ロング・グッドバイ(1973)

決定的なコンセプトによって彩られた映画というのがこの映画の第一印象でした。ロバートアルトマンという監督にとってルールは破るためにあるのでしょう。しかも定型とか常識を破った上での自分ルールに対してはそれらを徹底的に守るのです。そこにはいつもカリスマ的な魅力が漂っています。

とにかく作品的な演出ルールがはっきりしています。そして、それらがこの作品独特の魅力になっています。まずひとつ、分かりやすいのはカメラワークでしょう。ゆらゆらと揺れる、と言っても謂わゆる手ブレとは違うので酔ったりはしません。終始FIXで撮られたカットは1カットも無く、ズームアップorダウン、パン、トラックアップorバックなどあらゆるカメラワークでとにかく静かに動き続けます。普通はカメラワークというものは心情を演出するために使われるもので、ここぞ、という時に使用されるものです。そのカメラワークを目立たせるために必要なのがFIX、つまり止めの絵なのです。

しかし、アルトマンはこれを全て破壊して、その上で自分ルールを設定します。映画を見ていて驚くのが、カメラワークのペースが常に一定であるという事です。要するに、これは周到に演出された1つのコンセプトなのです。あるカットでは、あまりにもゆっくりとズームするので「編集時に光学ズームを施したのか?」と思いきや、被写界深度が変化しているのに気づいてレンズで行ったズームであることが判りました。撮影監督は最初から、ズームもトラックバックも全て一定のペースで撮ることを要求されたわけです。歩くようなペース、とでも言うべきでしょうか、そのようなゆったりとしたペースで動き続けます。このルールが破られるのは、夜の海のシーンと、車を追いかけるシーンだけです。ここでは、どちらも主人公であるマーロウが「慌てて走り出す」というアクションがあります。どこまでも主人公のムードに寄り添ったカメラワークがなされています。
笑ってしまったのがメキシコで犬の交尾にズームしていくカットです。あれはどう考えても偶然撮れてしまったもので、あっと気づいたカメラマンが咄嗟にズームしたと思われます。その際のペースまで、しっかりと他のカットのペースに合わせられているのです。そしてアフレコで加えられた「ワン!」の声とともにカット。こういった偶然を利用できる監督は、映画を味方にすることのできる人です。


分かりやすいコンセプトの2つ目が音楽です。音楽はジョンウィリアムスが担当していますが「ロング・グッドバイ」という表題曲にシーンごとのさまざまなアレンジを施して使用しています。メキシコの葬式でも同じ曲が演奏されていて、この辺りはもはやギャグとして機能しています。メロディを聞くと、あ、またあの曲だ。というストーリーとは全く関係ない演出のコンセプトが観客に意識され(それが退屈とか手抜きとは違って)オリジナルな魅力になっています。


アナモルフィックレンズによって撮影されたと思われるボケた光の美しさ(縦長の楕円形になる)。近年ではJJエイブラムス等が多用するスミア光、レンズフレアも随所に見られます。多重露光かと思いきや、ガラスに映る主人公の姿、など驚きの撮影も頻出します。作家の妻と主人公が2人きりになったシーンでは突然セピア調になったり、向かいの家に住む娘達のおっぱいに必ず客人が見とれたり、マッチを擦るのが常に壁とかテーブルだったり、移動のシーンが省かれていたり、事件は探偵が突き止めるのではなく誰かの口から語られていってしまう、などなど。この作品でアルトマンが設定したルールの1つ1つが挑発的で驚きに満ちた作りになっています。それらのルールを見つけて、それに注目して見てみるという楽しみ方ができる作品だと思いました。いまだにカルト的な人気を誇っているのも納得です。

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