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トルストイに登場する世紀末ロシアの美女「アンナ・カレーニナ」

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 アンナ・カレーニナは世界的大文豪のレフ・トルストイが雑誌連載した長編小説「アンナ・カレーニナ」の女主人公です。
 彼女の一生を決めてしまった大恋愛は、鉄道駅舎から始まり、鉄道列車で終わります。
 なんども登場する鉄道は物語のキーポイントになっていて、20世紀の近代化を待つ時代の雰囲気が作品の特色になっています。名作が多い同時代の哲学的な小説とならべると、本物の愛を探したアンナの恋愛ドラマを中心に男女の愛の違いを観察している「アンナ・カレーニナ」は、近代のロシア文学のなかでは恋愛がテーマであることが珍しく注目されやすい作品です。
 アンナはロシアの大都会サンクト・ペテルブルグで高い地位に就いている高名な夫の妻です。自分が産んだ男の子を愛しており、いつも子供に愛情を懸けています。アンナにはモスクワに住む兄がおり、兄の家族を訪問するために9歳になった息子と生まれて初めて離れ離れになると心が落ち込んでしまいます。息子恋しさで胸を一杯にしたアンナがモスクワの鉄道駅舎を降りて出会うのが、青年ヴロンスキーです。
 息子のいるサンクト・ペテルブルに戻ったアンナは、モスクワで出会ったヴロンスキーとサンクト・ペテルブルグの貴族が利用する社交界で親密になり、不倫恋愛をはじめてしまいます。アンナは自分を愛していない夫と別れて、本当に自分を愛してくれるヴロンスキーと一緒にいるのが自然なことだと思い、離婚を決意します。しかし息子の親権をめぐって離婚調停は長引いてしまいます。その間、アンナはヴロンスキーが本当に自分を愛してくれているのか疑念を感じ始めます。
 アンナは愛のない世界に生きることに不安を感じ、いっそ本物の愛を得られない人生で苦しむ運命ならばと、鉄道列車の線路に身を投げ出して自殺してしまいます。
 「アンナ・カレーニナ」は、「戦争と平和」と並ぶトルストイの代表作で、画家に描かれて絵画になったり、繰り返し映画化もされています。長編小説には多くの登場人物を出演させるトルストイらしく、「アンナ・カレーニナ」の登場人物も、全員の容姿から服装から職業から社会的な立場まで、誰一人として同じでない人物が頻繁に登場します。
 作家としてのトルストイは何か一つ、生来特別な知恵をもっていているキャラクターを愛する傾向があり、小説の登場人物たちはみな生来もった知恵を守って生活しています。「アンナ・カレーニナ」では、アンナの人の注意を惹きつける長所が死後に失われています。生前の魅力が失われたアンナの亡骸が、遺された者の恐怖のイメージになる結末は、トルストイの死生観と破滅に向かう恋愛の顛末を確かめられる作品の醍醐味です。
 生きているあいだのアンナは、生まれもった魅力で万事ほとんどすべてを上手くやってのける女傑でした。兄からすれば、家庭の不和を解決してくれる腕の立つ妹でした。兄の妻の義姉にも、しっかり者の義妹と思われて厚い信頼を勝ち得ることに難なく成功します。列車で同席した老女からは、すなおで魅力のある若母に認められました。
 モスクワの社交界で人気をあつめた令嬢のキティも、都会人で年上のアンナに憧れて好いていました。アンナは、キティがプロポーズを期待していた思い人のヴロンスキーを惚れさせてしまいますが、社交界の恋愛は教養が必要なゲームで、人の恋人の奪い合いは社交性の高さを証明する素養だったので、社交界を知り始めたばかりのキティから見て、息子がいて独身男を惚れさせるアンナは優雅で憧れる社交界の成功者でした。
 アンナはキティの夫になったリョーヴィンも初対面で魅力します。キティと結婚したリョーヴィンは、田舎が好きで都会を嫌っていたはずなのに、田舎を出て都会で暮らし始めて無意識に都会の価値観に染まって行きます。大勢の他人の目を通して物を見る都会人になりかけて、偶然出会ったアンナを初対面で好いてしまいます。
 アンナは沢山人が集まる社交界の価値観ではあらゆる面で欠点の無い女性です。アンナの夫のカレーニンは、妻の浮気を周囲の意見に同調して批判するような、妻に無関心な夫ですが、愛していないが故により愛して見せる必要を感じていたほどに、妻の価値を他人目線で認めていました。アンナは社交界では誰もが認める非の打ち所がない素晴らしい妻で、高い洋服を着なくても美人に見られる美貌と、偉ぶらない性格は一目瞭然で、自分の息子を愛しながら、カレーニン夫人として夫の対面に必要な交流に参加していました。
 アンナはカレーニンが自分を愛することは無いと知っていたので、不倫が始まってもカレーニンへの罪悪感は起きません。カレーニンがアンナの不倫に気づいたときは、夫はアンナの思った通り、アンナの思うような愛をアンナに抱いていませんでした。カレーニンは、妻の愛をトロフィーのように思っていました。妻が他の男を愛していると知ると、自分の名前が刻まれたトロフィーが他人に贈呈されるような、可笑しな展開に面食らってしまい、自分の権利が侵害されているとしか思えません。妻の愛が奪われても不当なことが起きていると不満が募るばかりで、悲しみや激しい怒りは感じません。アンナにしてみると、それこそが妻を愛していない証で、「僕は君を愛していたのに、君は僕の愛を裏切ったのか」と、夫婦の絆を盾に妻に不倫を問いただせない夫が、妻が若い男を愛するようになって悲しんだとは思えません。
 アンナは愛とはなにか感覚で知っているつもりだったので、理知的だけれど愛を理解しない夫のカレーニンと別れて、本当に愛し合えるヴロンスキーと一緒になるのが自分にとって正しいと考えます。アンナは夫のカレーニンやヴロンスキーを愛の体現者としか思わず、自分を愛する重みでしか相手の価値を感じません。
 ヴロンスキーは、アンナの夫のカレーニンも含めた誰にも明らかなアンナの長所に惹かれていました。大勢の人の輪にいても自然体でいられるアンナと、同僚や母親に良い顔を見せ続けるヴロンスキーは正反対の人間です。表面的には二人とも大勢の人に囲まれる人気者ですが、アンナは虚栄心が無く伸び伸びと人の輪にいられる自由な社交家で、ヴロンスキーは親しい間柄の人といてもセルフイメージを守る自尊心に凝り固まった保守派です。嘘やごまかしが嫌いなヴロンスキーは、彼自身の印象を操作していて、ただ嫌いと拒絶することで理由を黙ったまま、いま以上に偽装するストレスを増やして自分自身に潰されないために逃げています。
 ヴロンスキーにとってアンナは、家族や仕事仲間に愛を装う疲れを忘れる逃避先でした。アンナと一体になるほど、ヴロンスキーは人といる時の疲れを隠していることも忘れて、アンナのように他人に疲れない自分になって酔えました。ヴロンスキーは都会にいる人々の喧騒に包まれても自然体を維持できるアンナの魅力に取り憑かれていて、不倫が知れ渡ってアンナが持ち前の魅力を陰らせ始めると、人目を避けて一緒にいられるように夫と離婚して自分の妻になって欲しいと告げます。しかし、人目が減ればヴロンスキーのストレスも軽減されて、ヴロンスキーの中のアンナの必要性が陰り始めます。
 ヴロンスキーはアンナが彼の治療薬にならず、むしろ薬が必要な病の原因になり始めると、アンナを愛せなくなります。ヴロンスキーはカレーニンよりもアンナを求めていましたが、アンナの思う愛し愛される関係のためにアンナを求めてはいませんでした。アンナが亡くなってからは、茫然自失となった後に戦争に出兵することに決めます。アンナを失った痛みを誤魔化していると思われた男の心の内は、自殺したアンナを止められなかった自身のミスに耐えきれず、失敗の屈辱を長く味合わされている自分の不幸に悲しんでいるだけで、アンナを死なせた後悔はありませんでした。
 アンナは愛を探していました。母親が息子を愛するような、愛し合う関係が自然で不純のない愛です。アンナには純と不純を見分ける力があり、モスクワ駅で初めてヴロンスキーと出会った時には、アンナに魅せられたヴロンスキーが見栄を張って施した慈善の偽善に気づいていましいた。アンナはただ悪い予感を感じただけでしたが、アンナは不自然な愛に気がつきます。
アンナは人の行為を全て、愛のある行為と、愛の無い行為とに分け、愛の無いと思った行為を全て愛の無い不正を隠す行為だと思い込みます。限界のない愛を本当の愛と信じているアンナは、限界のある愛には不正があるのではないかと疑うのです。
 アンナは本当の愛がなければ生きていられないと思っていたので、愛を探す目的に敗れた人生を終えてしまいます。上流階級の人間だけが華やかに生活していた時代であれば、貴族社会から身を持ち崩したアンナは愚かな女性と冷笑されて当然です。
 社交界がまだ存在していた年代では、社交場に出入りする上流階級の人間は皆、アンナと似通った思いで愛を考えていました。愛を失えば弾で撃たれるような思いで死ぬような苦しみを感じます。しかし実際に死のうとは思いません。死んで何もかも失うのが恐ろしいそうです。死ねば愛も財産も地位も失いますが、失恋で愛を失っても他の財産は残っています。だから生きていられるというのでした。しかし財産を男性が管理する時代では、子供からも拒絶されたアンナのような女性は、恋人の愛を失うと人生の財産の底が尽きて生きる理由を失ってしまっていました。それでも新しい鉄道にアンナの結末はやり過ぎている、と出版された「アンナ・カレーニナ」を手にした人々に思われた1877年は動乱の20世紀の前章でした。今の時代に困難に見舞われる人々にとって、愛の有無は人生と心の大部分を占める重要な問題です。20世紀は19世紀よりも現実に愛の力が考え抜かれて、21世紀は20世紀の考えを引き継いで始まりました。
 いまの世間にはアンナのような考えの人も、ヴロンスキーのような人も、カレーニンのような考えの人もいます。現代では誰でも、登場人物と同じ恋愛観の人物を現実に一人は知っていて、その誰もが間違っていないと受け止められています。ですから面白い、分かりやすい、誰かに似ている、身近な話に感じる、と思えたとしても、トルストイが生きていた頃に読むのとはまた違った小説の感想になる現代で「アンナ・カレーニナ」は新鮮で意味のある読書になる大作に選ばれるのではないでしょうか。

「トルストイに登場する世紀末ロシアの美女「アンナ・カレーニナ」」完

©2024陣野薫


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