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白いサナトリウム -結核の思い出-

結核。

かつては「不治の病」とされ、多くの人の命を奪った病気です。

結核というと、私はジブリ映画の『風立ちぬ』のヒロイン、「菜穂子」を思い出します。喀血し、色の白い肌を熱で赤く染め、サナトリウムで療養する彼女は、いかにも病弱で薄幸な感じがします。

ですが別に、菜穂子のような悲劇のヒロイン、薄幸の美女でなくても、結核はかかるもんなのです。

現に、薄幸でも美女でもない私がかかったからな!!!!

というわけで今回は、自分が結核にかかった際の思い出についてお話しようと思います。

現代の病、結核

結核は、決して昔の病気ではありません。

今でも、日本では、年間で約18000人が発症しているそうです。

大丈夫。怖くはないです。
今は昔と違って、薬で治ります。

ですが、早期に発見してさっさと治療するに越したことはありません

なぜかというと、メチャクチャしんどいから!!!

39度の高熱が2週間以上続いたり、肺付近に謎の水がたまったり、そうなってからじゃ遅いんですよ。ほんと。

なので、健康な方々がそんな面倒くさいことに陥らないためにも、「あの症状、結核の前兆だったのかも」「結核の治療、ここが辛かった」など、自分の経験した結核の症状や治療の流れについて、まとめておこうという次第です。

入院中は色々と切羽詰まった想いをしてたので、表現としては重苦しい部分もあるかもしれませんが、軽い読み物感覚で笑い飛ばしてやってください。

病名、発覚の巻 ~もっと早く気づいとけ~

大学4年生の頃、6月某日。

友人と飲み会を開き、楽しく過ごした次の日の朝。
私は38.6℃の熱を出しました。

久々に高熱出たなあ、昨日は別にだるさとかなかったのになあ、と思いつつ、寝ること一晩。さらにあがって39℃をこえていました

さすがにこの熱はアカン、と行きつけの内科へ。
2ヶ月ほど前から肋骨あたりに痛みがあることを伝え、念のためレントゲンを撮りました。結果、特に何も映らず、問題なし。
「風邪ですね」と診断され、抗生物質を処方されました。

しかし、どうにも下がらない謎の熱。
38℃におさまったかと思うとまた39℃に戻る、咳がやたらに出る、血を吐く、胸のあたりでゴボゴボ音がする・・・
「さすがにおかしくない?」と再度病院へ。

まあ今思うと「どうしてその時点で気づかなかったのか」って感じですね。

レントゲンを改めて撮り直して、びっくりしました。
肺の一部が真っ白になっとる!?!?!?!?

後に、これは胸水(肺の近くの空間にたまった水)のせいで白く影になっていたということがわかるのですが、そのときはとにかく「何だこれ」状態。

ぽかんとしている私に、馴染みの内科医は「紹介状かいたから、今すぐ大きな病院行って検査してきてください」と言いました。ここの普通のレントゲンでは限界がある、つまりCTスキャンの高度な検査をしろ、ということでした。

熱でフラッフラの状態で大病院へ行き、検査を受けて待つこと数十分。
名前を呼ばれ、「肺の炎症だかなんだかで2週間くらい入院になるかもって内科の先生言ってたな〜、入院だったらめんどくさいな〜」と呑気なことを考えつつ病室に入った私に、呼吸器専門の先生が言いました。

「結核です。今日から、というか今すぐ入院してもらいます。」

・・・!?

何?結核?ていうか本当に入院!?え!?今から!?!?!?

ポカン顔が戻らない私は、とりあえずTwitter(知人との交流用につくっていたアカウント)をひらき、「入院するwww」とつぶやきました。

正直、この時点では、あまり現実感もなく、ネタ的に捉えていました。高熱で考えもまとまらないというのもあったと思います。人生初の入院!なので微妙にテンションをあげていた気もします。呑気過ぎる。

ですが、個室に入れられ、母親に来てもらい、医師の本格的な説明がはじまる頃には、そんなことも言ってられなくなりました。


人生初、入院の巻 ~半年は長すぎる~

まず、「もしかすると半年くらい入院になる」と言われたこと。

これがガツンときました。
その頃の私は大学4年生、すなわち大学院の試験をもうすぐ受ける身。「半年の入院」は、留年または浪人に直結する問題でした

以前、不安障害で会社をやめた話で触れましたが、私は人より少しだけ厳しく(?)育てられていたので、妙な話ですが、その頃の私にとって留年や浪人は死にも勝る恐怖でした。

どうしよう?と思いつつ、ひとまず大学でお世話になっている先生へ連絡。
入院します、下手したら半年かかります、とメールを送ると「休学でもなんでも措置は色々あるので、まずはしっかり治しましょう」と暖かいメッセージをいただきました。

さて、これでともかく入院生活開始か、と思いきや、1週間過ごしたところで「病院をうつってください」という指示

実はその病院には結核治療の専用部屋がなく、私がいたのはあくまでただの個室でした。なので、きちんと専用の隔離部屋のある病院にうつる必要がある、とのことでした。

事情を承知している運転手さんにタクシーで移動先の病院まで届けてもらい(マスクしているとはいえ結核患者を普通に乗せて良いのか!?とは思った)、そこから本格的な入院生活がはじまりました。

隔離、そして副作用の巻 ~Wi-Fiなかったら死んでた~

「隔離入院」と言うと、どことなく薄暗いイメージですが、私があてがわれたのは、いたって普通の個室の部屋。トイレも部屋の中にあり、日の光が入る窓もあって、閉鎖的でじめじめした感じは一切ありませんでした。

ただし、「窓は絶対にあけてはいけない」「廊下には絶対出てはいけない」との指示があり、おわ〜めっちゃ隔離されてるゥ〜と思いました。
病室に入る看護師さんが必ず特殊なマスク(普通のと形が違う、硬そうな謎マスク)をつけているのも、うわ〜めっちゃ感染症扱い〜という感じ。実際、感染症なんですけども。

投薬開始から1週間たち、私の熱はだいぶ下がっていました。咳も、ひどすぎて眠れないほどではなくなっていました。

しかし、順調な経過に対し、困ったことがおきました。副作用です

はじめに気づいたのは手の違和感でした。
なんか、手が重い感じがするな、と。かゆいような、なんか変な感じ。やがて、その違和感は確信に変わりました。手、めちゃくちゃしびれとる!

何をするにも手が重い。これはかなり、精神的にイライラしました。肉体的な辛さはそこまでではないのですが、手が思うように動かないのは非常にストレスフル。

手のしびれは、結核治療の薬の副作用として起こりうるものだそうです。看護師さんに相談して、ビタミン剤を処方してもらうと、少しマシになりました。

手が重くてイライラする、でも運動して発散できるほどまだ元気でもない、というかそもそも部屋の中を歩き回るくらいしか許されていない・・・その状態の私を支えてくれたのは、インターネットでした。

備え付けのテレビはありましたが、私は基本的にテレビを観ないタイプで、インターネットの動画サイトを見る方が断然多いので、飢えていました。かといって、スマートフォンではすぐ通信制限がかかってしまう。

そこで母親に頼み、ポータブル式のWi-Fiを契約しました。パソコンさえあれば研究の続きもできますし、論文も読めますし、何より友人とSkypeができる。外に全く出られない自分にとっては、母親の見舞い、友人との通話が本当に癒やしでした

長期入院する方は、ポケットWi-Fi、ほんとおすすめです

退院検査の巻 ~入試へのカウントダウン~

結核は、排菌状態が続くかぎり、退院を許されません
逆に言うと、排菌さえしていなければ、結核にかかっていても、外に出ることが許されます

私は、病院の検査で調べた結果「排菌状態である」ことから、隔離入院をすることになりました。そして、「下手したら半年入院になる」の意味は、「薬を飲んでも、排菌状態がずっと続いたら、半年くらい隔離されるかも」という意味でした。

排菌状態でさえなくなれば、退院ができる。
つまり、最大の懸念事項だった、大学院の入試を受けられるのです。
というわけで、私は是が非でも退院したい気持ちでいっぱいでした。

退院するためには、排菌検査を3回クリアする必要があります

ちょっと汚い話ですが、検査はとても単純です。
痰を吐いて、そこに菌がないか調べる。
これを数日にわけて行い、3回「排菌していない」なら退院可能になります。

結果的に言うと、私は試験に間に合いました。

試験の5日前の退院です。ほんっっっとに、ギリギリでした。

なんでそんなギリギリになってしまったかというと、一度、検査に引っかかったのです。

2回クリアして、今回のがクリアだったら退院できる・・・というところでの、アウトでした。その日は本気でショックを受けて泣きました。なんでだよ、今まで大丈夫だったのに、どうして、と。

担当医師の図らいで、なんとか試験に間に合うようにと、検査をできるだけ早く行っていただいて、結果的にはギリギリ退院できましたが、あれはかなりショックでした。ただでさえ入院というのは、長引くと憂鬱なものです。

退院して初めて外に出たときは、なんともいえない、清々しい気持ちでした。外に出られるってこんなに素晴らしいことなのか、と。

隔離されていた分、筋肉も体重も落ちてだいぶヨボヨボになっていましたが、それでも外を自由に歩き回れるのはとても嬉しかったです。

その後、入院生活で喋らない時間が長すぎてコミュ障に拍車がかかった私でしたが、無事に大学院入試の面接に臨み、なんとか質疑応答を済ませられました。

経過観察の巻 ~退院しても治療は続く~

私は結局、約1ヶ月半ほどの入院で済みました。

結核菌には感染力の強さのレベルがあるようで、不幸中の幸いというか、私のかかったものはそこまで感染力が強いものでなく、薬でキッチリおさえることができて、排菌もしなくなったのが功を奏したようです。

しかし、そこで油断してはいけないのが結核。

排菌しなくなった、症状がなくなったからといって、薬を途中でやめると、菌に耐性がついてしまい、薬で治らないものにパワーアップする可能性があるそうです。

なので、最低でも薬は半年飲むこと、そして経過観察として2年は病院で検査を定期的に受けることが義務付けられています。

このお薬チェックがなかなか厳しく、薬の空き袋(?)を捨てずにとっておいて医療関係の人に見せ、本当にちゃんと飲んでいるかを確認してもらう必要があって、少々面倒でした。
まあヘタに薬を飲むのをサボられて、耐性のついた菌なんか撒き散らされたらとんでもないでしょうから、慎重にならざるをえないんだろうと思います。

経過観察に関しては、そこまで苦ではありませんでした。レントゲンも簡易なもので、CTスキャンを毎回とるわけでもなし。血液検査が少し時間かかるな、くらいのものです。

といっても、「再発の可能性があるとすれば2年の間」という意味での経過観察期間なので、内心ビクビクものでした。

微熱が出たり、胸に痛みを覚えるたびに過剰に反応してしまっていたので、自分の中である程度「隔離入院」が嫌な思い出として刻まれてしまったのだなあ、としみじみ思います。

振り返りの巻 ~思えばアレも初期症状~

私は、「突然高熱が出た」と思っていましたが、よくよく考えると、初期症状らしきものはいくつもありました。

高熱を出す半年ほど前から、私は月一で必ずといっていいほど風邪をひくようになっていました。もともとそこまで丈夫な身体ではないとはいえ、あまりのペースで風邪をひくので、内科の先生にも「ずいぶん来るねえ」と言われてしまうレベルでした。

また、肋間神経痛を起こしていました。肋骨あたりが、キリキリと痛むやつです。そのときは整形外科へ行って、レントゲンを撮って、「ストレスですかねえ」とあんまりハッキリとした原因はわからずに、湿布やらコルセットやらを処方されました。

そして、たびたび微熱と咳が出ていました。微熱は本当に微熱で、普段より少し高いかな?(36.9℃とか)という程度で、病院に行っても解熱剤などは効かず、もう体質かしら、と諦めていました。

今考えると、上記の全てが、結核の初期症状だったのだろう、と思います。

直接的に結核につながってなかったとしても、風邪をたびたびひいていたのは免疫が落ちていたせいだと考えられますし、肋間神経痛や微熱は十中八九、結核に関係していたと思います。

私はもともと心配性というか、病気になったらすぐ病院へ行くタイプなので、今回もかなり病院へは通っていました。
ですが、結局誰も、私が39℃の熱を延々出し続けて肺の近くに水がたっぷりたまるまで、結核であると診断できなかったのです。

別に、内科医の先生がヤブだとか、そういうわけではありません。

実は結核には、よく知られている「肺結核」以外にも種類があり、私のかかった結核は「粟粒結核(ぞくりゅうけっかく)」というものでした。

この粟粒結核が、通常のレントゲンでは非常に見つけづらいものだったのが、発覚が遅れた主な原因です。

結核の初期症状は、風邪によく似ているそうです。
なので、自分が結核にかかっている自覚がないまま普通に過ごして、周囲に菌をうつしてしまう可能性もあるわけです。ただし、結核菌にかかったからといって発症するとも限りません。免疫が強ければ、おさえていられるものらしいです。

私は運動不足だったり食が細かったりと、免疫の鍛えっぷりが足りなかったのでしょう。正直、どこで感染したのかも一切わかりません。

現代では治せる病とはいえ、つらいものはつらい。
脅すつもりはありませんが、妙に風邪が長引くなあ、微熱が続くなあ、というときは、無理せずきちんと医師にかかることをおすすめします
措置が早ければ早いほど、きっと良い結果につながるはずです。

健康な方も、闘病中の方も、みなさまご自愛ください。
ここまで読んでくださってありがとうございます。泥水でした。

・・・

恒例のおまけ漫画をおいておきます。
入院中びっくりしたこと2本、退院後のアホ騒動1本です。
よろしければ読んでやってください。

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