道理と法理


こちらの後半に書いたことをもう少し詳しく書く。

老子第一章
http://blog.mage8.com/roushi-01
名無きは天地の始め、名有るは万物の母

これは形なきあり方の道理と、形あるあり方の法理を言っている。
形なきあり方に於いては個別性はなく、東大寺の大仏で示されている華厳世界の様に一と全体が完全に不可分なものとしてある。
まあインターネットはそれが一部具象化したものではあるけど。
個の端末から世界中のネット情報が参照され、またその端末にある情報もネットのどこからでも参照される。
実際はセキュリティが掛かっているので、そうはなってはないが、原理としてはそうなっている。
仮想通貨のブロックチェーン技術とかもまあそう。
つまり個から全体へ全体から個へシームレスに完全に相互参照されてあるあり方が華厳のあり方。
攻殻機動隊のタチコマの様な完全情報共有状態だと、個のタチコマがあっても個性はない。
まあSACではそのタチコマに個性が生まれるのを、ゴーストの発現と捉えていたりもして、それはそれで大事な話だったりするのだけど。
まあその個性を仏教では妙と呼んでいるのだが、それは一旦置いておく。
そのあり方は仏教では普賢と言い、まあ一般的言葉だと普遍と言って良い。
只それだと個としてのグラデーションがないので、形もない。
個性があるというのは、普遍性に於いてグラデーションがあるということ。
高いがあるから低いがある。
右があるから左がある。
太極から陰陽に見かけ上分かれるとはそういうこと。
光がプリズムから波長の違いで虹になる様に。
だが形あるものも無茶苦茶にあるわけではない。
宇宙にある全てのものが物理法則に則ってある様に、それぞれ違ってあるものでも法理には則ってある。
だから形なき世界での普遍の道理と形ある世界の法理は別にある訳ではない。
道理に世界が華厳の普賢だとすると、法理の世界は妙法蓮華の観音。
個性である妙と形ある全てに及んである法理がどの様に繋がってあるかが妙法。
形なき華厳の道理があって、形ある妙法の法理の世界が成り立っている。

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