いじめについての天声人語


ひとの心を傷つけて 
喜ぶ心さびしき者に 
聞く耳はなかろうから、
中傷された君に言う。

蠅たちの集まりでは、
蝶も「キモイ」と
陰口をたたかれるだろう、

心ない者たちのうちにも
自分と同じ美しさを探しつつ、
君はひとり、
大人になればいい。

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大昔何かで読んだ この いじめられてる人に向けられたような詩、

当時はとても良い詩だなと思って読んだ。

蠅たちの集まりでは、
蝶も「キモイ」と
陰口をたたかれるだろう

ここには強く共感する。


でも今 読み返してみて 少し疑問なのが 最後の一節だ。

その場から逃げずに一人で耐えて内心大人になる、
というところに、どうも違和感がある。


わたしは一刻も早く逃げろ!!
と言いたい。

しかし子供で若い学生だったらその場から逃げることが難しい。
経済的主導権を何が握っているのは家族だからだ。
大人どもは、しまいには日本人の大好きな都合のいい言葉、
『自己責任』という単語を持ち出して、
いじめられるほうにも何か原因があると言いだす。
いじめられるほうに悪い原因なんてない。
ただ他者と違うだけとか、単にいじめ手の気分の問題かもしれない。


私が思うよくあるパターンは 

いじめてる相手への 嫉妬や恐怖。
自分より優れていそうな 他人を見下すことによって 優越感を満足させたい。

単純にレジャーとしていたぶって楽しんでいるだけ。 深く考えていない動物的快樂。


いじめは問答無用でいじめる方が悪い。
彼らには 想像力や共感力が欠如している。

そして大人は守ってくれない。
私も小学校4年生の時に塾でいじめを受けたことがある 
原因は話し方が他の人と違うから、というよく分からないものだった。
先生に対処を求めても無視された。

大人になってからは匿名掲示板だ。
ポイントは必ず匿名であるというところだった。 私はその存在を知らなかったがわざわざ教えてくれる人がいて 興味半分で見てしまったら あることないこと色々書かれていて びっくりしてしまった。

自分の貴重な人生の時間を、
リアルで会ったことのない他人の悪口のために、
わざわざ集団で集まって匿名で盛り上がると言うのは
何か人生のプラスになることなのだろうか。
匿名掲示板というのは普通の人が普通に気軽に毎日遊びに行くところなのかもしれない。
暇でうらやましい。
私は生きることに精一杯で そんなところに行く気力もなく、エネルギーも使いたくない。

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今日もキモいの文章を探している時に たまたま見つけた もう一つ、良い文章があった。春名風花さんという当時小学6年生のタレントの女の子が書いたものらしい。
とても賢くて 優しい。

君、想像したことある?

ぼくは小学6年生です。タレントだけど、ふつうの女の子です。

今から書く言葉は君には届かないかもしれない。だって、いじめてる子は、自分がいじめっ子だなんて思っていないから。

いじめがばれた時、いじめっ子が口をそろえて「じぶんはいじめてない」って言うのは、大人が言う保身(ほしん)のためだけじゃなく、その子の正直な気持ちじゃないかなと思います。

ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪(しゅうあく)なゲームで遊んでいるんだもんね。

ぼくもツイッターでよく死ねとか消えろとかブスとかウザいとか言われます。顔が見えないから体は傷つかないけど、匿名(とくめい)なぶん、言葉のナイフは鋭(するど)いです。

ぼくだけでなく、時には家族を傷つけられることもある。涙が出ないくらい苦しくて、死にたくなる日もあります。

けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。

いじめを止めるのは、残念ながらいじめられた子の死ではありません。その子が死んでも、また他の子でいじめは続く。いじめは、いじめる子に想像力(そうぞうりょく)を持ってもらうことでしか止まらない。

いじめゲームをしている君へ。

あのね。キモい死ねと連日ネットで言われるぼくが生まれた日、パパとママはうれしくて、命にかえても守りたいと思って、ぼくがかわいくて、すごく泣いたらしいですよ。この子に出会うために生きてきたんだって思えるくらい幸せだったんだって。それは、ぼくが生意気(なまいき)になった今でも変わらないそうですよ。

想像してください。君があざ笑った子がはじめて立った日、はじめて歩いた日、はじめて笑った日、うれしくて泣いたり笑ったりした人たちの姿を。君がキモいウザいと思った人を、世界中の誰(だれ)よりも、じぶんの命にかえても、愛している人たちのことを。

そして、その人たちと同じように笑ったり泣いたりして君を育ててきた、君のお父さんやお母さんが、今の君を見てどう思うのか。

それは、君のちっぽけな優越感(ゆうえつかん)と引き換(か)えに失ってもいいものなのか。いま一度、考えてみてください。



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長文を引用したけれど私がここで最も共感をするのはここの部分だ。


ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。


ヘレンケラーは 暗い道を二人で歩く方が一人で明るみを歩く方が良いと言ったらしいけれど私は一緒に歩むともはいないので 一人で明るみを歩いていきたいと思う

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