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安直な同質化~対話会に参加して~

しごと総研のなっちゃんとおゆみさん主催の対話会に参加した。

テーマは、「安直な同質化」。

この対話会のことを知った段階では、
参加したい!という思いと
全く知らない方ばかりだろうし、
組織とは無縁だし、
なっちゃんとは6年前にグラファシの講座を
受講したご縁でつながったけれど、
ほんとにゆるいつながりだし、
参加しちゃっていいのだろうかという迷いが
生まれては消え生まれては消えを
繰り返していたのだが、けっきょく、
開催当日の朝、勇気を奮い立たせて
参加表明した。

えー、躊躇するなんてそんな部分も
あるんだねーって
驚かれるかもしれないけど
元々小心者の人見知りなもんでwww


グラフィックファシリテーション 山田夏子&伊澤佑美(しごと総研)*以下同じ

結果、参加して、とても良い時間を過ごせた。
年齢層は40代以上多数って感じだったけど、
途中から30代の方の参加もあって、
世代、経験、環境などさまざまな違いから
それぞれの発言にも個性があって、
気づきや学びや内省の種みたいなものもたくさん芽生えたし。

私だけでなく、なっちゃんとは
つながっているけど、それぞれは初めましての方ばかりの参加だったので、
チェックインは、自己紹介の後、
なつかしの朝の情報番組ズームインの
ズームインポーズよろしく、
「チェックイン」と叫ぶと、
ニックネームを皆さんが一斉に
呼んでくれるという形式で。
それでけっこう場が和んで、
良い感じのスタートとなった。


わたしは、どちらかというと、
同質化したくない!
長いものに巻かれたくない!
という気持ちが強い。

だけど、安直な同質化がダメだ
とまでは思ってなくて、
あまり考えなくていい楽さだとか、
疎外感を味わわなくて済む安心感とか、
その方が場合によっては生きやすいとか
そういう気持ちを持つときももちろんある。

具体的には、子どものPTAの役員をするとき
なんかは、
自分のとがった部分をちょっと隠して
PTAなんていらなくね?とか思いながらも
役員をすることを拒否することはなくて
暗黙の了解や前例踏襲にも空気を読んである程度
従うこともあった。
自分でいろいろ決めて進められるにように
あえてリーダー的な役割に立候補したりして
したたかに乗り切る感じで。
私にとっては、
「同質化」は自己決定権を奪うもの
というイメージだから、
自己決定権を守るというところを
手放さないようには意識するし、
協調はするけど同調はしないように
意識もする。
でも、考えてみると、これって、
自分を守る手段ともいえるよなぁ。

大量生産大量消費が良いとされた時代には
同質化したほうが成果が上がったのだろうし
その環境で生きていれば、
同質化=生きやすい=幸せ
という式が成りたっちゃって、
それが自分の基本OSみたいになって、
自分の子どもにも悪気なく
その価値観をよいものとして
伝えてしまう現象が起こってしまうのは
しかたないもかもしれない。
さらに、学校でも、
点数や道徳的規範で評価され、
罰で律することが正義とされる時代も
あったわけで、
その場合、コントロールしやすい方が
都合がよいのだから、
同調圧力が自然と強化されていってしまうのも
仕方ないことなのかもしれない。
そういう環境であれば、安直に同質化することが
自分を守る手段にもなる。

ということは、
同質化しないことも
同質化することも、
時と場合により、
両方ともが自分を守る手段になりうる
ってことでもある。

これはおもしろい気づきだった。

そして、今はまさに時代の過渡期。
新しい世代である子どもたちは
すでに多様であることや創造性が高いこと、
個性的であることやある種の異質性を
あって当たり前ものとして自然に認識し始めて
いる感じがある。
とはいえ、昔の価値観も色濃く残っていて
そこの矛盾に社会全体がなんだか翻弄されている
感じもする。

対話の最後の方で、安直な同質化と
安直でない同質化の違い
について話題に上がったけれど、
私の中では、安直か安直でないかの違いは
無意識的か意識的かの違いかなという
感じがした。

自分の頭で考えて、あえて同質化を選ぶなら
それはそれでいいと思う。
ただ、答えをせかされたり、
答えを先に与えられたりするのが日常で
自分の頭で考える時間や機会を奪われた結果、
安直に同質化を選んでしまうのだとしたら、
無意識的に同質化することが
自分を守る手段になっているのだとしたら。

考えない方が楽だから、
その方が生きやすいから、
まわりの言うとおりにする方が間違いがないから
と安直な同質化を受け入れを繰り返していると、
考えたり感じたりしなくなってしまい、さらなる
負のループに陥る気がする。

生きやすい道を選んだはずが、
考えたり、感じる心を失ってしまう結果を
招くとしたら、 それは恐ろしいことだ。

言葉にしなくても相手のメッセージを
読み取る能力、
空気を読んだり、行間を読んだりできる
ハイコンテクストな文化を
日本人は持っているといわれる。
そして、それ自体はとてもすてきな能力なのに、
忖度するために使ってしまうことも多い。

その日本人のハイコンテクストである
という独自性を、
忖度するために使うのではなく、
状況をよく観察し、多角的多面的によくみて、
よくきいて、よく感じるために使えたら、
何かが変わる気がする。

もちろん、まずは、自分自身をよく観察して、
自分の頭で考え感じること、
自分自身を尊重することが先だけど、
自分がきこえている、みえているものだけが
世界の全てではない。
そこに意識的であれば、
いつか相手のことも同じように
尊重できるようになるのではないだろうか。
お互いに自分の生きたいように生きることを
認め合うことができたら、
同質と異質とかそんな区別は
必要なくなるのかもしれない。

そんな社会になったらすてきだな。

改めてこの場をつくってくれた
なっちゃんとおゆみさんに感謝するとともに
ご一緒してくださって、いろんなお話をきかせてくださったみなさんにも感謝します。
そして、圧巻のグラフィック!
2度おいしい?!素敵な時間をありがとうございました。

すべてのグラフィックファシリテーション 山田夏子&伊澤佑美(しごと総研)

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