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多様性という言葉の難しさ

「多様性。」

いろいろなところで、聞く言葉。
いろいろなところで、話す言葉。

どこでも、誰でも、この言葉にふれている。
私もその一人。

ただある時、違和感が生まれた。

今まで一部のある人たちは、いろいろなところで受け容れられなかった。
このある人たちを受け容れる社会の必要性として、
  多様性という言葉を使っている。
一部の人だけでなくいろいろな人が関われる社会の姿として、
  多様性という言葉を使っている。

しかし、多様性の大切さをいう人が
  相手を否定批判し、受け容れない姿を目にする。

この相手は、いろいろな人の中にはいないのだろうか。
では、多様性の“多”とは何だろうか。

“全て”ではなく、“いろいろな”という意味だとある。
であれば、「いろいろな人もいるんだ」と思えばいいのに、
  相手を否定批判・拒絶する。

多様性のある社会とは、違いを認める社会でもあると思う。
しかし、価値観の違いを認めない社会になりつつある気がする。

ここに、何とも言えない違和感を覚えている。
いや、怖いといってもいいかもしれない。

私を受け容れてほしいと相手に寛容さを求めておきながら、
  相手への寛容さはない。
これが新しい対立を生み出すかもしれない、いやすでに生まれている。

私だけかもしれないが、いいようのない不安を感じる。
本来の多様性から、都合よく解釈した多様性に変わっている気がする。
多様性だけでなく他にも都合よく解釈した言葉が多くなっている気もする。

敵対する人も受け容れてこそ、本当の意味での多様性のような気がする。
受け容れるのは難しくても、否定批判はしないことが大切。

多様性という言葉を使うから、気になってしょうがない。

この“多”に含まれるのは、誰か。
この“多”に含まれないのは、誰か。

多様性の多に含まれる人たちで、多に含まれない人を一斉に責め立てる。
多様性という言葉を言いながら相手を否定批判する姿に、言葉が詰まる。

否定批判・拒絶をしたい気持ちはよくわかる。
過去の私はどっちかといえば、いや、
  いろいろな人を否定批判し、拒絶してきた。
「私は正しい」「あなたは間違っている」としか、考えてこなかった。

ただ、わかるから、そこに潜む何とも言えない怖さの存在を知っている。
その怖さを知っているからこそ、
  否定批判や拒絶もできるだけしないようにしている。

受け容れるか、受け流すか。

「いろいろな人がいるよね」と、存在を否定しない社会になってほしい。
否定してその存在を見ようとしなくなるのが、問題の根源かもしれない。

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