人生はベルトコンベア(後編)
人生はベルトコンベア(前編)の続きです。
前記事のおさらいを少々。読みとばしていただいても構いません。
年齢的には”いい年した大人”の私ですが、これまでの人生、会社をやめるまで、「自分の意志で選択した」経験がありませんでした。
自分の意志はあるようでない、ただ流されていくだけのベルトコンベア。
それが今までの私の人生でした。
病気で無職になって、ようやくそのベルトコンベアから降り、自分の足で立とうとしている今、「自分の意志で選択することは、大変だが大切だ」ということを心に刻むために、この記事を書いています。
エンジョイ、ベルトコンベア人生
小学5年生で中学受験を決め、合格した中学校で勉強を頑張り、高校で国立大学行きを選択し、合格してまた勉強を頑張って、両親や親戚が望むであろう「優等生」として生きてきた20年間。
受験する学校、大学を決めたのは自分です。
勉強を頑張ろうと思ったのも自分です。
優等生であろうとしたのも自分です。
ですが、全て自分の意志で選択したものかというと、なんとも言えません。
父には「勉強しないなら学校やめろ」と言われ、祖父には「✕✕大学以上に合格しろ」と言われ、私の人生は自然とベルトコンベア化していました。
自分の意志は、あるようでない。
「優等生でいないと、周囲に見捨てられる」から、打算的に選択をする。
「自分の意志で選択した」とは、言えないんじゃないかな、と思います。
さらに、「✕✕大学以上に受からなかったら殺す」「留年したら大学はやめさせる」という周囲の言葉によって、私の中には「ベルトコンベアから落ちた(周囲の期待を裏切った)ら死ぬ」という刷り込みができてしまいました。
とはいえ、勉強は結構好きだし、入学した学校や大学には面白くて良い人たちがたくさんいて、「ここに来ないと会えなかっただろうな、ここに入学してよかったな」と思える友人もできまして。
「落ちたら死ぬ」とか思いつつも、ベルトコンベア人生に対して、大きな不安や不満は感じずエンジョイしていました。
大学4年生になるまでは。
初めての壁、隔離入院
当時21歳、6月某日。飲み会から帰った翌日、私は高熱を出しました。
内科に行って薬をもらい、いくら休んでもさがらない39℃の謎の熱。
大きな病院に行って検査した結果、「結核」と診断され、即その場で隔離入院させられることになりました。
結核時代の詳細については、こちらの記事をお読みいただければと思います。
大学4年生、6月。隔離状態。
最悪の場合、半年の入院の必要アリ。
これが意味するのは、「大学院の入試に間に合わないかも」「そもそも論文が間に合わなくて卒業できないかも」、つまり「留年または浪人の可能性」=「ベルトコンベアから落ちる」、すなわち当時の私にとっての「死」でした。
今思えば、「いや周囲の期待を裏切ることより本当の意味で死ぬ方を怖がれよ!治療が遅れてたらマジで死んでたんだぞ!」とツッコミたいところです。
しかし、今まで幸いにも大きな壁にぶち当たらず、順調にベルトコンベアに流されていた自分にとっては、初めて遭遇した「ベルトコンベアから落ちる危機」だったのです。
母からは「祖父(父方)には、余計な心配をかけたくないから病気のことは言わないでおこうね」と言われました。私は「ああ、私が祖父の期待を裏切りそうになっていることは、伏せておくべき事なんだろうな」と察しました。
(実際の意図がどうだったのかはわかりません。ただ、当時の自分はそう解釈しました)
病気なので、こればっかりはどうしようもない。
さすがにここが年貢の納め時というやつか・・・と私は覚悟しました。
結核は感染症なので、「排菌しない状態(人にうつさない状態)」まで治らなければ、何が何でも外に出ることは許されません。そして、治療が順調にいくか、排菌しなくなるかは、ほぼ神頼み(というか医者頼み?)です。
とにかく薬をしっかり飲んで、安静にするしかない。
大学で優等生をしていたおかげで、大学院への進学は、推薦入試の権利を得ていました。しかし、もしかすると間に合わないかもしれない。推薦入試に間に合わなかった場合を考えて、通常入試の勉強を無理のない程度に行い、あとはひたすら神頼み。
結果としては、推薦入試の5日前に退院できました。
もう、ほんっっっっとにギリギリですよ!ギリギリセーフ!
というわけで、無事に試験を受け、合格し、私のベルトコンベア人生は何事もなかったかのように続くことになりました。
しかし、退院したばかりの私は気づいていませんでしたが、この「結核による隔離入院」は、ベルトコンベアの歯車を狂わせていくきっかけとなります。
何が何でもしがみつけ
隔離入院自体は1ヶ月半ほどと、比較的短く済みましたが、ただでさえ運動不足だった肉体は、入院生活によってさらに衰えていました。
まず、週5日、大学に通うのがキツイ。
ずっとベッドで寝ていたためか、数時間椅子で作業するだけでゼエゼエと息がきれる。大学内を歩いて移動するだけで体力をガンガン消耗してしまう。
ここまで衰えんの!?と驚くレベルでヨボヨボでした。
大学4年時は、卒業に必要な単位はすでに取得していたので、研究のため以外に大学に行く必要はありませんでした。なので、ほどほどに休みつつ、リハビリのように通っていました。
ですが、大学院に進学してからがキツかった。
大学院を卒業、もとい修了するのに必要な単位を取得するために、久々にそこそこの量の講義を受ける必要がある。つまり、今まで体調をうかがいながら通っていられたのが、そうも言ってられなくなったのです。
週に4日以上、決まった時間に行って、講義をガッツリきいて、内容を復習して、課題をこなし、提出する。今まで普通にできていたはずのことが、非常に苦しく感じられました。身体が追いつかない。
しかも何を思ったか、ちょっと意識高い系のプログラムに申請して、余分に講義を受けることにしてしまい、課題の量を自ら増やしてました。Mかな?
さらに、教授に「別に強要はしないけど、学会いく?」と聞かれ、講義でめちゃくちゃ忙しい時期にも関わらず「行きます!」と何故か学会へ行く約束をしてしまい、さらに首を締めていく。Mっていうかただのアホだな?
入院して遅れを取った(?)ことが負い目だったのか、私はどんどん自分自身を追い詰めていきました。「優等生でありたい」「これくらいこなせないと期待にこたえられないかもしれない」・・・
衰えた身体のことを考慮せず、肉体的・精神的に負荷をかけた結果、私はだんだんと大学に通うことすら難しくなっていきました。
身体もだるい、心もだるい。何をするにもしんどくてたまらない。
大学に行けず、講義にあまり出られなくなった私は、それでもなんとか”ベルトコンベア”にしがみつこうと、必死でした。
親に事情を説明して、休学させてもらうとか、それこそいくらでも方法はあったと思います。ですが、そのときの私は、「留年は許されない、落ちたら死ぬ、課題をこなし続けなければ」という強迫観念に取り憑かれていました。
決壊、しかし滅びぬコンベア道
大学に通うのが難しくなった私は「このままでは単位が足りずに留年かもしれない、なんとかしなくちゃ」と慌て、「体調不良により大学へ行けないので、家でできる課題を出していただくなどの措置をとっていただけませんか」と講義担当の教授方に連絡をとることにしました。
すると、一部の方々は対応してくださり、人によっては「君はもう十分単位とれるだけの課題こなしてるから来なくて大丈夫だよ〜」と休むお許しまでくださるという柔軟な対応っぷり。心底感謝しました。
しかし、とある意識高い系プログラムの講義に関しては、「一度”直接”お話しましょう」と面談をすることを提案してきました。私は「体調が悪くて大学行けないからメールで頼んでいるのに何故・・・?」と思いつつも、話を聞いてくれるなら、と行くことにしました。
そして、この面談が、私が一度、決壊する引き金となりました。
プログラムの講義を担当している教授ではない、事務員のおばさまらしき人に、体調不良の旨を説明すると、「通えないんじゃ単位は無理」という答え。それならそれで、メールで無理と言ってくれれば・・・、体調悪い身体を引きずってまで来た意味が・・・と思った私に、とどめの一言。
「大丈夫、頑張ればできるわよ!」
頑張ればできる。頑張れば。うんうん、そりゃ頑張ればね。
じゃあ、私は今まで頑張ってなかったのか?
なんというか、当時の状態を考えると、すでに私は鬱気味だったのだと思います。大学に通えない、という時点で、通常状態ではない。
それでも「ベルトコンベアから落ちて死んでたまるか」という執念で動き、自分なりに努力していたつもりでした。
言われた瞬間、「あ、これヤバイ」と思って「ちょっと失礼します」と逃げるようにトイレに駆け込みましたが、駄目でした。個室に入る前に手足がしびれ目眩を起こして盛大に崩れ落ち、そのまま号泣。いやもうめっちゃ恥ずかしかった。せめて個室入りたかった。
びっくりしたおばさまがとんできて、背中をさすってくれる。ほんと恥ずかしい。「いきなり泣いてすみません」を連呼し、これまた逃げるように帰宅。
とりあえず、教授方のご厚意により、一部の単位は確保できた。来年に講義を少し多めに取れば、必要な単位はそろうはず。
こんな状態になっても、まだ私はベルトコンベアの人生にしがみつく気満々でした。そして、幸か不幸か、またしてもどうにか乗り越えてしまったのです。
いっそ転んどけ〜!?って感じですが、まあ乗り越えちゃったので仕方ない。
学会発表をこなし、単位をそろえ、次に挑むは就職活動。
これでゴールだと思ってた
就職するにあたって、目指せ海外デビュー!とか目指せ大金持ち!とかの大きな野望は特にありませんでしたが、やはり打算はありました。
・両親や親戚に文句を言われない程度に歴史と規模があって
・身体ボロボロの私でも働けるくらい福利厚生が充実していて
・面白そうな人(というか変人)がたくさんいる
そんな企業。まあ第一事項が、一応優先ではありますが、それでもやはり、親元を離れて働くのだから、もういい加減、自分で選択するべきだ、という意識がありました。
しかし、それも今思うと、自分の意志の選択とは異なっていたと思います。
なぜなら、就職活動をしている時点での私は、まだ身体と心が完全に回復しておらず、大学にはリハビリ的に週3〜4日くらいで通って、教授に「週5で働けるのかものすごく不安」とカウンセリングしてもらっている状態でした。
「働き始めれば、否応なしに慣れますよ」と教授はアドバイスをくれましたが、それでもやはり不安は不安。でも、「そんなもんかなあ」と思うことにして、”週5で働く一般的サラリーマン”になることを前提に、就職活動を進めることにしました。
やがて、自分の求める条件を大体満たした企業を見つけ、そこを第一志望として受けたところ、なんとなんと無事に採用。結核の病歴についてもお咎めなし。本当にあっさりでした。ベルトコンベア人生、ここに極まれり。
こうして就職先が決まり、修士論文もコツコツ書いて、無事に大学院修了。
もうこれで終わりだ、祖父たちの言う「偉い人」になったかどうかは知らないけれど、十分に期待に応えられただろう!これがゴールだ!きっとゴールだ!
あとはこのまま、週5日で働く、立派なサラリーマンになるだけ!!!
・・・
・・・だけってなんだよ!!!
週5で働くの、メチャクチャ難しいじゃんよ!!!
体力が全然ついていかないよ!!!!
というか、そもそも、私、サラリーマンになりたかったの・・・?
サラリーマンというか、自分でお金を稼いで生活することへの憧れはありました。なので、もし体力モリモリ気力バリバリで働けるもんなら、多分、今も辞めた会社で働いてたんじゃないかと思います。いいところでしたし。
しかし、結果として、私は週5日で会社に通うことが体力的にしんどく、社員旅行や飲み会などでは精神を消耗し、とにかく”昔ながらの大企業”には向いていない、ということが、「心の病気になる」という形で証明されてしまいました。
こうして、私のベルトコンベア人生は、終わりを告げました。
自分の足で歩いていく
私はずっと、「ベルトコンベアから落ちたら死ぬ」と思い込んでいました。
しかし、それは間違いでした。
ちゃんと地面あるじゃん!
ていうか、自分で歩けるじゃん!
結局、「こうでなくてはならない」なんてものは全部、私が自分で作り出した強迫観念でした。(きっかけは外部からもたらされたものでしたが・・・)
周囲に流され、自分自身で深く考えることをしないで生きてきた結果、私は自分が何をしたいのか、どうやって生きていきたいのか、今、わりと途方にくれています。
やってみたいこと、好きなことは、たくさんあります。
ですが、自分の意志で選択するということは、他人に正解を求めることも、責任を問うことも決してできません。
正直、ベルトコンベアに甘んじていた自分にとっては、とても怖いことです。失敗したらどうすればいいんだろう、何を基準に選択すればいいんだろう。
わからないことだらけです。
25歳にもなって自分の意志で決められないなんて・・・という気恥ずかしさというか、情けなさはあります。
でも、まあ、ちょっと人より遅くなってしまっただけでしょ!
他の人がもっと早く経験したことを、今ようやく、やることになっただけ!
そう考えることにして、まあ恥をさらしてみようじゃないか、と思うことにいたします。
ようやくヨチヨチ歩きの人生です。あんよがじょうずになりてえなあ!
またまた、だいぶ長くなってしまいました。
ここまで根気強く読んでくださった方、ありがとうございます。泥水でした。
サポートしていただけると心身ともにうるおいます(主にご飯代にさせていただきます)。ここまで読んでくださってありがとうございました!