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「ドールハウスの幽霊/The Phantom of the Dollhouse」*完*

 ジェニィは「これでいいのだ。協会」主催の新しいセミナーが開催される度に参加するようになった。セミナーの参加者たちは、芸能関係者でもない限りジェニィのことをじろじろ見てきたりはしない。元世界的なファッションモデルであると誰も知らないことが、ジェニィにはありがたかった。
 たった一度、隣に座った男性がジェニィを見るなりはっと息をのんだことがあった。ジェニィはもちろんこう思った。
 「ああ、とうとうバレちゃった。面倒だな」
 けれどその男性は、ジェニィに握手やサインを求めることもなく、すっと目をそらし、それ以降は彼女の方をちらりと盗み見ることすらしなかった。むしろジェニィの方が、男性の方をチラチラと見てしまっているくらいだった。男性のおでこに冷えビタが貼っている理由が、気になってしょうがなかったのだ。我慢できずにジェニィは、お昼休みの時に男性に尋ねた。怪訝な表情を浮かべ、
 「冷えビタ、どうかされたんですか?」
 と。
 「ああ、これは、壁にぶつけまして。たんこぶが出来ちゃったので」
 「あー」
 「あ、でも壁じゃなかったんですよ。扉だったんです。今朝、僕、寝ぼけておりまして。いや、タイミング悪く、いつも開けたままにしている洗面所の扉をなぜか昨日の夜に限って几帳面に閉めていたみたいで。ぼんやりしたまま普段の習慣通りまっすぐ洗面所にむかったら、バシーン!」
 ジェニィは痛そうに顔をしかめた。
 「思いっきりぶつかってしまいました。で、たんこぶが、はい」
 「それはそれは」
 「ええ。でも、思ったんです。こういうことって多々あるんじゃないかって」
 「こういうことって?」
 「壁にぶつかったと思ったら、実は扉だってことです。扉にぶつかったら、こう…」
 男性は見えない引き戸を開けるように、空中で両手をスライドさせた。
 「ね?扉を開けばいいんです。そうしたら、違う部屋に入れます。だから、壁にぶつかったら、手を引っかける窪みとか、取っ手を探してみると良いですよね」
 べらべら話し過ぎたと思ったのか、男性はそこで恥ずかしそうに目を伏せた。
 ジェニィは男性が言ったことを反芻しながら、十五歳での失恋、バービィに自信を打ち砕かれたこと、最近の仕事が激減したこと等を思い出さずにはいられなかった。
 「ええ、おっしゃること、よおく、分かりますわ」
 ジェニィは冷えビタ男に向かって、にっこりと微笑んで頷いた。

 ジェニィは徐々に幼かった頃の感性を取り戻していった。自分がいかに優劣という発想を邪悪に感じたかも思い出した。幼少期の彼女には、その不快感を上手く説明することが出来ず苛々するしかなかった。でも、大人になった今なら、幼い頃に抱いた感想をぴたりと表現することができる。
 「しみったれている」
 ジェニィは大人たちの世界観に対して、そう感じていたのだ。
 ジェニィは、その「しみったれた」世界観を一度はがっつり受け入れた。自分の目に映る色とりどりの個性あふれる世界を、ぐい、ぐいっと歪めて、ピラミッド構造がぴたりとハマる形に無理矢理押し込めたのだ。
 まだ完全に自信を回復したとは言えない。周囲と自分を比較してしまうと、ジェニィは不安になる。とはいえ、もう自分を居心地の悪い常識の中に押し込めることには疲れ切っていたから、それほど血迷わなくても我に返ることができた。ジェニィに取り憑いていた『正しさ』という名の亡霊は、確実に除霊されつつあるようだ。
 ジェニィと冷えビタ男はセミナーで顔を合わせる毎に親しくなり、自然とデートをするようになった。冷えビタ男は料理が好きで、彼女にヘルシーな手料理を作ってくれる。実は有名な代議士の次男坊で、父親の秘書を務めた後、その地盤を次ぐためについ最近の選挙で出馬したのだけれど、途中でやる気を失い家に引きこもって出てこなくなったため、結局選挙に落選してしまったという過去を持つ彼だった。冷えピタ男の父は、心機一転をはかるべく息子はアメリカに留学中と周囲に伝えていた。改心するチャンスを作った自分の配慮を無視し、金髪のガールフレンドに喜々として手料理を作っている姿を見たなら、父親は息子を心底憎むだろう。
 ジェニィがまだ一応モデル事務所に所属していたので、冷えビタ男はいつも美容に効くメニューを作った。彼女は特に、トマトとアボカドのライスボウル(まあ、どんぶりですよね)が好きだった。トマト、アボカド、たっぷりの青じそと生のナッツ。メインの味付けは味噌で、イソフラボンの女子力アップ効果まで期待できるという寸法。ご飯はもちろん発酵玄米。
 「このライスボウルをランチに食べられるなら、世界中の働く女性はきっと仕事を張り切るわよ!」
 ジェニィはそう言って男の手料理を誉めた。二人は食事をしながら、ヘルシー料理を提供するレストランを二人で経営するなら、という妄想をよく語り合った。
 「ライスボウルには、温玉やチーズがトッピングできるといいわね」
 「ポテトサラダも合うんじゃないかな」
 「夏には甘酒やココナッツウォーターをベースにしたスムージーもあると最高」                                   「冬はショウガのスープでしょ」
 なんて具合。
 最初は食事中の気楽な会話に過ぎず、ほんの戯れにアイディアを出し合っていただけだった。けれどいつの間にか、二人の中でその夢は情熱を帯び始め、彼らはライスボウル・レストランをはじめようと本気で思うようになった。
 場所は代管山等のお洒落な街ではなく、オフィス街。ジェニィが働く女性を応援したいと願ったからだ。店舗を借りることは諦め、まずは小さなバンで、ライスボウル・ランチボックスを売ることに決めた。九の内で働く女性たちは、美味しくって美容に良いライスボウルに夢中になった。いくつかの雑誌で取り上げられたのがきっかけで、ライスボウル・トレーラーは、彼らの紆余曲折の人生エピソードと共に人々に知れ渡っていった。
 今ではジェニィは、モデルとしてランウェイに立った頃と比べると十五キロも太っている。でも、ライスボウル・トレーラーに買いに来る美しい女性たちを見ても微塵も羨んだりしなかった。
 最近では、アイドルグループの女の子を見ながら、
 「こんなに美しくって、踊りもキレッキレで、すごくない?」
 と、何故だか妙に誇らしく感じたことすらあった。もはやクラスメイトという共通点すらない、あるとすれば同じ人類であると言うだけだが、ともかく他者の美点に感動すると、誇らしいような、晴れがましいような気持ちを抱いてしまうらしい。
 ジェニィは、誰かの個性に感動すると、他の人にも伝え、みんなで感動を共有したくなる。それはまるで、地球に観光に来たエイリアンに向かって、
 「人類、すごいでしょ?」
 と言いたいような気持だった。要するに、ジェニィは「オメデタイヤツ」なのだろうし、「頭がお花畑」なのだろう。ともかく、彼女が本来のジェニィに戻りつつあることは確かなようだ。

 さて。以上が、「ライスボウル・トレーラーにまつわる話」の全貌である。
 おっと、題名が間違っている?それは失礼。
 なにせほら、人生ってものは立つ位置によって随分と見え方が違うものだから、勘違いしてしまったのかな?
 とはいえ、ジェニィは気立ての良いお嬢さんだから、自分の人生の一部分にどんな題名を付けられようと、気にしないだろう。面倒なので、このままにしておこうと思う。

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