーッというサイレンが聞こえ「高台に避難してください」という無線の音が辺り一体に鳴り響きました。
・・・絶句でしたね。
山際のやや高い道から南の田んぼのほうを見てみると茶色い水が溜まってきているのが遠くに見えました。それが川から流されてきたものなのか、田んぼや用水路の水があふれたものなのかはわかりません。しかし、避難を告げるサイレン、目で見てわかるところに来ている水。自分ひとりならダッシュして抜けられたかもしれません。しかし、ここから戻って家族を連れまた歩いてここまで来たとして、水が悠長に待ってくれるとは限らない。仮に間に合って抜けられたとしても、その先がまた安全かどうかも全くわかりません。もし戻るも進むもできなくなったらどうする?避難所よりもはるかに劣悪な状況で孤立してしまうかもしれない。それはもう二次災害のレベルでしょう。あまりにもリスクが高すぎる。
これは・・・ダメだ・・・。



11.岡田小学校脱出計画2


トボトボと落胆しながら来た道を戻ると、どっと疲れを感じました。しかし、諦めきれないものですね。避難所を抜け出す別のルートはないものかスマホで地図を見ながら小学校周辺を調べながら帰りました。朝自分の目で確認したとおり小学校の西のほう(自宅方面)は水が流れ込んでいることを知っていますから、やはり西に出るというアイデアは考えにくいんですよね。しかし、一応確認しておいたほうがいいだろうと。それでダメならもう仕方ない。やれるとこまでやっておくかということで、ふたたび情報収集しながら小学校へと戻りました。

県道80号というのは先ほどの総社大橋につながっている道で、真備から山の合間を縫って北に向かうとぶつかる道です。その合流地点に新本(しんぽん)郵便局があるのですが、小学校から西に出てそこから北上して新本郵便局まで通行できるならば、この道を通って総社大橋を越え総社市へ抜けるというルートが出来ますから、そのうちどこかに別の合流ポイントを設定できるのではないか?というアイデアです。

落胆と疲れで発言が気弱になり、少しいらだちも混じってきました。本当に確かな情報ほどありがたいものはありません。とにかく、安全な道、水の動き、この2つさえわかればいい。だから勝手ながらドローンなんかで道をチェックしてくれたらめちゃめちゃ助かるのになと思っていました。(ドローンは雨天では飛ばせないことを後々知りました)

もしここで新本やあるいは80号線の近くに住んでいる方から80号線の安全性についての情報をもらえていたら後は小学校から出られるかどうかを調べれば、岡田小学校脱出計画は一応見通しが立ちます。小学校にもどると妻に戻ったことを告げずにそのまま、小学校の西の出口を探しに行きました。

体育館の北側の通路を通ると、奥のほうでは北に抜けられるようになっていてとなりの真備ふるさと歴史館とつながっていました!つまり、ここを抜ければ西側に抜けられるので、後は道の安全性しだいでは新ルートが使えるかもしれない。しかも、小学校の前まで水が来ているのに、不思議と西側には茶色くにごった水がほとんど来ていません。どういうわけかはわかりませんが、水はこちらに来ていない!再び希望が見えてきました。
諦めないでよかった!

真備ふるさと歴史館のほうへ出てみると、何人か人がいて駐車場に車がたくさん停まっていました。そして、その中には市役所?の車もあったように記憶しています。先の計画でパトカーを見つけた時と同じで、もしかしたらこの市役所の車も外からここまで来たのかもしれない。そうであれば、ここから外に車で抜けられる可能性もでてきます。足取り軽く小学校に戻り、家族のところへ。停めている車の鍵を役所のかたに預け、連絡先を伝えて車をここに残し、小学校を出れば迎えに来てもらって脱出できることを伝えました。

次に迎えをお願いする段取りを始めました。こういったことを他人に頼むのは非常に気が引けます。となるとやはり家族なのですが、おそらくこの岡田小学校近辺まで来たことのある家族はだれもいません。ですから知らない道を通ってスムーズに来れる人となるとかなり限られてします。運転が信頼でき、道にも迷わずにここまで来れるとなると頼めるのは自分の弟しかいませんでした。弟に連絡すると幸い夜勤が終わり帰宅する前で、動ける状態だということだったので事情やルートを説明し、合流ポイントまで来てもらうように頼みました。

しかし・・・・ここで大きな不安が心の中で渦巻き始めます。

確かに小学校西から抜けるルートを通れば総社大橋までたどり着けるかもしれません。しかし、その際に通る県道80号線は安全なのか?その確認ができていません。SNSで流れてきたほかの地域の川の映像の中に道路崩壊してしまった様子をおさめた動画がありました。川が増水して流れが加速し岸を削ってしまうことで、道路を支える地盤が空洞化し道路自体が崩れてしまう現象のようです。県道80号線は新本川という川のそばを通ります。自分もあまり通ったことのない道なので、どういう状態なのか全く想像がつきません。あらかじめ県道80号線の安全性をたずねてはいましたが、こちらは先ほどの橋のときのような確実な情報は得られませんでした。ほかの避難者の方にも聞いてみましたが、やはり情報はない。仮に聞けたとしてもその情報を鵜呑みにしてよいものかどうか。しっかりと根拠のある情報でなければいけません。

もし、県道80号線が新本川に削られて道路崩壊を起こすような状態だったらどうする?自分は弟を死に追いやってしまうような無茶な頼みをしようとしているのではないか?弟の乗る車が崩壊する道路に吸い込まれていくイメージが何度も何度も頭に浮かんできます。急速に不安な気持ちでいっぱいになりました。弟は兄の頼みを聞いてこちらに向かっている最中です。もし弟が死んでしまったら両親に合わせる顔がありません。うまくいくかどうかわからない。そんなバクチに弟の命を賭けるのか?

そんなの無理だよ・・・・

道路の安全性に確証が得られない時点で、このプランは詰み。
弟に再度連絡し、迎えに来てもらうことはやはり危険なのでおとなしく待つことを伝えました。

こうして2つめの脱出計画も破綻しました。
さすがに歩きつかれたことと、再度の落胆でぐったりしました。妻に迎えの計画を断念したことを伝えると、かえって安心した様子でした。自分が離れて行動していたので心配していたのでしょう。娘の相手をしながらぼーっとしたり、避難所の様子を見つめているといろいろな人がいました。もっぱらの話題は浸水被害についてです。そして先行きの不安。子供たちはボール遊びをしたり走り回ったりしていましたが、疲れた大人たちとのコントラストが浮き彫りになっていました。これが避難生活の光景か。なんだかすっかり被災者になってしまったな・・・。そうすると、近くで電話していた方が新本のほうも通れないらしいと会話の中で言っているのが耳に入りました。伝聞での情報ですからその情報も正確かどうかはわかりません。でも今になってはどちらでもいいことです。すでに2つ目のプランは断念して避難所に残ると決めたわけですから。そう思うと弟を危険にさらすような無茶な考えに弟を巻き込まなくてよかったと安堵しました。ここでじっと待っていれば、最悪命を落とすことはないだろう。もうそれでいいじゃないか。
やれるだけのことはやったじゃないか。
疲れきった義母と走り回る娘、眠れない夫婦、一体どのくらい待てばここから出られるのか。いつもと同じようになんて望まないから最低限でいいから人間らしい生活に戻りたい。そう思うと暗い気持ちになりました。

汗をかいたことと雨にぬれたことで服は濡れていました。着替えたいけど着替えは持ってきていない。気持ち悪いけど我慢するしかない。

手持ちの食料もほとんど食べてしまっていて、あとは支給される食料を頼るのみでした。支給を受けた避難者の方が手に持っていたのはあの非常食の五目ごはんでした。食べれるだけありがたいんですが、味に飽きてしまっていました。パンでもなんでもいいから違うものが食べたい。

なにかを我慢しなきゃいけなくなるたびに、「どうしてもっといい準備をして、いい判断をしなかったんだ。なにやってたんだよ俺は」という後悔の念が波のように押し寄せます。することがないので再び小学校正面の水の様子を見に行きました。万が一水が上がってきて校庭が浸水した場合、グラウンドに停めた車までダメになってしまう。その時撮った写真がこちらです。

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あれからおよそ2時間10分が経過しましたが、その間で水量はかなり増えていて、もはや強引に突破すれば車が水没してしまうレベルまで水位が上昇してきています。そして、このことに気がついて見に来る人も2時間前より増えました。SNSでは小学校に近いエリアの人が救助を求める声が増えていましたが、これを見ればそれも合点がいきます。小学校へ戻ると昼の食料の支給が校舎の中で始まっていて、すでに長蛇の列が出来ていました。



12.一生忘れない妻の顔


後々およそ2000人の避難者が岡田小学校に避難してきたことを知りましたが、この食料を求める列の長さを見てかなり人が増えていたことをその時はじめて実感しました。列に並んでいるとほかの被災者の方々の会話がどうしても耳に入ってきます。
「誰かボートをお持ちの方はおられませんか?おばあちゃんが・・」
「○○ちゃん!ここに逃げとったん!?よかったぁ」
「この先どうすりゃええんじゃろ。まあみんなお互い様なんじゃけどな」
列の進み具合は非常にスローペース。疲れも空腹もありますし待っているだけでみなさんイライラしたはずなんですが、真備の人はあたたかいし、辛抱強いなあと思いました。あくまで自分が見た範囲内での話ですが、岡田小学校にいる間けんかとか口論とか全く見かけませんでした。殺伐とした雰囲気は全くなく、どことなく痛みを共有したもの同士のお互い様の空気感が感じられました。どなたも見知らぬ方ばかりでしたがふとしたきっかけで会話を交わす時にそれを一番感じました。中にはやはり小学校から外へ出たい方もおられて、会話の中でちょくちょく小学校の前の水のことが出てきます。

現地で正確な情報を持ちえた人は非常に少なかったはずです。みんな小学校にいてスマホで情報を得ていたでしょうから、たどりつける情報のレベルにそこまで大きな差はなかったことでしょう。もし、この時の小学校の前の水の件が変な伝わり方をしたら、と思うとちょっと怖いですね。

SNSを見ていると徐々に行くはずだった東京ヴェルディ戦の話題が増えてきました。Jリーグではだいたい試合開始の2時間前にスターティングメンバーが発表されます。ですので、いつもであれば2時間前のスタメン発表あたりから試合モードに入ってどんな風になるかな?と考えたりするのが楽しいのですが、この日は18時キックオフでしたので16時あたりにはきっとスタメンが発表されます。東京に向かったファジサポ仲間からはこの災害で来れなかった大勢のサポーターのために戦ってくるという声がたくさん聞こえました。まさか行くはずだった自分がこのような形で”来れなかったほうのサポーター”になるとはなあ。自分が応援しているファジアーノ岡山は絶不調の底にあったのですが、前回の試合で復調の兆しが見られました。果たしてその回復曲線を上にもっていけるかどうか?大事な試合となりそうなのが、この東京V戦でした。いや、ほんとに行きたかったな・・・

列はなかなか進みません。今回の支給もパッケージを見る限りいつもの五目ごはんかおにぎりかの2択のようでした。またあれを食べるのか・・・しかし、動いたせいかかなり空腹になってきています。贅沢を言える状況ではありません。30分くらい待ったでしょうか、ようやく先が見えてきました。どうやら五目ごはんを温めるお湯が必要なようで、それを沸かすのに時間がかかるので列がなかなか進まないようでした。娘には五目ごはんよりおにぎりがいいかな?と考えていると、支給を受けて五目ごはんを持って帰る方が「あ、これドライカレーじゃ」とこぼしました。
五目ごはんじゃないのか!!
これは俄然楽しみになってきました。まず味が違うことがめちゃめちゃうれしい上に、非常食のドライカレーなんて一体どんな感じなのか食べてみたいではないですか。五目ごはんも単に食べ飽きただけで、非常食にしてはかなりいけましたから、味のクオリティは期待できる。思わぬワクワクに久しぶりに元気が出てきて列に並ぶ苦よりもドライカレーを早く見たい楽しみが勝ります。ようやく前の人が支給を受け、さあ、次は自分の番だ。娘にはおにぎりを、大人には量が多いドライカレーをお願いし出来上がるのを待っていると、妻が急いで駆け寄ってきました。

あの時の妻の顔はおそらく一生忘れることはないでしょう。
安堵感と感謝の気持ちが入り混じった泣き顔でした。

もうごはんは大丈夫だから遠慮して戻ろうというのです。わけを聞いてみると妻の妹が最寄の安全なところにいる義父の実家に連絡を入れてくれたそうで、そちらの親戚が自分たちが岡田小学校に避難していることを知って駆けつけてくれたというのです。親戚の方は必死に妻や義母にケータイで連絡をとろうとしていてくれたそうですが、電波の状態が悪いのか外から電話をかけてもよく聞こえなかったり、途中で切れてしまう状態でした。まったく思いがけない迎えがやってきてくれた!これでここから離れて人間らしい生活に戻れる。肩の荷が下りたような安心感と解放感。
ああ・・・本当によかった。

親戚の方に深くお礼を言ってどちらからこられたのかたずねると、やはり2つ目の脱出計画のルートとおなじく県道80号線から新本を経由して真備に入り、小学校の西に至る道筋でした。こちらからは安全が確認できず断念したルートでしたが、そちらの方面に詳しい方はあのあたりが安全かどうかは容易に確認できます。安全な情報を持っている人だから通ってこれたというわけです。

妻も義母も泣いていました。疲れと不安、そして緊張感から一気に開放され感情があふれ出します。小学校の西に出てみると、先ほどまでは全く気配を感じなかった水が、いつのまにか近くの田んぼまで入り込みあふれそうになるほどでした。結局水との勝負は西も東も時間勝負だったのかもしれませんね。快適に進んでいく車の車窓から見える景色は忘れられません。道のそばを通る川は増水していましたが氾濫しておらず、危険を感じるレベルではありませんでした。道路も冠水していませんでしたし、問題の県道80号線もまったく通行に問題がなく、多くの車が行き交っていました。
自分は不思議と晴れ晴れとした気持ちでした。自分が問題を解決したわけではありませんが、自分なりにやれるところまでやったことがまるっきり無駄ではなかったように思えて疲れがかえって心地よかった。娘は妻に抱っこをせがんでいました。こうしてありがたいことに自分たち家族は岡田小学校を抜けひとまず安全な家へと移ることが出来ました。


今もなお避難所生活を余儀なくされている多くの方々のことを思うと、わずかですが避難所滞在経験したものとして涙をこらえれられません。あの窮屈な生活から一刻も早く落ち着ける場所で安心して休まれる時が来ることを心からお祈り申し上げます。


13.サッカーとともにある暮らし


親戚のお宅についてお風呂に入らせていただき、汗まみれの娘を洗ってやりました。自分は着替えを持ってないので一式お借りし、扇風機に当たって涼んでいると本当に生き返ったような思いがします。
娘の相手をしているとそろそろ18時。遠征に出かけて観戦する予定だった東京ヴェルディ戦が始まります。

ケータイのバッテリーが少なかったのでSNSでのファジサポさんの実況を見ていますとどうやら先制点をとった模様。チームは本当に復調しているのかもしれない。

大雨の影響で”来れないやつらの分まで”がんばってチームは見事な勝利をあげてくれました。実に7試合ぶりの勝利。岡山に大きな大きなエールを送ってくれました。翌日、自分の実家に戻って休みながらこの試合を見たのですが、

もしかしたら本当にここから再上昇してくれるかもしれない。調子がよかったころの強さを取り戻したような美しい勝利でした。忘れられない試合というのは長くサッカーを見ているといくつか出くわしますが、これは格別です。一生忘れられない試合になるはずです。

そして夕食を頂ましたが、晩御飯のおいしいことおいしいこと。今度は安心してビールを頂くと酔いと疲れがどっと押し寄せ、21時には眠りました。広く涼しい部屋で、家族そろって、思う存分足を伸ばして眠る。思えば、30分ほどうとうとしただけで1日半寝ていません。泥のように眠り、目が覚めると朝の4時でした。家族はまだ眠っていましたがすることがないので記事を一つ書き、横になったまま朝を迎えました。
『被災者となって』 https://note.mu/zerofagi/n/n194931515aa0


朝になって弟がこちらまで迎えに来てくれました。
やはり肉親の顔を見るというのは言葉にできない安心感があります。
弟の車に乗って実家へ。・・・ようやく避難は終わったんだな。
実家に帰って両親に無事な姿を見せられてほんとうによかった。

7月6日から7月8日にかけての3日間。
自分が体験した避難の物語はこれでおしまいです。



今回の災害をあらためて振り返ってみて、結局これは一体どういうことなのだろう?どういう結論を出せばいいのだろうと考えました。
自分は避難者そして被災者という立場でどうだったろうか?と。また会社の上司や別の県の市役所に勤める友人など異なる立場の人に今回自分が経験した事を話して意見を求めてみました。
そうして浮き彫りになってきたことは、誰々が悪かったからこうなったんだというレベルの話じゃなくて、きっと岡山のいろんな立場の人たちそれぞれがそれぞれに甘かったんだなということでした。つまり、これは岡山全体としての失敗だったのではないかというのが自分がたどり着いた結論です。
聞けばより災害の多いエリアにある会社や役所はやはり苦難を乗り越えてきたノウハウが蓄積されているそうです。そして次に備えた準備や必要な練習がやはりちゃんと積み上げられている。そしてそれは避難者も同様で、たとえば自分がやらかしてしまったいくつかの判断ミスもそうですがやはり意識を改める時が来ているのではないか?そうした認識を共有し、二度とこのような災害による被害を出してはいけない。そうでなければこのたび犠牲になられた方々に対しても申し訳がたたないのではないか。
岡山は変わらないといけない。それぞれがそれぞれに、それぞれの持ち場で。自分はそのような結論に達しました。


話は変わりますがこれまでのお話の中にもあったように、避難していた時にもちょくちょくサッカーのことを考える時間がありました。我慢しないといけないことや不安なことばかりでしたが、ふとサッカーのことを考える瞬間だけは目の前の現実から離れて頭と気持ちをリセットできました。ちょうど気持ちよく泣けた後のような、すっきりとした気持ちになることができて本当に助かりました。思い返せばファジサポのみならず、サッカーで繋がった全国の人からたくさんの励ましや救いの手を差し伸べていただきました。ほんとうにほんとうにありがとうございます。その話を妻にするたび夫婦で泣いております。
サッカーファミリーという言葉がありますが、今回ほどそれを強く感じたことはありません。ドーハの悲劇で出会ってからこれまで、このスポーツを好きで本当によかった。


サッカーを心から愛しています。
そしてきっと死ぬまでそれは変わらないことでしょう。
壊れてしまったサッカーのある暮らしが元通りになるには何年もかかるかもしれません。しかし、絶対に取り戻す決意を固めました。
いつか、どこかのスタジアムでお会いしましょう。



さて、この手記もおわりになってきました。
その前にこれからの暮らしのこととお願いについてお話させてください。

家は2階まで浸水しており、中はぐちゃぐちゃに散乱し1階にあったものが水に浮いて2階に転がっていることもあったほどでした。薬品の刺激臭が部屋中に漂いとても長時間滞在できる状態ではありませんでした。
現在は家の片付けなどの被災後の処理を進めているところです。それと平行して手がつけられる事柄については住むところや車の手配など、生活再建に向けた動きにあたっています。生活再建の前に被害の後処理があり、その準備の為の準備ですら毎日お金が出て行きます。何も持っていないという事はこういうことになるんだなと初めて知りました。

いつぐらいから職場復帰できるのか家族全員未定です。これから先のことを考えると、自分の完全な力不足ですが家族にしんどい思いをさせてしまう可能性が高くそれを思うと不安な気持ちで過ごしています。ぎりぎりまで節約し、なりふりかまわずがんばっていかないといけないと決心しました。


あつかましいお願いだとは承知の上でお願いいたします。
もしこの手記を気に入っていただけた方で、サポートをお願いできる方がおられましたら記事の下のほうにあります「サポートするボタン」から進んでいただきサポートいただけたら幸いです。頂いたお金はすべて生活再建に使わせていただきます。
どうか自分たち家族を助けてやってください。
よろしくお願いいたします。




最後までお読み頂き大変ありがとうございました。



最後にサッカーで繋がったすべてのみなさんへ。
ほどけたスパイクの紐をしっかり結びなおしたら、
みんなの待つ円陣に絶対に戻るのでしばらくまっていてください。





14.その後


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水がまだ引いてないころの真備町の様子。あちらこちらに泥が広がっている。渇いた泥が粉となって、車が走るたび舞い上がる。


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水没した車の車内。中には水がなく、窓ガラスが割れていた。辺りに破片は見当たらなかったので、おそらくそのまま流されたのだろう。


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祈りもむなしくほとんどの私物は水に浸かっていた。サッカー本のコレクションとPCだけは悔やまれる。他のものは元の位置からかなり動いているのに机の上のものはあまり動いていないところをみると、水は机と同じくらいの高さまで達したと思われる。


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堤防が決壊した小田川。水位は下がり普段どおりの穏やかな川に戻った。通勤時渡った橋には消防車が並んでおり通行止め。周辺では自衛隊を中心に行方不明者の捜索が行われているようだ。彼らの姿を見ると頼もしく、そしてありがたくて泣きそうになる。


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水で前面が封鎖された岡田小学校の入り口。すっかり水は引き、路面は乾いている。周辺ではすでに片付けに入った大勢の人と車が。


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夜を明かした岡田小学校のグラウンド。乗用車が減り、かわりに救急車等の支援車両が増えていた。支援車両のほとんどは遠い遠い県外ナンバー。


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この度の被災経験を通じてより妻と娘に対する愛情が深まりました。
一人の夫、一人の父親、一人の息子としてがんばっていきます。



それではまた。



2018.7.12

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