表紙_ニッパー

ニッパー(小説・過去作)

 ニッパーという犬を、御存知でしょうか。いえ、知っていなければならないという事ではありません。
 もしこの話を読んでから、あなたがその犬に興味を御示しになれば、調べていただく程度で結構です。

 二橋が東京に出てきて、既に六年が経っていた。仕事も順調で、都会の暮らしにすっかり染まっていた。田舎から出てきた当初の戸惑いなど、今では鼻で笑って思い出すぐらいに。
 彼は中学生の頃、田舎から都会に出る決心をつけていた。その為勉強も人一倍励んだ。元々頭の良かった彼はその結果、東京の一流大学に合格。そのまま単身東京へ。若さ故か、その時の彼に迷いなど無かった。だが、彼にとって初めての都会、それも知り合いなど一人も居ない未開の地。迷いはなくとも、戸惑いはあった。人の多さ、人の無関心さ、電車という乗り物の複雑さ、どれをとっても、彼にとっては初めての体験。しかしながら、その体験は彼に戸惑いを覚えさせたが、同時に期待を膨らませた。これが都会、ここから人を動かす何かが生まれる。そう思えてきて仕方が無かったのだ。
 大学の寮に入り、初めての一人暮らし。田舎では無かったプライバシーが、そこにはあった。狭い部屋ではあったが、そこは二橋だけの空間。寂しさが彼を襲っても、それを上回る自由さがあった。出来る事は限られているのに、彼は自由を感じていた。これが、彼が都会に出てきたかった理由の一つ。
 田舎の、他人に干渉しすぎるところが、彼にはたまらなく嫌だった。田舎の大人、特に高齢者達は、田舎に住んでいる人間を全て身内として見る傾向にあるせいか、誰彼無しに親しみを持って声をかけたり、何故か情報を掴んでいたり、すぐに噂を流そうとする。そのくせ、他所から来た人間に対しては警戒心が強い。特に都会から来た人間に対しては。二橋はそんな大人達が大嫌いだった。
 二橋の大学生活は順風満帆であった。友人も出来て、サークル活動にも精を出し、授業もそつなくこなし成績優秀。首席とまではいかなかったが、彼はそれに近い成績を残し、有名企業の内定を貰い、卒業した。
 そしてその企業に就職をして二年、今に至る。

「二橋さん。今日飲みに行きませんか」
 二橋は同期の女に声をかけられた。
「今日も、でしょ。ちょっと飲みすぎですよ、高橋さん」
 彼女の名は高橋。二橋とは飲み友達であり、それ以上でも以下でもない。二橋が思うに、彼女の難点は少しお酒を飲みすぎる点だ。二橋も高橋も、酒には強いが、そのせいで飲みに行く時に使う金が、他の人よりも多くなってしまうのだ。それなのに、高橋はよく飲みに行きたがる。毎度付き合わされるのは二橋。高橋曰く、せっかくの酒の席を誰かの介抱で台無しにしたくない、だから自分と同じ量を飲ませても大丈夫な二橋をよく誘う、との事。二人とも有名企業に勤めていて独身なので、あまり金には困らないはずなのだが、そんなお酒のせいであまり財布の中身は芳しくない。
「大丈夫です。今日はクーポン持ってますから。最初の一杯は無料です」
 高橋は雑誌で見つけたクーポンを、何故か誇らしげに、二橋の目の前でヒラヒラとさせながら見せている。それを見ながら二橋は、呆れて溜め息をついた。
「そういう問題じゃないでしょ」

 結局飲みに行く事になった二人、というより二橋。二人がやってきたのはオシャレなダイニングバー。アジアンな感じを売りにしているような所で、二橋はこのような雰囲気の店は少し苦手だった。周りは女だけの客が大半。ちらほらと男が居ても女連れのカップルか夫婦。とにかく客の九割が女である。二橋はそこからくる店の空気が苦手なのだ。
 カウンターの席に案内され、座るとすぐに店員がおしぼりを渡しに来て、ファーストドリンクの注文を訊ねる。
「このクーポンで最初の一杯は無料ですからねぇ。えへへ。あっ、私ビールで」
 お酒が飲めるという事で、既に高橋の口元は緩んでいる。本当にお酒が好きなんだな、と二橋はいつも彼女と飲みに来ると思うのだ。
「俺もビールで」二橋が注文すると同時に、高橋がメニューを開いて舐める様に見つめる。今、彼女の思考はつまみと食事に移っている。そのメニューの中で写真が載っている料理を見つけると、ペロリと上唇を舌なめずりする。二橋がそれを最初に見た時、あぁ本当にこんな事をする人が居るんだ。と笑ってしまった。それもこの高橋は、俗に言うぶりっ子を演じている訳でなく、天然でこういう仕草をしてしまう。同性からはあまり好かれるタイプではない。
 そこそこのお酒が彼らの胃袋に入った時、二橋の携帯が鳴り始めた。彼はすぐに誰の着信かを見てから、電話に出た。この時、電話を掛けてきたのは幕田という人物。
「よう、幕田か。あぁ、いいよ。ちょっと待ってくれ。高橋さん、ちょっとスイマセン」
 彼は高橋の方を向き、軽く頭を下げてからそのまま外へ出て行った。取り残された高橋は口を尖らせながら、お酒のお代わりを頼んだ。ちなみにこれで十杯目である。
「今、また飲んでるんだ。今日は何か用事があるのか?」二橋は外に出ると、耳に電話を当てて、幕田に話しかける。すると幕田は、
「うん。久しぶりに田舎に帰ってこないか。遊ぼうぜ」などと、まるで学校帰りの小学生が約束するような遊びの約束を、彼はわざわざ電話をかけてまで、二橋に伝えた。二橋は思わず吹き出してしまった。昔から変わらない彼のせいで。幕田という人物は、常にマイペース、冷静でしっかりしている。そのくせ、どこか抜けているというか、天然なところがある。そういうところは高橋に似ている。
「そうだな、久しぶりに遊びたい。仕事の暇を見つけたら行くよ。そういえばずっと帰ってなかったんだな。あまりそんな気はしないけど、お前のせいだよ、全く」
 二橋は笑いながら、楽しそうに電話に向かって、喋っている。このお前のせいというのは、幕田は二橋が都会に引っ越した以降に、同性の友人という関係から見れば、結構な頻度の電話を掛けていた。特に引っ越してからしばらくは、二橋の事を気遣う幕田の優しさからか、電話の回数はまるで恋人のようだった。二橋はその時、よく苦笑いをしていた。それでも彼は嬉しかった。
「それじゃ、また連絡くれよ。じゃあの」
 幕田はそう言うと電話を切った。電話が切れたのを確認すると二橋はすぐに店の中に戻り高橋の隣に座り直した。高橋はいつも結っている髪をといていた。長い黒髪を指でくるくると回しながら頬を膨らましている。これは高橋が怒りを表現する時にとる仕草なのだ。
「いつもいつも、飲みに行く時、これからだぁって時に電話がかかってくるじゃないですか。もしかして彼女さんですか? そうなら私なんかと飲んでいていいんですか、それも連日」
 これを聞いて二橋は、彼女が怒っているという事に気付いた。だが何故、怒っているのかはあまり理解していない。
「いや、彼女じゃないですよ。小学生からの友人なんです。こっちに来てからはほとんど地元の友人との交流は無くなりましたが、この幕田って奴だけは未だに友達、いや親友です」
「へぇ。そうなんですか、可愛いんですかぁ?」
「幕田は男ですよ」それを聞いて高橋は心の中で少し安堵した。その安堵は、二橋をこれから、もう飲みに誘えないかもしれないという心配から解放されたからだ、と高橋は自分に言い聞かせた。
「そういえば、二橋さんって地方出身でしたよね。二橋さんと出会ってそろそろ二年経ちますよ。もっとお互いの事知るべきですよ」
「確かにそうですけど」二橋は少し困った顔をした。実はこの二人、同期なので入社からの付き合いになるのだが、いつも飲みに行って話すことは仕事の話ばかりで、出会い始めも、プライベートな話もあまりせずに終わらせてしまったせいで、突っ込んだ話をする機会を、失っていたのだ。
「さっきの幕田さんの話、聞かせて下さいよ。上京してからも電話を掛けてくれるなんて、とても仲が良かったんでしょ」
 高橋がそう言いながら、手に持っていたお酒を飲み干した。それを見て二橋は財布の中身が気になった。これではクーポンなどまるで意味をなさない。
彼はあまり自分の話をしない。それは他人にプライベートな事を根掘り葉掘り聞かれる事を嫌っていたからだ。しかし今は話をしないと高橋のお酒のペースが益々上がる事の方を恐れていた。
「分かりました。酒の肴代わりに話しましょう。だから少しペース落として下さい」
「はぁい」返事をすると同時に、高橋はお代わりを頼んだ。

 二橋が都会に出る決心をつけた中学生の頃から既に、田舎に嫌悪感を抱いていた。田舎に一つしかない中学校。若者はあまり居なかったせいで、クラスは一つしかなかった。それでもまだ、小学校と同じ校舎ではないだけマシな方だった。だが二橋は気に食わなかった。それは彼が田舎という世界の狭さを、痛感させられる事に変わりはなかったからだ。
 学校の級友や先生はもちろんの事だが、家の周りの人間、あるいはそこいらを歩いている人全員が顔見知りだった。二橋は別に仲良くなりたいと思っているわけでもないのに、田舎の人間達は身内には馴れ馴れしい。それにその身内という範囲が恐ろしく広い。その土地の出身というだけで身内にされてしまう。それの何が嫌か。二橋は馴れ合いが嫌いな訳じゃない、だが勝手に仲間にされて、勝手に人のプライバシーを侵害するような連中は嫌いなのだ。
 二橋は都会を目指す為に、中学生の頃から猛勉強を始めた。どうせ都会に出るなら中途半端で無く、天下を取ってやるという気持ちで出ようと興奮していた。そして田舎でも中学生に不良は居る、むしろ田舎だからこそ居る。中学生になり、突然勉強を始めた彼は、彼らの標的にされた。二橋も黙ってやり過ごせばいいのだが、そういう連中に対してわざわざ挑発をして噛み付いていく。しかし彼は決して自分から喧嘩を売ったりはしなかった。なので挑発といっても、軽く流す時に毒舌を吐いたりする程度のものだ。そうすると向こうも黙っちゃいない。いつも連中から喧嘩を売ってきた。二橋は絶対、売られた喧嘩は買う主義だ。そして買った喧嘩は必ず勝ってきた。勉強ばかりではなく、腕っぷしも鍛えていたのだ。頭だけでは駄目だ、力だけでも駄目だ。文武両道でなければならないというのが彼の方針であった。
 しかしそうすると、二橋の周りに級友が寄り付かなくなった。ガリ勉で声をかけ辛い状況と更に、怒らせると怖いというイメージがついてしまったのだが、二橋は特に苦を感じてはいなかった。そんな時、小学校から、といっても級友全て小学校からの友人だが、その中でも一番仲の良かった幕田だけが、いつもどおりの態度で彼に接していた。二橋は最初、その幕田の好意が鼻につき、あまり相手にしなかった。どうせ良い人と思われたくて俺に声をかけているんだ、と捻くれた考えが前に出てしまう為、素直に幕田の優しさを受け入れる事が出来なかった。
 幕田に冷たく接する二橋。それでも幕田は普段どおりに接していた。段々その事について二橋は腹が立ってきていた。構われる事で同情されている気分で、なんとも言いがたい気持ちになり、ある日の学校から帰宅する時、また声をかけられた二橋は、幕田に怒鳴り散らした。
「いい加減にしろ。なんで俺にずっと声かけんだよ。分かってんだろ、俺がクラス全員から嫌われてるって。なのにわざわざ俺に声かけて、良い人アピールすんの、やめろ。同情されてるみたいで気持ち悪いんだよ」
 声を荒げる二橋。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。幕田はそんな二橋を見て、真面目な表情をしたまま、ゆっくりと喋り始めた。
「同情なんかしてん。それにお前に声かける事でええ人アピールしてる事になるなんて思うた事もない。俺はいつもどおり、お前に声かけてるだけだ」
 幕田は少し悲しげに微笑むと、こう続けた。
「でも、お前が俺をうざいってんなら、すまんかった。お前の事さらさら分かってんかった。声をかけるのは控える。だけど友達じゃけぇな、たまにゃ遊んでくれよ」
 彼はそのまま一人で帰ってしまった。二橋は悲しげに歩く幕田の背中を見て、自分の馬鹿さ加減に気付いたのだ。だがその日は、彼の背中に声をかける事が出来なかった。
 次の日、幕田は二橋に声をかけなかった。二橋は気にしないようにして、勉強を始めた。一人の方が集中出来る。友人など居ない方が捗る。二橋はずっとそう信じてきたが、今の彼は全く集中など出来なかった。心の違和感。級友から一歩引かれてもなんとも無かったのに、今の彼には何かがある。彼はその理由を分かっていた。幕田に昨日あんな事を言ってしまった為である。そのせいで幕田は二橋に声をかけなくなった。ずっと鬱陶しく思っていたはずなのに、彼の心は何故かぽっかりと穴が開いてしまった。
 それから数日、幕田は二橋に全く声をかけなかった。その間の二橋はまるで抜け殻のように気が抜けていた。幕田の存在は、二橋自身も気付いていなかったが、とても大きかったのだ。二橋は強がっていても内面は寂しがり家で、傷付きやすい、弱い性格を持ち合わせているのだ。彼は自分でその事を知らなかった。いや、認めようとしなかったのだ。だが今回の事で二橋は自分の弱さを認めた。しかし認めたところで彼にはどうしようもなかった。幕田に自分から声をかけるなんて、あんな事を言ってしまったから、二橋は激しく後悔し始めた。幕田は元々何も変わってはいなかった。二橋が不良達ともめた後、級友の彼を見る目は変わった。悪い方に。しかし幕田は、まるでそんな事は無かったかのように声をかけていた。そもそも、幕田はよく二橋に声をかけていたのだ。普段どおりだったのだ。それを二橋は。
「俺が馬鹿だった。どうしたらいいんだ、どうしたら」
 彼がそう呟きながら、学校から帰っている時。近道して人通りがない道を歩いていたら突然、背中に強い衝撃と共に痛みが襲ってくる。二橋は思わず倒れこんでしまい、何が起こったのか確認する為に後ろを振り向くと、あの不良達が立っていた。リーダーらしき者の手には、金属バットが握られている。二橋の背中は、それで殴られたのだ。
「われぇ、こないだはようもやってくれたの。あん時の借り、返させてもらうぜ」
 そういうとリーダーはバットを振りかぶり、二橋の右足に思い切り振り下ろした。二橋の足に激痛が走り、足の神経を一つ一つ潰していくかのようなビリビリとした電気みたいな痛みが徐々に襲ってくる。二橋は唐突過ぎるこの事態を、あまりの痛みが襲ってきたせいで、理解するのに時間がかかってしまい、二発目のバットを避ける事が出来なかった。
「これでもう逃げられねぇ」
 不良の言うとおり二橋は今、立つことが出来ない。右足がいう事を聞かない、下手すれば骨が折れているかもしれない。そんな彼を不良達は蹴り、殴り、動かぬ者に対して、非情なリンチ。二橋は、生まれて初めて、死ぬかもしれないという危機を感じた。まさかこんな田舎で、すぐに誰が何をしたかという噂が流れるちっぽけな田舎で、こんなリンチが行われるなど二橋は予想もしていなかった。油断していた。
 突如、不良達の暴行が止まった。二橋は顔を防御していた腕の隙間から、何が起こったかを見た。そこには幕田が居た。不良の内、一人が倒れている。どうやらリンチしている最中に幕田が、不良達が二橋にしたように奇襲をかけたのだろう。あの幕田が暴力を使った事に、二橋は驚いていた。しかし不良達の人数は五人。内四人が今、戦闘態勢。幕田は喧嘩が強いわけではない、勝てる状況ではなかった。
「もうやめてくれ。そんなリンチをして何が楽しいんだ」
 幕田が今までに見せたことのないような、怒りの形相をしていた。それでも冷静に、リンチを辞めるように抗議し始めた。それを聞いて不良達も怒涛の反論。
「われぇ、俺達の仲間に手ぇだしといて何言っちゃがる!」
「これでおあいこ、って事にせんか。だから二橋を解放してやってくれ」
「っるせぇ!」
 リーダーが思い切りバットを振り上げ、幕田に殴りかかろうとする。幕田が一瞬、目を閉じてしまった。二橋はそれを見て、幕田はリーダーのバットを避けられないと判断すると、とっさにリーダーの足を掴んだ。
「うわっ」
 足を掴まれ転び、リーダーの持っていたバットは幕田の肩をかすり、そのまま彼の手からすり抜け、道の端へと転がっていった。リーダーは転んだ時に、顔を地面に打ち付けていた。彼が痛がっている瞬間を二橋は見逃さず、右足を引きずりながらも彼に近づき、彼の上にのしかかりマウントポジションをとった。そして二橋は迷いもなくリーダーの顔めがけて何発も、拳を振り落とした。彼はマウントをとられているせいで、何の抵抗も出来ない。不良達が二橋をどけようとするも、二橋は物凄い力でそれを払いのける。そして何発も何発も、拳が二橋とリーダーの血で真っ赤に染まっていくまで彼は殴り続けた。その光景に、先ほどまで二橋を止めようとしていた不良達も、幕田も、あまりの恐怖に動くことが出来なかった。
「俺の、友達に、絶対、手は、出させねぇ!」
 二橋は殴りながら叫んだ。リーダーはこの時既に意識はなかった。この声に反応したのが幕田。すぐに二橋のところに駆け寄り、彼を制止した。
「二橋! やめぇ! それ以上は駄目だ!」
 幕田の声を聞き、やっと二橋は手を止めた。そして不良達はすぐさま、リーダーを連れて逃げ帰っていった。残された二橋と幕田。二橋の体も、相当ボロボロであった。こんなにボロボロになっていたのにあんな力が残っていた事に、幕田はもちろんだが、二橋自身も驚いていた。
「ありがとうな」二橋は幕田に手を差し伸べた。幕田は笑ってその手に自分の手を重ねた。すると二橋は「イタタ」と思わず声を出した。拳は血で染まっていた。幕田は自分の持っていたハンカチを取り出すと、すぐにそれを二橋の拳に巻いた。
「こりゃ重症だぞ。病院行こう」
「やられたのは足なのに、どっちかっていうと、こっちの方がヤバいかな」
 幕田は二橋に肩を貸し、そのまま病院へと歩いていった。その途中、二橋が幕田に聞いた。
「でもなんで、お前があそこにやってきたんだ」
「忘れたんか、あの近道は俺が教えたんだろ。たまたま俺も今日、あの近道を使っただけさ、たまたまさ」
「たまたまか、ハハッ。あー、痛いなぁクソ」
 二橋は笑った。幕田もそれに応えて笑った。

「それから幕田との関係は戻りました。まぁその不良達との一件で、更に田舎に居づらくなってしまいましたね。高校も田舎に一校しかなくて、とても気まずかったですね」
「二橋さんって、喧嘩強いんですねぇ。でもそんな感じしますよ。細い割には、結構筋肉ありますもんねぇ」
 高橋が二橋のお腹をさすり出した。二橋はそっとその手を掴み、やめさせた。
「幕田はそれからもずっと友人で居てくれた。周りの人たちも、時が経つにつれて段々自分に対する反応も、和らいではいきましたが、それも幕田のおかげなのかもしれません。あいつはどこか、居るだけで人を安心させるようなタイプですから」
「良い人なんですねぇ、幕田さんって。一度会ってみたいですねぇ」
 高橋が空のコップのふちを指でなぞっている。良く見ると高橋の顔は真っ赤だった。酒に強いはずの彼女がこんなに酔っている事に二橋は驚き、すぐに店員に確認した。
「すいません、今いくらぐらい飲んでますか」
「少しお待ち下さい。えー、今お二人で三万五千円ですね」
 二橋はがっくりとうなだれた。話をしている最中にいつの間にか、高橋が大量にお酒を浴びていて、それに対するつまみも頼んでいた事に気付かなかった。高橋は赤い顔で笑った。
「えへへぇ。クーポンあるから大丈夫れすよぉ」
「そのクーポンは最初の一杯だけでしょう……」
 二橋は小さく「この酔っ払い」と呟いた。

 二橋が幕田と会う約束をして以来、会社が忙しくなった。前々から企画していた大プロジェクトが本格的に稼動し始めたのだ。二橋はそのプロジェクトを達成するに当たって重要な位置を与えられた。これは名誉な事である。仕事が出来る事を上から認められたのだ。わずか入社二年程度で、彼は大きな仕事を任せられた。元々休みをあまり取れない仕事であったのに、これにより更に休みを取れなくなり、幕田との約束はなかなか果たせないまま時間は過ぎていった。
「そうなんだよ。最近忙しくて忙しくて、飯もろくに食えないんだよ」
 それでも幕田との電話は今も続いている。暇な時間があれば、お互いに電話をかけていた。今は二橋が忙しくて帰る事も滅多に出来ず、会社に泊まりこんでいる。なので電話は最近、寝る前が多くなった。
「プログラマーって仕事は大変って聞いとったけど、本当にそうなんだな。でもやっぱり二橋は凄いわ。入社二年でそんな大きな仕事任されるなんて。精々体を壊さないようにな」
「分かってらい。それよりも幕田、前から思ってたけど、なんかお前、声にハリがなくなってないか。たまに聞こえ辛くてな」
「電波が悪いだけさ、こっちゃ田舎なんだよ。都会とは違って電波が全然立たのぅてよ」
 幕田は笑うと、咽たような咳を出した。二橋はそれを聞くと少し不安になった。
「おいおい、風邪でもひいてるんじゃないか。農業だって大変な仕事なんだろ、お前も体壊すなよ」
 二橋が忠告すると、幕田は「大丈夫、じゃあそろそろ寝るわ」と言って電話を切った。二橋は少し心配にもなったが、今は仕事に集中しなくてはならない。本人が大丈夫とは言っているが、元々幕田は体が弱く、それを気にしてか周りに心配をかけぬよう、大丈夫大丈夫と意地を張る時がある。それを知っている二橋は、やはり心配だった。確かに仕事は忙しいが、少しぐらい休みを取って幕田に会いに行こうかと考えた。だが会社がそんな理由で休暇をくれるだろうか。それに幕田がもし本当に何もなかったら。今の仕事が一段落してから、ゆっくり会いにいけばいい。そう思い、二橋は仕事で疲れた体を癒すため、眠りについた。
 それから数日が経った。二橋の仕事中に電話が掛かってきていた。それに出ることは出来なかったので、着信履歴を見ると、知らない番号からだった。誰か分からない番号にはあまり掛けないようにしているのだが、三回ほど掛かってきていたので、急な用事で掛けてきているのかもしれないと考え、暇を見つけてその番号に電話を掛けてみた。発信音が鳴り、電話に出る音が鳴る。
「もしもし」二橋が言うと、同じく「もしもし」と返ってきた。その声を聞いて、二橋はそれが誰なのか、何となく予想がついた。
「幕田か?」
 電話に出た声は幕田に似ていた。というより幕田そのものだった。
「はい」どこか他人行儀な返事だという事に、二橋は気にもせずに話を進めた。
「どうしたんだ。この時間に掛けてくるなんて珍しいな。俺はまだ仕事中だからさ、また後で掛けてくれないか」
 二橋が電話を切ろうとした時、慌てて幕田の声らしき人物が、それを止めようとした。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕は真二です。幕田真二ですよ」
 二橋はそれを聞いて、フッと思い出した。幕田には弟が居たことを。そしてその弟の名前が、真二である事も。
「ああ、ごめんごめん。電話越しだと凄く声が似てるから間違えちゃった。てっきり携帯を変えて、その報告なのかと思っちゃって。だけど珍しいね、俺に電話かけてくるなん……」
 ふいに嫌な予感が二橋の脳裏を走る。幕田の弟が電話を掛けてくるなんて、普段では有り得ない事だった。二橋と真二は面識こそあれど、それこそ友人の弟と兄の友人という関係。特別親しい訳ではなかった。だから番号も知らなかった。そんな弟からわざわざ電話を掛けてくるというのは一体どういう事なのか、二橋の心臓が徐々に、静かに、早く動き始める。
「兄が倒れました」
 その言葉で、二橋は驚倒し、そのままへたり込んでしまった。真二はそんな事は知らずに、震えた声で事実を述べていく。
「今は病院で安静にしていますが。今度手術をするらしくて、どうやらそれが難しい手術で、失敗すれば兄は――」
 二橋にはそれ以上の言葉は入ってこなかった。彼は目の前の世界がグルッと回り。頭の中に浮かんだのは、幕田の顔。
 彼が気付いた時、携帯からは電話が切れた機械音が、何度も何度も、繰り返し静かに響いていた。

「何言ってるんだお前は!」
 高橋が仕事中ながらも、心配そうにチラホラと見つめる先で、上司が二橋を叱咤している。
二橋がプロジェクトの仕事を休み、幕田の見舞いに行くと言い出したのだ。会社はそんな理由で、プロジェクトを一任させている社員を休ませる訳にはいかない。それは二橋もよく理解はしているが、今の彼には冷静な思考をするのは無理だった。
「お前に抜けられると困るんだよ。今が一番攻め時なんだ。ここで気を抜くと他社に出し抜かれる。そうなるとこの会社は大きな損失を出すことになる。お前がここで抜けると確実にその損失を出すことになるんだ。それぐらいお前は戦力になっている。頼むから俺を困らせないでくれ」
 上司は必死に硬軟おりまぜた説得を続ける。実際に今、二橋が抜けるとプロジェクトが成功する確率が手痛いぐらいに減ってしまう。
「私が抜ける事で会社が困るのは重々承知しております。しかし私の代わりは」
「いないんだよ」上司が二橋の言葉に被せるようにして口を挟む。どちらも一歩たりとも引く気はない。社会的に考えれば上司が正しい、常識的に考えても。しかし人情的に考えれば二橋の考えも分からないでもない。しかし上司はそんな事を考えもしなかった。
「大体な、友人の見舞いに行くから仕事を休むなんて、例えこの忙しい時期じゃなくてもそんな理由で休ませる訳にはいかないんだ。ここは会社なんだ。学校じゃないんだぞ」
 上司が声を荒げて二橋を怒鳴りつける。その怒鳴り声の中の言葉に、二橋は反応する。
「そんな理由。ですか」
 二橋が拳を握り締めるのを高橋は見た。
「人が死ぬかもしれないというのが、そんな、程度の、理由、なんですか」
 声は震え、拳を更に握り締めた。
「そうだ! まだ死んだわけじゃないだろ。どうせお前が行ったってどうなるわけでもない。それにもし死んだら葬式に行ってやればいいだろ」
 二橋がその言葉を聞いて思わず拳を振り上げると同時に、高橋はすぐに立ち上がり、二橋のもとへと駆け寄った。
「すいません! ちょっと急な仕事が入ったんで、二橋さん借りますね!」
「お、おい」
 高橋は上司が何かを言おうとする前に二橋が振り上げた腕を掴み、そのまま彼を引きずりながら部屋から出た。上司は呆気にとられていた。
 二橋を連れ出した高橋は、そのまま屋上へ二橋を連れて向かった。屋上に着くと高橋は軽く息を整えてから、二橋の目を見た。
「二橋さん、気持ちは分かります。友達が手術するんでしょ? 聞いてました。だけど今は」
「幕田なんです」二橋は煙草を咥え、火を点けた。深く息を吸ってから、白い煙を吐き出した。その煙が二橋の周りを漂っている。
「幕田が来週に手術を受けるんです。それも五分五分の可能性で。もし失敗すれば、助からないだろうって」
 煙草を持つ手が震えている。彼の目は潤んでいた。彼の表情からは怒りと悲しみが読み取れる。高橋は言葉に詰まってしまう。今の彼に、仕事か友人、どちらを取れとも言えないからだ。仕事を休まれると、会社に影響が、強いては自分にも影響がくる。だが、彼が幕田を心配する気持ちも分かる。だから仕事を取れとも、心の底からは言えない。無責任な言葉になってしまう。二橋も高橋も、黙り込んでしまった。
「やっぱり俺、幕田の所へ行きます」
 二橋が沈黙を破り、煙草の火を消した。高橋は思わず二橋の腕を掴んだ。
「ダメです! 今、二橋さんが抜ければ――」
 二橋は言葉に詰まって涙目になっている高橋を見て、申し訳なく思った。だが彼の決意は変わらない。
「高橋さん、すみません!」
 二橋が高橋の手を振りほどき、そのまま駆けだして、階段を下りていった。高橋は必死に追いかけようとしたが、すぐに二橋を見失ってしまった。
 二橋は息を切らしながら東京駅に着いた。彼はすぐに切符を買い、電車を待った。その時彼は、昔の自分を思い出していた。
「そういえば、こういう風に家出をした事もあったな。電車には乗らなかったが、幕田の家に泊まらせてもらって。俺の餓鬼っぽさは、昔から何も変わっちゃいないんだな」
 電車がやってきた。その時、幕田から電話がかかってきた。二橋はすぐにその電話をとった。
「幕田、どうかしたか」
「二橋、真二から電話がきたかと思うが、俺は大丈夫じゃ。心配ない」
 大丈夫。と言っているが、幕田の声は前の電話の時より更に弱々しくなっており、大丈夫ではない事が声だけでも窺える。
「何が大丈夫だ! 今から電車に乗ってお前の所に行く、だから――」二橋はドアが開いた電車に足を動かした。
「馬鹿野郎!」
幕田が弱々しくも、声を荒げ、怒りを表した怒声を二橋に向けて叫んだ。二橋は思わず足を止めた。彼は幕田のそんな声を、今まで聞いた事がなかった。
「今、お前は、大事な仕事を任せられてるんだろ。なら俺の所なんかに来とる場合じゃなかろう。俺の事より、お前は自分の事を考えろ。お前は今、夢を叶える為に仕事をしているんだろ。俺はお前の夢を、大都会で大成功を収めるっていう夢を、俺のせいで壊しとぉないで。だから、来るな。来ないでくれ。お願いだ」
 幕田の声はまたハリが無くなり、小さな声に戻っていたが、その声に力強さを二橋は感じた。二橋はしばらく黙っていた。そして、電車のドアが、彼の目の前で、ゆっくりと閉まっていった。
「分かった。行かないよ。スマン。俺は仕事を頑張る。だからお前も、頑張って、生きてくれ」
「あぁ」二橋はその声を聞くと、電話を切って。東京駅を出ると、必死に辺りを見渡している高橋が居た。彼は彼女に気付き、近づいていくと、高橋も二橋に気付いて、彼に近づいていった。
「二橋さん、やっぱり、行っちゃうんですか?」
 高橋が息を何度も吐きながら、二橋に聞いた。
「いえ、やっぱり行かない事に」
 二橋が答えかけると、高橋の背が少し低くなっている事に気付いた。彼が高橋の足を見ると、いつも履いているハイヒールのかかとが折れていた。そのハイヒールが高橋のお気に入りであった事を二橋は知っていた。彼女が走って二橋を追いかけている時に、かかとが折れてしまった。二橋はその事に、思わず涙を流してしまった。
「ごめんなさい、高橋さん。ごめんなさい。俺の為に、俺の」
 高橋はニッコリと笑って、二橋の肩に手をかけた。
「私は大丈夫ですよ。さぁ会社に戻りましょう。私も一緒に謝ってあげますから」
 二橋は涙を自分の袖で拭きながら、高橋と共に、会社に戻った。
 その日の夜。二橋と高橋は会社に泊まりこんで、仕事を進めていた。上司にこっぴどく叱られた二橋は、自ら残業をする事にしたのだ。叱られたことだけが原因だけでなく、早く仕事を終えて、幕田の所へ行こうと考えていたのだ。高橋はそれを自主的に手伝っていた。
 深夜近く、いったん休憩を入れる事になった。
「こういう時の為に、買っておいてたんですよ。えへへ」
 そういうと高橋は、会社の冷蔵庫からワンカップを二本、取り出してきた。
「まだこれから仕事するんですよ」
「大丈夫、一杯ずつだけですから」
 高橋が嬉しそうな顔をしているので、二橋はそのワンカップを受け取った。そして二人はお酒をかわしながら、休憩を取った。
「二橋さん、幕田さんの話、もっと何かないんですか」
 高橋が切り出す。二橋は「ありますよ」と言って、窓の外で光る街を遠い目で見ながら、二橋と幕田の、高校生時代の話を始めた。

 二橋が東京の大学に行くと言った時、彼の親は大反対だった。親は彼に実家の家業を継がせようとしていたからだ。しかし二橋は全く家業を継ぐ気はなかった。家業を継ぐなら、今まで勉強してきた事が全て無駄になってしまうし、何より田舎に留まりたくないのだ。
 周りの大人達は二橋ではなく、彼の親を支持した。田舎に若者が少なくなっているので、少しでも若者を、都会に行かせたくないのだ。だから二橋を支持するものは、少なかった。唯一、最後まで二橋の仲間になってくれたのは、幕田だ。彼は二橋の夢を聞いていた。
「幕田、俺はただ単に逃げる為に都会に行くんじゃない。都会で必ず成功を収めてやる。一流企業に入る、それも一介の社員では終わらない。そこから吸収するものはしまくって、独立をして、俺が一流企業を作ってやるぞ」
 不景気だったその時期からすれば、それは本当に夢物語のようだった。それを聞けば皆、二橋を馬鹿にするか、現実を語るばかりだった。しかし幕田は違った。その夢を聞いて、まるで自分の事のように目を輝かせて、胸を高鳴らせていた。
「二橋、お前なら出来る。俺にゃ到底そんな事は出来んけど、お前なら絶対出来るさ。俺は応援する。こんな田舎でくすぶっとるようなタマじゃないもんな、お前は」
 二橋はこの言葉が嬉しかった。誰もが反対する中、こんな風に賛同を得られるという事が二橋には、感動、感激であった。彼は幕田に励まされて、親を説得する決心がついた。
「駄目じゃ」しかし彼の父親は、その一言で彼の決心を全て潰そうとした。二橋はそれを聞いても、諦めはしなかった。
「俺は都会の大学、東京の大学に行きたいんだ。学力はもう合格水準を超えているんだ。後はあっちで暮らしていく為の資金、最初にかかる金だけで、後は全部俺があっちで働いて稼ぐから。せめてその金だけでも貸してくれ。絶対に返すから!」
 二橋はこの時、バイトも何もせず、全てを勉学につぎ込んでいた。そもそも彼の学校ではバイトを禁止していたのだ。
「駄目じゃ。われが勉学に励んでくれたなぁ嬉しいが、わしの仕事を継がのぉたらならんのじゃ。わりゃぁ長男だしな」
「長男だからって、なんで親父の仕事を継がなきゃならないんだ! 大体和菓子職人なんて仕事、継がなきゃならない理由が分からない! 誰か雇ったらいいだろう!」
「馬鹿野郎!」父親がそう叫ぶと同時に、二橋を平手でぶつ。突然の暴力に、二橋は歯を食いしばる事が出来ず、口の中を切ってしまった。
「和菓子作りゃぁわしの祖父から受け継がれてきた由緒正しい仕事なんじゃ! それをわしの代で消す事は出来ないんじゃ!」
 二橋は口の中の血を畳に勢いよく吐き出して、机を叩き、立ち上がった。
「何が由緒正しいだ! ただ家族で同じ仕事を続けてきただけだろうが! 俺はそんな仕事で人生は終わらせたくないんだよ!」
 激しい言い争いが続く。母親はそれを見ながら、止める事も出来ず、ただオロオロとするだけだった。その日は収集が付かず、結局何も答えが出ぬまま終わった。
 次の日、二橋は幕田の家に泊まりに行っていた。もちろん親には無断で。幕田は両親を早くに亡くし、弟と二人で暮らしていた。彼らの学費は、両親がまだ生きている時、信頼できる親戚に、自分達にもしもの事が起こったら自分達の財産を彼らの学費に当ててくれと頼んでいたのだ。しかしその為、幕田は高校で、真二は中学で卒業し、働かなくてはならない状況であったのだ。
「すまないな、幕田。だけどあの親父、俺の言う事は何も聞いちゃいない。ただ自分の考えを押し通そうとしてるだけだ」
 幕田はこの時、少し二橋が羨ましかった。自分の親が生きていれば、自分もこうして親と衝突する事があったのだろうか、なんて事を考えていた。
「でも、親父さんも辛いんやろう。たった一人の自分の息子が都会に出て行ってしまうなんて、寂しいんだろ」
「寂しいなんて」そう言いかけて二橋は思いとどまった。幕田は両親を亡くしている。父親はそれと同じような気持ちなのかもしれない。家族が遠くへ行ってしまう。特に幕田の場合はもう二度と会えないのだ。だから幕田には、二橋の父親の気持ちが分かるような気がするのだ。
「でも、もう二度と会えなくなる訳じゃないんだ。やから二橋の親父さんには悪いけど、俺は二橋に都会へ行って活躍して欲しい」
 微笑む幕田を見て、二橋は不思議に思った。何故幕田はこんなにも自分を支えて、持ち上げてくれるのだろうか。こんなにも応援してくれる友達なんて、幕田だけだった。
「幕田、何でお前は、俺の事をそんなに思ってくれるんだ」
 幕田は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑って答えようとした。
「それは」それに被せるように、真二が晩御飯の用意を持ってきた。
「ご飯出来たよー。もちろん二橋さんの分もありますよ」
「ありがとう」
「よし、とりあえず飯を食うか」
 結局、幕田の答えは聞けずに、その日は彼の家で眠りについた。
 翌日、学校は休みなので、二橋は幕田の家で何もせずにだらだらしていると、誰かがチャイムを鳴らした。幕田が出ると、そこには二橋の両親が立っていた。幕田が喋ったわけではない、金も持たずに家出して、辿り着く先は、仲の良い友人宅だとふんだ両親、田舎特有の人伝いネットワークを使い、幕田の家に居ると確信し、やってきたのだ。
「おい、いぬるぞ(帰るぞ)。これ以上、幕田君に迷惑かけるんじゃない」
 父親は緩やかな口調ながらも、怒りが見え隠れしている。もちろんこんな事では二橋は帰ろうとはしない。むしろ連れ帰しに来ておいてこんなにも偉そうな態度を取るなんて、と逆に二橋は帰ろうとする意思が薄くなっていく。何も言わぬまま、そのまま父親と二橋は睨み合っていた。父親も、息子の友人宅で怒鳴り声をあげまいと必死なのだ。しかし二人の怒りのボルテージが上がっていくのが、第三者の幕田にも分かるぐらいであった。このままでは本当に喧嘩でも始まるんじゃないかという空気の中、最初に言葉を出したのは、幕田だった。
「おじさん、二橋は帰らせます」
 この言葉に驚いたのは二橋だった。しかし次の言葉を聞いて、二橋は更に驚くのであった。
「その代わり約束して下さい。二橋を東京の大学に行かせる事を」
 これは二橋だけでなく、彼の父親も母親も驚いた。
「何を言っとるんじゃ、幕田君。君が友達思いなんは分かるが、こりゃぁわしら、家族の」父親が言い終わる前に、幕田が土下座をした。先ほどから幕田の言動に、誰もが驚かされている。
「確かに、これは僕には関係の無い問題だってのは、分かっとるんです。だけど、二橋にゃ夢があるんです。そして今まで、その為だけに、頑張ってきたんです。彼の成績の良さがその証拠です。彼はただ自分の夢を叶える為だけに、必死になって勉強をやってきた結果がそれなんです。僕はそれをずっと見てきました。確かにおじさんの言い分も分かりますが、せっかく彼が夢の為に頑張ってきた事を、無駄にさせるなぁあまりにも酷だと思いますけぇの。お願いです。彼を東京へ、都会へ行かせてやってください。彼にチャンスを与えてやって下さい」
 父親はその言葉を聞いて、何も言えなかった。息子の事で頭を下げられるなんて、想像にもしていなかったからだ。しかし一番驚いたのは二橋。幕田が唯一、自分を応援してくれている友人であるとは思っていたが、まさかここまでするなんて、まったくもって予想がつかなかった。有難いのだが、ここまでされると申し訳なくなる。
「幕田君、そこまでせんでもえぇから。顔を上げてくれ」父親が思わず声に出す。
「約束してくれますか」
 幕田は一歩も引こうとはしない様子だ。困り果てた父親は、納得した訳ではないが、ここは折れるしかないと判断した。
「分かった。正式に約束は出来ないが、幕田君のゆぅ事も充分配慮してから、これから息子の言い分もちゃんゆぅて聞く事にする」
 今、父親が言える精一杯の事だった。まさか息子を引き取りにきて、その友人にこんな取引をされるとは思ってもみなかった。
「ありがとうございます」
 幕田が顔を上げた。その時、彼の顔は汗でびっしょりと濡れていた。彼はあの取引を平然とやり遂げた訳ではないのだ。張り裂けそうな程の緊張が、頭を下げてから常に彼を襲っていたのだ。それを見ると二橋は思わず幕田の肩を両手で掴み、目を潤わせながら彼に訊ねた。
「なんで、何でお前は、俺の為に、ここまでやってくれるんだ。中学の時だって、何で俺なんかに声をかけ続けてくれた。なんで、こんな俺なんかの為に」
 幕田は引きつった顔のまま笑い「俺を助けてくれた時に、お前も言ったじゃないか」と言った時、二橋は幕田の顔を見た。そして幕田はハッキリとした声で、言った。
「友達だからさ」

「それから、俺は喧嘩腰に親と接するのを辞め、冷静に俺の気持ちを伝えるようにし続けたら、東京の大学へ進学する事を許されました」
 高橋がその話を聞き、情けない顔をしながら泣いている。
「ううっ、うっ、幕田さん、本当に良い人ですねぇ」
「後から知った話なんですけど、幕田が俺の親父の仕事を継ぐとまで言っていたらしいです。流石にそれは親父も断ったそうですけど」
「ホントに、イイ人れすねぇ」高橋の呂律が回っていない。良く見れば、高橋の顔が真っ赤である。二橋は嫌な予感がした。
「高橋さん、まさか」
 二橋が高橋の座っている椅子の下を見ると、空の一升瓶が転がっていた。さっきからずっとワンカップを飲んでいる割には、中身が減っていないと二橋は思っていたら、実は高橋はずっと、一升瓶のお酒をワンカップに入れてこっそり飲んでいたのだ。
「こんなもの、いつの間に会社に持ち込んでいたんですか。っていうか一杯だけって言ったでしょう」
 二橋が高橋を叱ると、高橋が反論する。
「一杯を何度も飲んだんですぅ」
 高橋はお酒に強いが、ある意味こういうところはお酒に弱いとも言える。目の前にあるお酒は全部飲み干してしまうタイプである。
「高橋さん、もう今日は寝てください。後は俺がやっておきますから」
「うん、すみませぇん」
 彼女を仮眠室に連れて行き寝かせると、二橋は戻り、仕事を再開した。
 幕田の話をした事で、二橋は改めて彼との友情を再確認した。そして二橋は、幕田みたいに、誰かの為に生きる事が出来るのだろうか、と思うのだった。
 それから数日、周りの人間も驚く程の手際の良さで、仕事を進めていった二橋。そして遂に幕田の手術が行われる、日曜日がやってきた。

 日曜日、二橋はこの日も仕事であったが、午後から休みを貰った。二橋が休みの申し出をすると、上司は渋ったが、彼に休みを与えた。これ以上二橋がヘソを曲げても困るからだ。
 二橋は午後になると会社を出て、近くの喫茶店で机の上に携帯を置いて、珈琲を頼んだ。家に帰っても良かったのだが、もし幕田に何かがあった時、狭い自分の部屋で一人でなんか居たらきっと潰れてしまうんじゃないかと思い、人の居る喫茶店にやってきたのだ。ここなら泣きそうになっても、人の目を気にして、泣かないかもしれないと。
 幕田の手術はちょうど、二橋が休みを貰った午後一時からだった。二橋が喫茶店に入った時には、もう手術が始まっていた。二橋は珈琲がくるまでの時間が、とてつもなく長く感じた。この一分一秒が、幕田の命に関わる時間なのだと思うと、時計の針も、携帯の時計の、一秒毎に点滅するのを見ても、遅く、遅く感じる。
 珈琲がきても電話はこない。それを飲む事が出来ず、ホットコーヒーがアイスコーヒーになるまで待っても、電話はこない。喫茶店の中、一人だけ遅い時間の中で待ち続ける二橋に、三時間以上が過ぎた時、電話が鳴った。その音に緊張しつつも、慌てないように、携帯を手に取る。画面を見ると、幕田からの着信。二橋はそれを見ると、大きく息を吐き、心の底で喜んだ。本人からだ。つまり手術は成功した。二橋はそう思い、電話に出た。
「もしもし! 幕田か!」
「――あぁ」
「大丈夫だったのか! 成功したのか」
 二橋は思わず大声を出してしまった。周りの人たちから痛い視線を浴びて、二橋は少し冷静になった。
「成功、したよ」少し小さくて聞こえづらかったが、二橋はその言葉を聞き逃さなかった。『成功』という言葉を。
「良かった。本当に良かった」
「手術が終わって、まだ間もないから、後で、掛け直す」
 二橋の感情的な喜びとは対照的なゆっくりとした声で喋ったと思うと、電話は切れていた。二橋は、幕田の手術が成功した事の喜びをそのままに、会社に戻った。戻ってきた二橋を見て、上司は驚いたが、二橋が「仕事をします」と言い、張り切って仕事を始めたので、何も言えなかった。高橋はそれを見て、幕田の手術が成功したのだと確信した。
 そしてそのまま、幕田の手術が終わった後、二橋の受け持つプロジェクトが終わるまで、結局一ヶ月以上かかった。その間、幕田からの電話は無かった。

 プロジェクトは大成功だった。功労者はもちろん二橋。そして、二橋は少し長い休みを貰い、田舎に帰る事にした。
「いよいよですね、二橋さん」
 二橋が会社から帰る支度をしている途中、高橋が二橋の背中を軽く叩く。
「高橋さん、今回の事で色々とお手伝いをしてもらって、本当にありがとうございました」
 二橋は高橋に礼を言った。高橋は照れながらも笑顔を見せた。
「私は別に、何もしてないですよ。ほとんど二橋さんだけでやっちゃうんですから。二橋さんは凄い人です」
 これは高橋の本心からくるものだった。実際、二橋の仕事ぶりは目を見張るものがあった。しかし高橋は、その仕事ぶりを見て、ある心配がよぎっていた。それは二橋の夢『独立』である。今の彼の手腕と、後はいくらかのコネを作っていけば、本当に彼はその夢を叶えられる高みまで来ていた。高橋はそれが、素直に喜べず、そうなれば二橋と別れる事になるんじゃないかという不安が、頭の中をよぎる。だけど表にはそういう事は一切出さなかった。それは彼女が、素直に喜べない自分が、嫌になるからである。
 帰り道、高橋が二橋と別れる時。
「それじゃ、しばらく俺は田舎に帰ってますから、仕事の方、よろしくお願いします」
 と、言って、二橋は定期券を取り出した。
「あ、二橋さん。ちょっと待って下さい」
 高橋が二橋を呼びとめる。
「はい」二橋は定期券を改札に入れる前に、振り返った。
「田舎に帰るのは明日の昼ですよね。じゃあ少しだけ飲みに行きませんか、幕田さんの手術の成功を祝って」
 高橋はこの時、本当にお酒が飲みたかった訳ではない。ただもう少しだけ、二橋と一緒に居たかったのだ。
「そうですね」二橋が少し考える。
「いや、いいんです。ちょっと誘ってみただけですから」高橋はそのまま帰ろうとした。
「いや、行きましょうよ。どうせ今日はこのまま帰っても寝れないと思いますから」
 振り向いた高橋の顔は明るかった。
 二人は近くの居酒屋に入り、ビールを頼んだ。二橋が冷たいビールを一気に半分近くかっこんで、一息ついた時。高橋のビールは全然減っていなかった。珍しい事だった。彼女にとってビールなど水のようなものなので、例え大ジョッキだろうと一気に飲み干すことが普通なのだ。
「飲まないんですか?」
 二橋がそう聞くと、高橋は少しだけビールに口をつけ、そのままジョッキを置いた。
「今日はゆっくり飲もうかと思いまして」
 あの高橋さんがこんな事を言うなんて。放っておいても酒を飲みつくすあの高橋さんが。とマジマジ高橋を見ながら二橋は驚いた。
 その時、居酒屋に流れていた有線で、懐かしい曲が流れ始めた。それに反応したのが二橋だった。
「あぁ、懐かしいのが流れてますね。これを聞くとあの時のカセットデッキを思い出します」
 高橋がそれに対して興味を示した。
「カセットデッキですか? それもまた、幕田さん関連の話ですか?」
「はい」
「是非聞かせてくださいよ」
 二橋は全くお酒を飲んでいない高橋を見て、今日は話をしても勝手に飲みすぎているって事はないかもしれない。と思い、幕田の話を始めた。
「あれは、僕が東京の大学に受かって、上京の用意をしていた頃ですね」

 その頃、二橋は自分の家で引越しの準備をしていた。とはいっても生活に必要最低限なものを持っていき、残りはあちらで買い揃えようとしてたので、あまり準備に時間はかからなかった。
 結局東京に行くまで、二橋は幕田の家に入浸りだった。この時はもう幕田は農業の仕事を始めていたので、時々二橋はその仕事を手伝ったりもしていた。
「悪いなぁ二橋。手伝ってもろぉて」
「なぁに、どうせ東京に行くまで暇なんだし。何かやってないと体がなまっちまうよ」
 そうやって二橋は上京までの時間を潰していた。この頃にはもう二橋の両親も何も言わなくなっていた。
 そして二橋が上京する日がもうすぐという日。その日も二橋は幕田の家に居座っていた。仕事を終え、疲れた体を癒すためにお互いの体をマッサージしたりなんかもした。
「夜は暇だなぁ。なぁ幕田、なんか面白い事ないか」二橋がマッサージを受けながら言った。
「じゃあマッサージ代われよ」
「俺はさっきやったから」
「トランプなんかもやり飽きたしなぁ。そうだ、この前買ぉたアレを持ってこよう」
 そう言うと幕田はマッサージを中断し、カセットデッキを持ってきた。
「おっ、遂に買ったんだ。ってことはあのバンドの曲も入ってるのか」
「もちろん」そう言うと幕田はカセットデッキの再生ボタンを押した。テレビから録音したものなので、音質が悪かったが、それなりに聞けた。
「おー、涙ぐましい努力の結晶だね」
 二橋は笑いながらその曲を聴いている。
 カセットデッキを買ったはいいが、肝心の曲のカセットテープがどこにも売ってなかったので、幕田は何も入っていないカセットテープを買い、テレビで放送した曲を録音したのだ。
「CDなら売ってたんだけど、CDプレイヤーが高かったけぇな。でも俺はこれで十分さ」
 静かな田舎の夜に音楽だけが聞こえる。しばらく二人はその音楽に聞き入っていた。そしてその曲が終わると、幕田がある提案をした。
「なぁ、せっかく録音機能があるんだから、何か俺達の声を録音せんか」
 二橋はその提案にのった。
「いいぜ。でも何を録音するんだ? 歌なんて恥ずかしくて嫌だぜ俺は」
「別に歌わのぅてもええさ、録音ボタン押して適当に喋ってみようぜ」
 そう言うと、幕田は録音ボタンを押した。しかし押した瞬間に二人とも黙ってしまった。何を喋っていいのか分からず、二人はお互いの顔を見て笑った。
「幕田、なんか喋れよ」
「お前こそ」
「そうだ、たまにゃお前も方言喋れよ」
「やだよ、せっかく標準語に変えたのに」
 その日の夜、幕田の家から楽しそうな話し声がいつまでも続いた。

「それだけですか?」
「それだけです」
 高橋はどこかガッカリしている。今まで幕田の話は、何かしらの事件が絡んでいたから、今回の話はどこか物足りなかったのだ。
「懐かしいなぁ。あのカセットデッキ、まだ残ってるかなぁ」
 二橋がしみじみと酒を飲んでいると、高橋は先ほどのビールを一気に飲み干した。
「すいませーん、おかわりー」
 結局、この日も高橋はかなりのお酒を飲んだ。店を出た時、彼女は少し足元がふらついていたが、いつもと違い、意識はハッキリしていた。
「高橋さん、大丈夫ですか。送りましょうか」
 二橋が心配しながら高橋に肩を貸した。
「大丈夫です」
 高橋はどこか寂しそうな顔をすると、二橋に言った。
「二橋さん! 幕田さんに会いに行っても、必ず帰ってきて下さいね。絶対帰ってきて下さいね」
 強い口調で言われた二橋は、不思議そうな顔をした後、笑って答えた。
「もちろんですよ。幕田は大事な友人ですけど、ここには帰ってきます。それは幕田も同じ気持ちでしょう。俺が田舎に留まるって事は絶対無いですけど、もしそうしたいって言っても幕田は許してくれませんよ」
 それを聞くと高橋は安心して、倒れそうな体を二橋に預けた。
「ちょっと高橋さん。大丈夫ですか」
「私は大丈夫です……大丈夫……」
 しばらくそのままで。二人の時間はゆっくりと流れた。

 翌日、二橋は電車に乗り、田舎に向かった。
 彼は幕田に電話をしなかった。入院しているであろう相手に電話をかけるのもなんなので、幕田には連絡を入れず、サプライズ的に会いに行ったのだ。久方ぶりの田舎、あんなに嫌っていた田舎だが、今は帰るのが楽しみだった。長い事会っていない、親友に会えるのだから。
 二橋が田舎に一つしかない大病院に行き、幕田の事を聞くと、既に退院したとの事だった。そこまで回復しているのかと。二橋は浮かれながら幕田の家にたどり着き、中に入ると、そこには幕田の写真が飾ってあった。そしてその写真の周りには花やらなんやと沢山置かれている。瞬時に状況を飲み込めなかった。真二が突然の来客に驚き、申し訳なさそうな顔をして正座している。そして二橋が状況を理解する前に、彼は「申し訳ありませんでした」と、深深と頭を下げ、手をつき、二橋に謝罪した。そこで二橋はその写真が、幕田の遺影であるという事に気が付いた。
「どういう事なんだ」二橋は、真二に問う。真二は何も隠すことなく、その問いに答え始めた。
「実は、兄が手術を受ける前に、頼まれていた事があります。それが『もし手術が失敗しても、二橋には成功したと伝えてくれ』というものでした。もちろん僕はそんな事は出来ないと言いましたが、兄は『邪魔したくないんだ、俺はあいつが都会で手に入れた、活躍の時を、邪魔したくないんだ』と泣きながら、僕に頼みこんだんです。」
 二橋は呆然としながら、その話を聞いている。
「実は、手術が成功したと、電話をしたのは、僕なんです。兄の携帯から電話をすれば、声が似ているから、兄のふりが出来ると思って、その方が、怪しまれないと思って。申し訳ありません」
 二橋の目が虚ろになっていく。
「手術は失敗しました。正確には、手術を受けるだけの体力が、既に残っていなかったのです。そして兄は自主退院をして、数日後、この家で静かに息を引き取りました」
 幕田が死んだ。いや、既に死んでいた。二橋は更に気が遠くなっていく。彼があの電話を受け取ってから、たった数日後に、幕田は死んだのだ。その時、二橋は必死に幕田に会う為に仕事をしていた。二橋は、もう思考が停止する直前にまで、気が抜けていた。
「だけど、その数日間で、兄が二橋さんに残した物があります」
 二橋はそれを聞いて、やっと正気に戻った。幕田が残した物。一体何なのか。
「それは何だ」
「これです」それはあのカセットデッキだった。二橋はそれを懐かしく思い、手に取り、マジマジと見つめた。
「まだ残っていたんだな」
「カセットテープはもう入っています。聞きますか?」
 真二が二橋に聞く。
「もちろんだ」
 二橋はゆっくりと、カセットテープをデッキに入れ、再生ボタンに指を乗せ、息をのみながら押した。そうするとジィーという低い音と共に、幕田の声が聞こえてきた。
『よぉ二橋、久しぶりやな。これを聞いている時にゃ、俺は死んでいるんやろうな。もうお前とは会えん思うと、自然に涙が出てくる。俺もまさか、こんな若さで死ぬたぁ、夢にも思っていなかった。もっと色んな事をしたかった。けど、今更、愚痴ってもしゃぁないよな』
 デッキから聞こえる幕田の声は弱々しく、震えたものだった。
『あと、お前には謝らないといけん。俺はとんでもない嘘をついたんだ。生き死にの、嘘をついてしもうた。それも弟を使って。けど真二は責めないでやってくれ。あいつは最後の最後まで、俺の意見に反対じゃった。でもあの時、俺の手術が失敗じゃったと聞いたら、お前はきっと、いや絶対に俺のところに来ていただろう。仕事を投げ出してまで』
 二橋は、確かに彼の手術が失敗していたら、仕事など関係なく、すぐに幕田に会いに行っていただろう。幕田は、そんな二橋を理解していたのだ。
『酷すぎる嘘だとは分かっとる。許してくれとは言えないし、言わない。だけどな、邪魔だけは、したくなかったんだ。お前の夢の邪魔だけは。お前が叶えたい、夢、都会に行って、一流企業で働いて、いつか独立するって、夢を、壊したく、なかったんだ』
 幕田が必死に涙を堪えているのが分かる。嗚咽している。幕田も辛かったのだ。二橋の為に酷い嘘を付く事を選んだ事が。
『俺の最後の嘘を、分かってくれたぁ言わん。今更そんな都合の良い事は、言えない。だけどこれだけは覚えておいてくれ。お前の為に、俺は本当にお前の為を思うて嘘をついた。後悔しとらん言うたら、嘘になるが、俺は自分で正しかったと思う』
 二橋がカセットデッキに向かって、何かを呟こうとしたが、とても声を出せる状況じゃなかった。その後も、幕田の遺言は続いた。
『それと、これを聞いてるって事は、仕事を終わらせてきたって事だよな。二橋、お前ならきっと大成功を収めてきたんだろう。お前に任せたら、なんだって出来そうだもんな。仕事だって、お前が失敗する姿より、成功する姿の方が、よっぽど想像し易いよ』
 幕田の声がどんどん小さく、弱々しくなっていく。
『そういや昔、お前が俺に聞いたよな。何故、こんな俺なんかの為に、そこまでしてくれるのか。って。あの時は友達だから、と言うたけど、本当はそれ以上の理由があるんだ。お前みたいに、夢に一直線に向こぉて何かを努力しとる奴を、俺は他に見た事が無かった。俺自身だってそうさ。生きる為に働かなぁいけんから、夢なんて見てる暇、無かった。だからこそ、お前を見ていると、何だか嬉しくなってさ。みんなが地元で働く事で、家業を継ぐ事で満足しようとしとるんに、お前だけは、ただひたすら、上を見ていた。そんな二橋が、凄いと思った、偉いと思った。俺はその時、決めた。俺の夢は、お前の夢を、叶える手伝いをする事に』
 二橋はそれを聞いて、拳を握りしめた。幕田の声はもう、微かに聞こえる程度。掠れた声。
『死ぬのは怖い、怖いけど。それ以上に怖いっちゅうか、嫌なんが、これからのお前を見れん事だよ。ごめんな。でも、俺達ずっと、友達だったよな。これからもずっと、友達だよな。俺はもうそれだけで、満足だ。俺の分まで生きて、人生を楽しんで、夢を叶えてくれよ……親友』
 幕田の遺言はそこで終わっていたが、テープはまだ続いている。幕田が好きだった、懐かしい曲が途中から始まる。それが終わると、幕田と二橋、彼らの話し声、笑い声が、部屋に鳴り響く。
『じゃけぇ何か喋れって』
『お前が喋れよ』
『よーし、それじゃジャンケンだ』
 二橋はそれを静かに聞きながら、呟いた。
「不思議だよな。幕田はもう、この世にいないのに、もう会えないのに、声だけはこの小さな機械に残されているんだ。声だけが、幕田の声だけが、この世に残っている。不思議、だよな」
 二橋は座りながらカセットデッキをじっと不思議そうに見つめている。その目は潤んでいたが、決して涙を流してはいなかった。その姿はまるで蓄音機の前に座る犬のよう…………
 真二は、その姿を見て、思わず泣き出してしまった。「今、一番辛いのは二橋さんだ。弟の僕じゃない。兄の大親友だった二橋さんなんだ」
真二はまだ、幕田の死に目に会えたが、二橋は彼が死んだ事すら知らなかった。なんて残酷な事だろうか、真二は一体どうやって二橋に謝ればいいか、何をすればいいのか分からなかった。
 テープが終わると、カセットデッキはカチャっという音を立てて止まった。二橋はしばらく、そこに座ったままだった。真二が謝罪を始めるまで。
「二橋さん、本当に、本当に、申し訳ありませんでした。僕があの時、嘘をつかなかったら、兄の言う事を聞かなければ」
「頭を下げるのは止めてくれ。真二は何も悪くないさ。それに、幕田は正しかったよ。もしあの時手術が失敗だと聞いたら俺は、何があってもここに来ただろう。その後の事もかえりみずに。幕田は昔からそうだった。あいつは大人なんだ。でもそれでいて、やる事はガキっぽい。そんな幕田は、ちゃんと俺の事を見てくれていた。そして知ってくれていた。あいつは本当に、良い奴さ。こうやって、声も残してくれた」
 二橋がカセットデッキを持ち上げて、それを見つめると、初めて、彼の目から涙が零れた。

 二橋が東京に戻ると、駅には高橋が待っていた。二橋は帰る時間を教えていたので、彼女は二橋を迎えに来たのだ。その時に、二橋は幕田の事を全て話した。
 高橋はその話を聞き、思わず涙を流しかけた。しかし二橋の顔を見ると、涙を流せなかった。彼の顔はとても爽やかで、とても親友を亡くした様には見えなかった。高橋がそれを不思議に思い、二橋に何故かと聞くと、彼はこう答えた。
「確かに幕田は、もうこの世には居ません。だけど、彼は最後まで、僕と親友でした。もちろん今も、彼とは親友です。彼はずっと僕の中にいます。そしてこの中にも」
 彼はポケットからカセットテープを出した。それはあのカセットテープ。幕田が二橋に残した最後の声。そして二人の思い出。
 こうして二橋は日常に戻った。夢を追い続ける日常に。

「真二さん。オッケーです。今回はこれでいきましょう」
「ありがとうございます」
 幕田真二。彼は今、作家である。もう一人の男は、彼の担当。
「だけどこれ実話なんでしょう? ノンフィクション小説になりますね」
「実話というか、実話を基にした話ですね」
「でもこの二橋って人は実在している訳でしょう。二橋さんはこの後どうなったんですか。高橋さんとも結構良い線いってたのに、その話は書かないんですか?」
「それはまた別のお話になりますから。今回は二橋さんと兄の事を書いて、それを色んな人に知って貰いたかったんです」
「そうですか、でもちょっと教えてくださいよ、この後の二人がどうなったか」
「結婚したそうです。二橋さんにこの小説の許可を取る時、取材もしたんですが、その時、言ってました」
「へぇー。そういえば二橋って聞いたことある名前……あっ! もしかして!」
「気が付きましたか。最近、有名になり始めた、あの会社の社長さんですよ」
「す、凄い人だったんですね。これはある意味、二橋さんの自伝でもありますね。相乗効果で更に売れますよ、これは」
「そうですかね」
「あと、タイトルのニッパーなんですけど。結局、犬なんて、最後の方の比喩でしか出てきませんでしたけど、これって何の犬なんですか?」
 真二は笑って、答えた。
「もしこの話を読んでから、あなたがその犬に興味を御示しになれば、調べていただく程度で結構です」


 あなたはニッパーという犬をご存知ですか。


~数年後に書くあとがき~
秋生字連です。noteではまだ自己紹介をしていませんでしたね。
今度また別記事でちゃんとした紹介をしますので今回は簡単に……
秋生字連(アキミ ジレン)という名前で小説を書いています。現在はノベルゲーム『魔女は空を飛べない』を制作中、noteでは手記的小説『物語らないモノ語る』を不定期連載中です。
諸事情によりしばらく創作から遠ざかっていましたが、平成を使い切って令和になってからやっと本格的に活動をしていこうと思っています。

ということで今回掲載させていただきました『ニッパー』ですが
これは僕が大学生のころに書いた作品で初の万字越えの作品であります。
数年前の作品で今読み返したら少々(どころではない)恥ずかしさがありますが、根本は変わっていないなぁという感想です。あえて一切手を加えずに掲載しております。

元々ニッパーという作品のアイデアは高校生の頃に温めていた作品で大学のサークル誌を出すときに「これしかないやろ!」といきこんで書いた作品です。

今の自分の作品もそうですが、基本的に『特別な関係を持つ二人』が好きなんですね。二橋と幕田、この作品では『友情』をテーマにしていました。アイデアの元になった絵画『His Master's Voice』は亡くなったご主人と可愛がられていた犬という話があります。それを友情に置き換えて自分なりに作品に仕上げてみました。

ちなみに話は繋がっておりませんが、次作に『ライカ』というお話があります。こちらの作品のテーマは『家族』になっております。そちらもまた近いうちにnoteにあげますので、今回の作品がもしも気に入ってくれたのなら、あるいはふと時間が空いたのならば、皆様のお暇つぶしにでもなれば幸いです。

当時の掲載誌のあとがきでも書きましたが、表紙を依頼して快く描いていただいた、さとう華純さま。ありがとうございました。今後もどうかよろしくお願いいたします。

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長々と失礼致しました。

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