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ドイツ人が想像した仏教の開祖「シッダルタ」

🖋Pdf版もございます。

 「シッダルタ」は、ドイツ人作家のヘルマン・ヘッセが記した仏教の開祖の一生を綴った物語です。ブッタとも釈迦ともシッダルタとも呼ばれる、紀元前のインドに実在していた「シッダルタ」は、本場の仏教の思想を伝える物語ではありません。西洋社会が仏教をどのように嚙砕いて、どのような関心を向けて、なにを魅力の真髄と感じたのか、西洋人のつもりになって考えさせられる物語です。
 
 「シッダルタ」の主人公は現在のインドに生まれます。母親は王妃で、父親は国王です。同じころに城に仕える召使の子供に生まれたゴヴィンダは、生まれながらの召使でシッダルタの友人です。シッダルタはいつもゴヴィンダを連れて城の中で何不自由無く暮らしていました。国王は、いまは利発な皇子がゆくゆくは賢い王に成長するように、息子の教育係に一流の学者を任命しました。シッダルタには、いつも大勢の召使と博識な学者が仕えていました。幼年の頃から城の誰よりも賢かったシッダルタは、子供ながらに立派な大人たちから教わる世界の真実が、城の中の常識とは掛け離れていることに気づいていました。城の中にいては本当の世界を知ることはできないと思ったシッダルタは、友人のゴヴィンダを連れて夜の城を飛び出しました。
 王族の身分を捨てたシッダルタは、僧侶になって本当の世界を知るための修行を始めました。大勢の修行者と一緒に修行の旅を始めて、断食と、待つ技と、考える技を習得しました。この三つの特技を習得した修行者の目には、世界に起こるあらゆる出来事が、全て等しく虚しく見えます。人が喜んだり、悲しんだり、怒ったりするのを見ると、その感情を起こさせている原因が世界の普遍的な法則に基づいている当然の成り行きだと分かるので、いちいちそれに振り回されて喜怒哀楽を表す人々が等しく無知で愚かしく見えるのでした。一通りの修行を終えたシッダルタは、今度は自分の内なる世界を見つめる修行を、一人で始めたいと思いました。シッダルタは名の知れた高僧のゴータマに出会って、どんな立派な人物からであっても、人から与えられた知識を頼りにしていては、到底自分自身について知ることは出来ないと気づきました。修行者の一団と別れて、生まれてこのかたずっと共に生きてきたゴヴィンダとも別れて、生まれて初めて一人きりになったシッダルタは子供から大人に成長しました。
 シッダルタは、修行をしていた森をぬけて街を訪れました。街では洗練された遊女と賢い商人と、そのほかの大勢の友人ができました。シッダルタは街の人間の生活振りを観察して多くを学び取るつもりでしたが、思いもかけずに街の人々から好かれました。人々は、シッダルタがどんな話題にも耳を傾けてくれるので喜びましたし、シッダルタも、高尚な自分では想像もつかない無知を語る人々に興味が尽きませんでした。シッダルタは自分を見つめる修行の一環として都市生活に馴染もうと努力しましたが、都会の人々の誰とも馴染めず、それは自分が賢すぎるからだと思っていました。しかし、少しづつ少しづつ、本人すらも気づかぬ間に、長い年月を費やして街の暮らしを味わい尽くした修行者の才気は都市生活で衰えていました。シッダルタは自分に悪影響を及ぼす街を立ち去りました。なにも持たずに住んでいた豪邸を飛び出して、二度と街には戻りませんでした。
 街で暮らしている間に、シッダルタはかつて修行で身につけた、断食、待つ、考えるの三つの特技を失くしていました。修行生活に戻ったシッダルタは本当の意味で、真新なシッダルタでした。様々な経験が幸いして、皇子でも、半人前でも、僧侶でもない、何にも染まっていまい純真なシッダルタになっていました。ただのシッダルタは、いままでよりも楽に世界を知ることができました。何にも飾られていないシッダルタが感じる世界は、それは何にも歪められていない真実ありのままの世界であることに間違いありませんでした。
 本当の世界を感じられるようになったシッダルタは、世界の真実を知識のように知り始めました。そんなシッダルタでも、父親になる方法には無知でした。シッダルタは自分に子供がいることは知りませんでしたが、いると分かると喜んで父親になろうとしました。しかし、子供に父親と認めてもらえず、挙句の果てに失踪されてしまいました。どれだけ本物の知識を蓄えていても、まったく新しい挑戦に立ち会えば、それまで得た知識をもってしても人は賢くいられません。シッダルタは子供に出て行かれてから無学者に戻ったように悲しみに暮れました。そして、ふと自分が子供にされたことは、かつて自分が父親にしたことだと気づきました。あらゆることは繰り返されて、全てのものが世界の中を回っていました。シッダルタは世界の仕組みに気づいて、ついに世界の真実を知りました。
 世界の本当の姿を知ったシッダルタは、なにものも分け隔てなく考えるようになりました。平等な目で世界を観察して、いつ何時の何処の何にも世界の真実を見出していました。シッダルタの精神は落ち着いて満たされていました。ただの高僧であれば、真実を探す目的でしか目を開かないので、世界を見ていても多くのことを見落としてしまいます。それでいて人に指導することも指導されることも好んでいました。全ての僧侶は、世界の真実を知る人物から教えを受けるまで世界の本当の姿について悩みぬくつもりでした。シッダルタはついに世界のすべてを知ることが叶っても、それを誰にも語りませんでした。世界の真実は言葉にならず、人から人に教えることができなかったからです。
 
 ヘルマン・ヘッセは、作家が想像したシッダルタの人生に世界中の人が興味を抱いている仏教的な思想を託していると思います。「シッダルタ」はブッタの別名ですが、物語で展開される仏教思想は、ブッタの教義と似通らない個所もあります。しかし、世界中で一大ムーブメントになったメディテーションなどの仏教文化から、多くの人が学びたい、もっと知って理解を深めたいと思った思想は、ヘッセの「シッダルタ」に込められた思想ではないでしょうか。
 ヘッセが想像したシッダルタは、彼のセオリーにおいて完璧な生き方をしています。自分の願いを叶えるためだけに生きていて、人生でただの一度も自分の生き方に迷いません。徹頭徹尾個人主義を貫くのは少し高慢な気もしますが、自分の人生に満足するには悪い生き方ではありません。しかし皆で力を合わせて全員が団結しなければならない状況では、根拠に裏打ちされた生き方であっても時代に否定されてしまう時があります。そうなった時代や環境をどの程度まで受け入れられるのか。「シッダルタ」の物語にリスペクトを感じるのか、感じないのか。主人公のように生きたいと思う気持ちが、湧くのか、湧かないのか。自分がどの程度の個人主義者なのか知ることも、どれほど個人として尊重されたいと思っているのか予め自分の考えを整理しておく切掛けにもなる。ヘッセの「シッダルタ」はそんな小説だと、私は思います。

「ドイツ人が想像した仏教の開祖「シッダルタ」」完

©2024陣野薫



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