私が救ったオッサン

 人生とは、不平等なものである。

 線路に転落した女子高生救出の記事を見た時、私は嫉妬に駆られながらそう思った。

 なぜ、救出した人があんなに褒められるのか。褒め過ぎではないか。私だって、同じように体を張って救出した経験があるのだが、記事になることはなかった。

 違いは、私が助けたのが女子高生ではなく、酔っぱらいのものすごく太ったオッサンだったことだけだ。

 もちろんこれは、大きな違いである。

 記事を読んだ際のイメージにも大きく差が出る。線路に横たわった女子高生ははかなげだが、太った酔っぱらいのオッサンは憎々しい。「勝手に死ね」と誰もが思うだろう。

 私だって、女子高生を助けたかった。だが、落ちたのは太ったオッサンなんだから仕方がない。

 仕事が山積みで、私はその日も最終電車を待っていた。そのオッサンがホームをフラフラ歩いているのには気がついていた。私は酔っぱらいが嫌いだから、少し距離をおいた。

 しばらくして、大きな音が響いた。ドサッという音ではなく、バンッという破裂音に近い音である。振り返ると、太ったオッサンが線路の上に横たわっていた。

 二人が線路に降りたのだが、あの巨体では、二人じゃ足りないのは明白である。周りを見回すと、どこかのグラフィックデザイナーらしき若い女の子と目が合った。

 彼女の目が「あんたも降りなさいよ」と言っている。仕方なく私も線路に降りたのである。

 オッサンを立たせ、ホームの人間と協力して引き上げる。

 今思い出しても腹立たしいのだが、私は、オッサンの巨大な尻を押す係になった。筋金入りのフェミニストかつナルシストの私が、なぜ、こんな酔っ払いのオッサンのでかい尻を押さねばならないのか。実に遺憾だ。

 なんとか引き上げられたオッサンは、柱を背に座り込んだ。意識はあるようだが、目はうつろだった。右の鼻の穴から血が流れていた。

 地上の改札口にいる駅員は結局ホームに姿を見せることはなかった。あの転落事故はなかったことになっているのだろう。翌日の新聞の記事にも載らなかったのである。

 反対側のホームに列車が入ってきて、私はそそくさと乗り込んだ。こんなところに長居しても、不快なだけだ。外を見ると、オッサンと視線が合った。相変わらずうつろな目だった。ブルっと背筋が震えた。

「怨霊退散、怨霊退散、オンベイ・シラマンダヤ・センチキ・ヤソワカ」と呪文を唱える。車窓には、私のげっそりとした顔が映っている。仕事で疲れ果て、その一日の仕上げが、これか。

「でも、あのオッサンが脱糞していなかっただけマシじゃないか」と私は自分を慰めたのである。

 あのオッサンが、もし女子高生だったなら、と私は夢想する。

 翌日の新聞には、「あき大介さん、お手柄。女子高生を救う。すてき~っ、キスしたい~っ(女子高生談)」などと載っていたに違いないのだ。

 世の中のなんと不平等なことか。

 かつてトーマス・ハックスリーは言った。

「すべての人間が、いかなる意識においても、またどんな時でも、自由かつ平等であり、そうであったという教義は、まったく根拠のないフィクションである」

 身も蓋もないことを言うんじゃないよ、と私は思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?